『さよなら名探偵』(アーリー・ベルナ)
君はもう読んだだろうか。あのベルナの新刊を! と、キャッチコピー的に始めるのもたまには悪くない。もちろんレビュアーたる筆者は以前よりベルナの大ファンと公言している通り、原著発売の時点で入手していたのだが、英語が苦手な筆者としては本を開くことに少々二の足を踏んでいた。にもかかわらず、こんなにも素早く日本語訳が読めるとは思わなかった。ひとりのファンとして、あるいは英語が苦手なダメレビュアーとして、出版社の迅速にして大胆な英断には感謝しきりである。
さて、賢明なる読者諸氏には再度伝えるべきだろう。タイトルは『さよなら名探偵』。知る人ぞ知る短編SFの名手であったアーリー・ベルナが、ついに長編ミステリを書いたことで、英国で発売前から期待されていた一作だ。ここで気になるのが邦訳したのが誰か、という点だ。なにしろミステリであるからには、訳者の言葉の選び方に色々と思うところが出てくるのも仕方ない。ジャンル小説にはジャンル小説なりの作法があり、それは一般小説のそれとは似て非なるものなのだ。とはいえ、いきなり不安にさせておいてなんだが、ご安心いただきたい。訳者はあの砂原居波女史である。いくつかの難解な事件(アリストテレス殺人事件、業魔殿事件、名無し連続殺人事件など。本筋ではないので有名事件だけ列挙した)の解決に貢献したことで、現実に存在する安楽椅子探偵として知られている彼女だが、その本業は(新本格よりも変格)ミステリ作家であり、ベルナの邦訳作品の巻末で解説として呼ばれたことがある。
もちろん、いくら砂原女史が実在の名探偵であろうと、翻訳の出来とは関係無いと言われる向きもあるだろう。筆者もそう思う。だが、ご安心を。読み終えてタイトルを見直した瞬間、そのような疑いを抱いた己を恥じることになると筆者が保証する。
原著タイトルは『PERFECT DETECTIVE』Aele belnna著。この題名は直訳すれば『完全な探偵』とするのが普通だろうか。筆者なら、もう少し洒落っ気を出して『純粋な名探偵』とでも付けて、購買者の大半から顰蹙を買いそうである。パーフェクトには正確な、最適の、理想的な、すばらしい、なんて意味合いもあるらしい。前述したように英語が苦手な筆者からすれば、どうしたらパーフェクトな訳が可能なのかは想像の埒外である。
で、砂原女史は『さよなら名探偵』と訳した。そうなのだ。難解なパズルをひたすらくみ上げるように、誠心誠意にして公平だが悪辣なまでに隠蔽された秘密と謎を探り当てるように、作中世界に浸りながらも、一方でその外側から俯瞰するように読書を続けるのが一般的なミステリの読み方と筆者は理解していた。本文を読み終えた筆者が頁を閉じ、そのタイトルを再発見した瞬間の驚きといったらもう! さよなら名探偵。一度このタイトルを知ってしまえば、この作品には他のタイトルなど似合わない。これこそパーフェクトだと思った。あるいは原著のタイトルすらこれに比べればいくらかの瑕疵があるようにすら感じた。驚愕と納得を同時に感じ、そしてそれは予想を覆しながらも期待に応える一作。これだ、ミステリとは、この感覚を味わう知的娯楽に他ならないのだ!
とまあ、ミステリならではの最後の一撃を、最後の一行のさらにあと、この盤外から喰らったのは筆者だけではないと信ずるところではあるのだが、絶賛ばかりもしていられない。筆者はベルナのファンではあるが、それなりの国内ミステリ読みであり、それ以上に一介のレビュアーとしてこの原稿を書いている。フェアなミステリを前にして、アンフェアなジャッジに興じるのはさすがに躊躇われる。読書体験としては最高だったと断言するが、しかし、この話をミステリと呼ぶべきかについては当然意見が分かれるだろうし、筆者としても言及せざるを得ない。
この話には様々な人間がいて、事件の舞台があって、恐ろしい謎が隠されていて、過去には悲しい出来事が存在し、各所に思いがけない仕掛けが施され、鋭い推理があり、やがて、ささやかな秘密と記憶に残る台詞、そして驚くべき結末が現れるのだけれど、ここに名探偵はいないのだ。いや、もっと正確な表現を心がけるのなら、こう書くべきだろう。登場人物のひとりが語った台詞からの引用となるが、『あのひとは、決して名探偵とは呼ばれない運命なのだ』と。
ありとあらゆる謎と意思が複雑に絡み合って生まれた状況には偶然と必然と一匙の奇跡が混在し、そして善意と悪意と幾ばくかの誤解によって連鎖的に発生し、それゆえに決して誰にも解けないことが約束されていたはずの難事件。誰ひとり自らの犯行であると自覚のないまま、しかし誰もが手を穢すことになり、そのくせ証拠は何一つ残らず露と消え、犯行どころか被害者そのものが煙のごとく消え去る、追求も不可能でありながら、そもそも発覚すらしない完全犯罪。いや、これでも語弊がある。そのひとつひとつも、すべてが明らかになったとしても、それは犯罪ですらないのだ。そんな静かで残酷で、それでいて哀しみに彩られた事件に、名探偵(便宜的に、こう呼ぶことにする。)は挑むことになる。事件の詳細を語るのはレビュアーの仕事ではない。ただ、ことのあらましと、どうしてそうなったのかの背景、最終章で明かされた真実によって、読者もまた本当は何が起きたのかを知ることになるのだが、このとき、この物語において名探偵が存在し得なかったことを理解する。そして最後の結末に辿り着く。
作中にあるもう一つの台詞が、名探偵が持つ運命、あるいは彼らの悲哀を言い表している。これは先行作品からの引用と思われるが、孫引きとして筆者も繰り返そう。『名探偵は遅刻魔だ。いつも手遅れになってから現れる』。何に遅刻するのか。それは事件の発生に対してである。金田一耕助しかり、シャーロック・ホームズしかり、名探偵とは事件とセットで乞い求められ、その混迷の解決者として振る舞うことを決定づけられた存在である。すなわち、名探偵と銘打たれることは、彼らにとって(おそらくは)決して名誉なことなどではないのだ。そして頭脳明晰なる名探偵と呼ばれる人種は、誰に言われずともその事実に気づいているに違いない。さあ、原著のタイトルに今一度目を向けて欲しい。パーフェクトディテクティブ。彼ら自身が名探偵として振る舞うことは、それ事態がパーフェクトではない状況なのだ。この矛盾を、作者たるベルナは物語として描き、訳者たる砂原女史はタイトルで補強した。筆者は『さよなら名探偵』にて描かれた名探偵を、『PERFECT DETECTIVE』として扱うことに一切の異論がない。英語に苦手なダメレビュアーでも、原著タイトルが意味するのは「完璧な探偵」であって「名探偵」ではないことは察せられる。それでもそこにいたのは本物の、完璧な、すばらしき「名探偵」なのである。なぜなら、ここに描かれた誰にも認められない「名探偵」は、前述した超難解にして解決不可能が決定づけられた事件そのものを、いざ発生するその直前に、居所を失った悲劇が再び顔を出す暇も場所もその余地すら与えず、完璧に、完全に、無欠に、解決してしまったのだから。
だから、これをミステリと呼ぶのは、実のところ躊躇するのだ。起きなかった事件に名探偵の存在は不要とばかりに、本格にありがちな問題篇もその輪郭だけが残っているに過ぎない。解決篇のみの(しかし逆算していかなる問題が形成されたかが予期できる非常に緻密で計算された構成の)小説を、多くのミステリ愛好家は認めないだろう。それでもこの話は広義のミステリであり、謎があり、解決があり、我らがいつか愛した名探偵の活躍する物語であり、そして名探偵が真に求むる結末を認めさせる一作なのだ。名探偵は事件に挑み、謎を解き明かし、犯人を見つけ、真相を見出し、そうして解決することで、起きてしまった出来事を終わらせる。だが、彼らはたぶん、ここに現れた(そして去りゆく)名探偵のように、何も起きないことこそ本当に願っているのだ。
ベルナの新作であり、砂原女史が訳した『さよなら名探偵』について、語るべきことは語ったと考え、レビュアーはここで筆を擱くことにする。
最後に、原稿執筆中に思いついたタイトル訳案をもうひとつ。『また会おう名探偵』なんてどうだろう。砂原女史の訳は実に見事というか、まさにパーフェクトだけれど、この愛すべき名探偵にさよならを言うのが少し寂しかったのだ。
ともあれ、これぞベルナの真骨頂という出来で、筆者のお薦めです。傑作ですので、どうぞ皆さんもお読みになってくださいな。以上。