『そして私が始まった日を想おう』(七塚ねね子)
とうとう七塚ねね子氏による15年ぶりの新作が出ましたね。断筆したという話は聞かなかったので、いつかは出るとは思っていましたが、本当に、ねね子氏の新刊が読める日が来るとは……感無量です。ああ、待っていて良かった。
ご本人が後書きで書いていることでもありますが、この本の出版にあたっては様々な障害があったとのこと。詳しくは語られておりませんが、きっと余人には計り知れない苦労があったのでしょう。くわえて、巻末に付された参考文献のリストには正直度肝を抜かれました。300冊近くはあろうかという人類学、社会学、生物学、物理学、考古学、そして大量の人類史と歴史書……。どれだけの資料を当たったのか、その苦労が窺えるというものです。
また、序文にて触れられている『完全な真空』(スタニスワフ・レム)、『チグリスとユーフラテス』(新井素子)、『2999年のゲーム・キッズ』(渡辺浩弐)といった小説に多大な影響を受けたことを忘れてはならないでしょう。ねね子氏がこれらの本を読まなければ、おそらく、小説の完成どころか、構想段階にすら辿り着くことはなかったのかもしれないのですから。そういう意味で、私も心よりの感謝を捧げたいと思います。
この『そして私が始まった日を想おう』ですが、その内容は上に挙げられた三つの物語、うち『完全な真空』と『2999年のゲーム・キッズ』内の短篇からはアイデアの一部を、『チグリスとユーフラテス』からは形式をそれぞれ借用している形になります。といっても無論、盗作ではありません。キーワードとしては、事物事象の連続性と確率、過去へ連なる因果の記録、逆さクロニクル、といったところに注目出来るかと考えられます。
それでは紹介に移りたいと思いますが、ここで書けるのは流れだけです。というのも、神は細部に宿る、この言葉の通り、事細かに調べられた史実やその解釈、また重厚な知識に裏打ちされた現象とその描写、数々の言葉の端々から漂ってくるその空気を言い表すことは困難を極めるものなのです。私が伝えられるのは最も表層的な部分、構成の妙技だけでしょう。巧緻を尽くし、完全に律された糸が縦横無尽に走ったタペストリの美しさ。それを知って頂きたいのです。タペストリに隠された意図を解きほぐす作業はあまりに難しいのですから。
さて、一人の少女がたった一人、滅亡した地球から脱出して生き延びようとするところから物語は始まります。この少女が主人公としての役割を負っていて、最後に残った全ての記録の観測者ということになります。一人だけ生き残ってしまったという事実が厳然として立ちふさがっており、彼女はそうした状況を知ったのち、態度を決めかねていました。彼女は選ぶことができました。
つまり、重大な責任に対してそれを果たそうとするか、押しつぶされてしまうか、その二つの選択肢が与えられていたのです。何をするか、何が出来るかさえ分かっていない状況で、彼女はその決断をするために必要な情報を求めようとしました。帰るべき星はすでに滅び去り、また広大な宇宙には他の知性体が存在していないと確認されていた時代のことです。戦争によって様々な行為が制限され、宇宙に飛び立つことは誰にも許されていなかったのです。しかし多くの人間が死に絶えた今、彼女を止める者は誰一人としていませんでした。
何の偶然からか生き残ってしまったという、それだけのこと。すなわち、地球と共に自殺するか、宇宙に行って寿命を全うするか。最悪でも食料が保つだけのあいだは生き続けることが出来るのです。たとえ宇宙空間に漂うことが無為で、絶望を意味するとしても。
この物語に必要な機構として――多少ご都合主義であることは否めませんが――ひとつの機械がありました。前述した「過去へ連なる因果の記録」を知るための機械です。これは、あらゆる事象の最も高いであろう原因を調べることが出来るという代物です。
少女は、散々に迷った末、この機械を使うことに決めました。必要なのは情報だったのです。人類どころかあらゆる生物が死滅するに至ったこの戦争が起きた原因は一体何だったのか。それを知るために。
機械は最も身近なことから教えてくれました。いくつかの遠因の重なりと、最後にその決定を下した人間の背中を押した出来事。(直截的には、ありきたりな核戦争が起きたのでした。付け加えれば同時に発射された核は予想の数十倍という威力で大国を焼き尽くしました。少女が生き残ったのは稀有な偶然の結果です。それも孤島にあるシェルターの奥深くにいたこと、周辺の島が壁の役割を果たして直截の被害を免れたこと、何より、少女がパニックを起こさず冷静に行動したことによるのですが)とかく、人間は脆い生き物でした。何もかもが運が悪かったとしか言いようの無いタイミングで起こったせいで、自分も他人も巻き込んでの自滅を引き起こしたのです。
本当は、核のボタンを押す気など、誰にも無かったのです。事故でした。小さなミスが積み重なった末にあった、哀しくて、取り返しのつかない事故。だけどもうそれを知るものはもはや機械と少女しかいないのです。
その明確な悪意の不在たる偶然を引き起こしたことさえ、また別の偶然の作用によるものです。あるいは善意と云うべきやもしれません。領事館に勤めていた職員の善意。一枚のメモを同僚のために置いていったこと。家族愛。両親が娘のために近くの店で巨大なくまのぬいぐるみを購入し、自宅へと配達するよう頼んだこと。職業意識。命令を遂行しようとして軍人が戦闘機に乗り込み、その整備を行っていたエンジニアを叱ったこと。様々な要因が一度に、時間軸としてはほぼ同時に、起こりました。ぬいぐるみを乗せた配送車は道路を走り、まっすぐにプレゼントを待つ少女の元へと向かっていましたし、その仕事熱心な運転手が休憩をすることなく車道で速度を上げていったことも、その車の後ろを走っていたパトカーがエンジントラブルで急停止したことも、思いがけない偶然によるものでした。
遡れば、その原因はどこまでも後退してゆきます。大統領がボタンを押すに行き着くまでに止められたはずの人間がそこにいなかったこと、彼の母親が前日の朝に亡くなっていたこと、機械の調子が悪くなかったこと、気候条件も問題がなかったこと。すべては定められていたかのごとく、連なっていました。
あらゆることには原因があります。
その原因を造り出していたのは、辿れば全く無関係な他人の元に向かうのであり、またその他人を動かし、彼や彼女の周囲の環境に影響を与えたり、与えなかったりした別の誰かが存在していました。国家間が戦争状態で睨み合いを始めてしまったのは、何百年か前から連綿と続いた小さな諍いが積み重なった結果でしたし、それを解決する手段を持ち合わせていた誰かが最後まで力を発揮することも無かったせいでもあります。作為と不作為が複雑怪奇に絡み合い、誰もそれに気づかぬまま、あらゆることが、ゆるやかな滅亡として未来に繋がっていたのです。
因果を教える機械は時を遡って、少女にその記録を伝え続けます。
小さな悪意。たとえば仕事場からかかってきた電話を受けた少年がいます。彼は数日前両親が約束していた遊園地に連れて行ってくれなかったからという理由で、急用と聞いていたのに黙っていたのです。このような些細な出来事は世界中にありました。そのうちの幾つかの出来事は愛情溢れる、幸福だった家族を破滅に導きました。また別の家族は悲劇を免れました。二つのものを分けたのは運だったのかもしれません。しかし、どちらにもたいした差が無かったことも、事実なのです。両親が遊園地に連れて行ってくれなかったのは、少年が悪かったのかもしれないし、少年のためだったのかもしれません。遊園地がテロの標的になっていたから、なんて理由もあり得るでしょう。そこにあるのはすれ違いであり、しかし原因は厳然として過去に留まっていました。
小さな善意。たとえば仕事場からかかってきた電話を受けた少年がいます。彼は数日前両親が約束していた遊園地に連れて行ってくれなかったからという理由で、すねてはいましたがちゃんと内容を伝えます。その結果起きたことは何かと云えば、両親が首をくくったということでした。電話の内容を一言一句伝えただけなのです。少年に罪はあるのでしょうか。彼が行ったことが間違いだったとは到底思えません。誰にも未来を知ることは出来ないのです。
横に広がっていた原因の流れは、真後ろへと進み始めます。戦争の始まり。国家間の紛争。権力の行使。代表者の選出。そのどれもが誰かの意志があり、偶然があり、必然がありました。繋がりは時に悲劇を演出し、また時には喜劇を作り出しながら、最後の収束に向かっていたように見えます。後ろに戻るたび拡散していくように見えるのは錯覚ではありません。因果が連続するのは別に一つの事実に対して一つだけというわけではないのです。すなわち多数の事象がひとつの現実、現在に変わり、また多数の現在と現実がひとつの未来に向かっていくのでした。
ゆえに、多数――過去への無限の拡散はまるで殉教者の列にも似て、整然と、豁然と、蜘蛛の巣のごとく広がっていったのです。
逆さクロニクルの形式は、それの確認のためでした。組み立てては崩壊を繰り返す歴史の流れは、現在という一点から見たとき、常に莫大な選択の果てであったことを示します。いいや、そう示しているようにしか見えないのです。そしてその無数の選択肢の終焉であったかのように見せかけている記憶や記録というものの欺瞞を、追憶と感情の断続性を、少女は口にするのです。
その因果の流れについては、レムの『完全な真空』中に収録されている短編『生の不可能性について』のみ読めば事足ります。ここでは確率論と事実起こっていた現象とのすれ違いが語られているのです。『そして私が始まった日を想おう』では、この不可能性を巧みに利用し、あらゆることが――特に起きてしまったことが――常に一切の可能性を切り捨てたあとの形であることが理解されてゆきます。少女の目に映るのはあらゆる行為と結果を作り出したものなのです。そこに行き着いたのは多数の、そして無限にも似た、だからこそ唯一の出来事達の収斂したものに過ぎません。歴史を描いたのは可能性ではなく、人間や事物、現象、気候、偶然などの、起こりえて、そして起こった事実そのものだったのです。あらゆるものに等しく価値があり、また等しく価値が無いのでしょう。これから起こることを除いて、すべては覆せぬ事実であり、今や傍観することすら叶わぬ過去でしかなかった。それだけのことなのです。
西暦2000年を通り過ぎると、まるで巻き戻されたテープを見ているような気分を味わうことになります。もはや手を出せない日々のすべての記録。逆に言えば、記録だからこそ手を出せないことが運命づけられている、とも。原因を突き詰めていけば、どこかでその流れは交わることになります。ひとつの小さな悪意が何万、何億もの憎悪を生みだしかねないことは誰に否定されるものでもありません。歴史が証明する事実に過ぎないのです。一人の行為が他人を巻き込みながら歴史を作り上げてきたのです。正確には、何億もいる一人ずつの、各個人の一挙一動が自他の区別なく影響を与えていったのです。この世界に生まれ来た者は、あるいは生まれなかった者ですら、存在という概念に触れた瞬間から世界を作り上げる現在の一つと化すのです。1900年、1800年、1700年と戻り行く時間は速度を増してゆきました。当たり前のような日々と、誰もが知っている大きな出来事は時に重なり、時に弾き合いながら、早さを緩めることなくその上流へと昇っていこうとします。かすかな出来事が500年後の伝染病を救うこともあれば、1000年前の人間の何気ない一言が万単位の兵士達を死地に追いやりました。失われた記録、改ざんされた記録、様々な記録を駆けめぐり、機械はすべてを映し出そうとします。やがて人類が宗教を手にした瞬間を映し、そこからさらに先には火を手にしたところも見ることが出来ました。現在の人間が常に他者の影響を受け続けて存在していることは否めません。ひとの存在は、いえ、存在するということは常に他者と世界を必要とします。事象と現在という外界に因るのです。どんな人間も一人では生きることはおろか、生まれてくることすらできないのです。個人という全体の中のひとつは、常に別の何かと繋がっています。真実、独立して存在するものは誰にも知覚できず、誰にも理解されず、また誰とも永久に重なり合うことのない時間の流れの中に生きているものなのですから。
ここでも未だ映像は止まってはいません。生命の進化を逆流していくうち、人類を破滅に導いた因果の流れはどこかに行き着こうとしていました。
少女はやがて、生命の誕生の瞬間を見ることになります。
それは混沌であった海のなかで、栄養素と、様々な条件が合致したとき、単細胞生物が発生したのを知ることでした。そして映像はそこから前の時間を見せることをやめました。過去への旅路は一応の終局を見たのです。
そして、少女は気がつきました。
その発見の意味は、心というものが得る認識の変化は、あまりに圧倒的な質量をもって読者まで迫ろうとします。それは、あまりに単純な真実でした。
生まれたから、死ぬのです。
生命が死という機構を内包していることは云うまでもありませんが、これはそういうことではありませんでした。ただ当たり前の事実として受け止めざるを得ない、そんな乾いた、そして美しい事実でした。
人間もまたそうなのです。生きとし生けるものが何故滅亡するかといえば、存在しているからなのです。無は無のまま変化することはありません。この物理法則に支配された世界において、概念の底にぽっかりと空いた虚無以外のすべて――この概念さえも含んで――は、無限に等しくはあっても決して無限そのものではなく、また永遠に在り続けるものは絶対にあり得ないのです。因果の鎖は常に現在という状況に過去より繋がり、未来へと続いていくという形を取ります。終わりがあるのは始まりがあったからだ、という理解は、単純ではありますが、それゆえに否定の不可能な真理でもありました。
少女はこうも思います。幸運と不運は、悲劇と喜劇は、悪意と善意は、時間と存在は、所詮は同じものなのだと。それは一枚のコインの裏表ですらないのです。投げたのち、テーブルの上で一方の面を上に落ちたコイン、その面を今更のように裏か表かを定義しようとしているに過ぎないのです。結果は出ているのですから、どちらでも同じことでしょう。何もかもは相対的であり、多寡と観念を弄ぶことをしているだけなのです。現在だけがすべてを認識できます。あるいは現在だけが存在しているとも言えます。未来も過去も錯覚に過ぎません。存在するものだけが、定義を可能とし、それを翻すことも出来る。しかし本質に手を触れることはできないのです。そのくせ、現在以外の何物をも動かし得ないがために、今という瞬間は、絶対でもあるのです。
少女は機械を、手にしたバールのようなもので叩き壊すと、宇宙へと飛び立つことを決めます。そこには狂気の手触りを持った空虚な絶望しか無いのでしょう。しかし、彼女は過去に連なるあらゆる可能性がすでに否定されたものであることを知っています。不可能性に目を向けるのは不毛すぎます。未知を信用するにしても、やがては諦めが訪れるでしょう。ならばどうするか。欠片ほども無い救済を求める気は毛頭ありません。本当に助けがあるのなら、助かりたいとは思うでしょう。しかし少女は必死になりながら、前を見て、ただ前だけを見て、灼熱の広がる地球からの脱出を計るのです。
シャトルは漆黒の宇宙空間の何処かに消えてゆきます。彼女は最後にこんな言葉を残し、物語から姿を消してしまうのです。残るものは瞬くもののない暗黒。もはや誰も見ることのない世界となった地球は、闇に飲み込まれるようにして失われてゆきます。彼女は二度と振り返ることはなかったのでしょう。ただ、思い返すことはあったのかもしれません。
「そっか。……生まれたから、いつか死ぬんだね。だったら生き続けるために生きるしかないや。今はまだ、すべてが続いているんだもの。何もかもが終わりながら、前へと向かっていくしかない。あたしは生きてる。ずっと、最後まで――あたしとして、生きていくんだ」
この物語の魅力を語ろうとするには、私はあまりに力不足ではあります。ただ、この小説が肯定の物語であることだけは、知って欲しかったのです。どんなひどい悪夢のなかにあっても、どれほど苦しい現実のなかにあっても、何かを肯定することをやめたら、ひとは生きていけません。七塚ねね子氏がどうしてこんなに心震わせる物語を紡ぐことが出来るのか。それを知ることはできなくとも、この物語を読むことはでき、そして、感動はそこから生まれるのです。