『三ヶ月六日十六時間二十分三十九秒』(コーダ・マクスウェル)
コーダ・マクスウェルの『三ヶ月六日十六時間二十分三十九秒』という小説がやっと手に入ったんで夜通し読み耽ってたんだけどさ、いやはや、噂で耳にしていたとはいえ聞きしにまさる挑戦的な作品だったよ。
このタイトルから内容を推測出来る人間がいるとすれば、なかなか鋭い直感力と音楽の知識を備えていると言っても構わないだろうね。教養とはまた無関係の部分での……そうだなあ、あらゆるものをまず受け入れる姿勢というか、はね除けるだけでは立ち行かないことを理解した態度とでも言おうか。
とりあえず内容について触れる前に2ページ分ほど引用してみようか。大丈夫。この程度なら面白さを減じることにはならないよ。断言する。なにせ300頁あるなかの、最初の数頁からだしね。
ここから以下、引用だよ。
で、この上まで。引用終わり。どうだい、驚いただろ?
いやいや炙り出しとか想像されても困るんだけど、この真っ白な状態が延々300頁弱続くわけだよ。本文に入る前に注意書きも記されているからこれが壮大なミスなんかじゃないってことも間違いないんだ。引用部分に何か隠されていると思って色々試してくれたひとには済まないけど、まさにこの白紙状態こそがマクスウェルの作品の真骨頂なのさ。
初めに書いたことは、つまりジョン・ケージの作曲した『4分33秒』のパロディという側面を持っているからなんだ。その名曲の編成は「いかなる楽器または楽器の組み合わせでもよい。ただし音は出さない」という、それまでの曲という概念を根底から覆すようなものだったわけ。僕も一度演奏会で聴いたことがあるけど、あれには驚いたね。いやホント、ストップウォッチでわざわざぴったり4分33秒間を計るんだもの。でも無音ってわけじゃないんだ。演奏者の外側で鳴っている全ての音を音楽として成立したと見立てる。この発想は並の作曲者には思い浮かぶようなもんじゃないよね。そもそもこんな曲を発表したらさ、まず間違いなく批判の目に晒されることは分かり切っているようなもんじゃない。そこをあえて真正面から踏み切ったジョン・ケージは尊敬に値するってのが、現在の一般的な評価だね。
でもって、『三ヶ月六日十六時間二十分三十九秒』を語るに当たってはもう一つ参照しなきゃいけない傑作があるのさ。日本の漫画家のひとりでね、川原泉というひとがいる。彼女による『3分44秒』はまさしくパロディという名目に相応しいし、マクスウェルがこの二種類のうちどちらか一方ではなく、両方に影響を受けたっていうのは別の作品の後書きで直截語った内容から指摘できることなんだ。
この『3分44秒』が何より素晴らしいことは、ジョン・ケージとまるで同様の手法を使いながら、全く別の精神性を表したってところなんだね。音楽と漫画っていう極端に異なる、それでいて芸術性の高い媒体を介したことで、これは表現の受け手側に想像の自由を完全に受け渡したことになる。だけど、それだけじゃないんだ。ジョンはそういう曲として『4分33秒』を作り上げた。川原泉はオマージュでも剽窃でもリスペクトでもなく、その『4分33秒』の意味を丸ごと取り込んだ上で高い次元から描き、明確な別の視点を読者に与えたんだ。つまり手抜きという意図をあからさまに明かすことにより、笑いとしての作品に仕立て上げてしまったというのがすごいところ。ジョンの作曲から45年後にこうやって光を当てただけでも記念碑的な意味が強いんだけどさ。
付け加えると、自由に見せかけてはいるけど、実際にそこにイマジネーションを投射しようとした読者はおそらく一人もいないんじゃないかな。僕は物は試しと思ってやってみたんだけど、自覚的且つ、自発的に区切られたコマの空白内へとイメージの投影をするのは、意外に難しいものだったよ。たぶんこの制限された自由の授受は偶発的に出来てしまった作用なんだろうけど、芸術の価値はいっそう高まると思うね。なぜなら、偶然っていうのは奇跡の別名だから。
問題は、マクスウェルがこの『三ヶ月六日十六時間二十分三十九秒』を単なる偶然や思いつきではなく、計算の元に描ききったことにあるんだ。彼もまた他のどんな精神性の発揮でもなく、パロディとしてこの作品を出版したんだけど、そこには悪意の棘が多分に含まれていると思われたのさ。この悪意は自分以外の全ての作家に対する攻撃なんだ。この棘を引っこ抜こうとすると、どうしても自分の血を流さざるを得ない。だから大抵の作家達は長い沈黙を守る羽目に陥ってしまったし、マクスウェルの作品を無かったこととして対処しようとしてる。たとえ白いカンバスに目を向けなくとも、想像は必ず内部から漏れだしてくるものなのにね。誰もが経験しているように、絵は最初、カンバス上に表現されるものじゃないんだ。何より先に頭の中に生まれているんだからね。そこを踏まえておかないと、彼の攻撃を甘んじて受けるしかなくなってしまうってこと、何人がちゃんと分かっているんだかなぁ。
これは当初、小説の自由と呼ばれる考え方への攻撃だとされたんだ。よく言われるように、何を書いても良いし、どんなふうに書いても許されるべきだ。ならば本文中にあえて文章を一切書かないものすら、小説と呼んでも一向に問題は無いはずだ、とね。多くの評論家は当然にそう受け取ったし、そんな中でも一部の人々は過敏に反応したんだ。読者の読み方を制限するべきではない、なんて口を酸っぱくして持論をぶっていた作家達は特にすさまじい拒絶反応を示したのさ。ま、確かに、読者を最も縛り付けるのは作品内の文章だってのは自明だし、そういったものから強制的に自由にするのに、最適な手段であったことは言うまでもないってこと。
ほら、そう考えれば、盲目的に自由が素晴らしいものだと判断する思考の持ち主に対する、徹底的な攻撃以外の何物でもないことに気づくでしょ?
参照すべきことにひとつ、彼の面白い発言を挙げておこうか。マクスウェルの作品は他に想像の余地を作らないほど微細且つ綿密に描写するのが特徴だからね。何もかもを書きすぎると言われているんだ。それを批判されたとき、薄笑いを浮かべて「読者に結末を委ねる? 委ねるだって? 他の作家は皆そうしているだって? 嘘を言っちゃいけないな。書かないだけで自分なりの正解はしっかりと決めているくせに、それを書く勇気が無いだけだろう? 作家なら、自身で決められないものなんか初めから書かなければいい。作家は自らの作品にあらゆる意味で責任を持つべきだ。読者をにわか作家に仕立てあげてどうするんだ?」
もちろん、現代には純粋な読者がいなくなってしまったから仕方がない、みたいな論点をずらそうとした異論もある。つまり世の中にいるのは作家か作家予備軍か、そうでなければ作家崩ればっかりだ、とね。これにマクスウェルは反論しない。まあ、内心では馬鹿め、と嘲笑っているんじゃないかって言われていた。
言われていたんだけど……別の著作『透明な蛇達の輪』では文脈について語って、それを読んだ人間を驚かせたそうなんだ。これは『三ヶ月六日十六時間二十分三十九秒』の直後に発表された作品なんだけど、矢継ぎ早に出されたことから平行して書いていた(『三ヶ月~』を書いていた、というのは語弊があるかもしれないけれど)なんて風に受け取られている。そこでは文脈についての議論が交わされる。小説としての文脈であり、歴史、時代の文脈でもある。異なるコンテキストの中で文章は、たとえ全く同一の単語ですら、意味が変質してゆく。それは内部的な装置によるのではなく、外部からの、特に受け手側の意識のためだ、とまで言い切っている。
あのボルヘスの書いたような、ピエール・メナールによる『ドン・キホーテ』の再執筆という偉業すら褒め称えているんだ。これは少しばかり矛盾していやしないか? だって彼は小説の自由という形式と、読者の想像の自由という精神性に対してとんでもない大打撃を与えるような問題作を出したばっかりなんだ。
ここで、この文脈について触れていることこそが、彼の天才が認められた瞬間だと言ってもかまわないだろうね。あたかも大がかりなリンカネーションの儀式だ。ここで元は攻撃であり否定であるはずの300頁の虚無そのものだった白紙が、全ての作家と読者達への肯定へと転生を果たすことになる。
そう。その瞬間、何もかも最初から自由であったことが明かされるんだ。美しさが何に由来するのか。驚きがどこから来るのか。読者は容易く理解する。そして、マクスウェルの手腕に感嘆を禁じ得ない。誰もがこう言うんだ。――これは、まるで魔法のようだ! ってね。
つまり、作品を呪縛していた者は他の誰でもなく、作家や読者自身だったんだ。そして自由に意味など無く、その自由を如何にして塗りつぶすかこそが人間が歴史の中で本当に勝ち得ようとしたものだと彼は宣言する。マクスウェルは肯定されるべき自由の存在を証明したんだ。
閉ざされた自由とでも呼ぶべきあの作品を、躍起になって否定しようと棘を引き抜き血を流した者だけが寂しい思いをすることになった。口を閉ざし、沈黙によって彼の批判を甘んじて受け入れていた多くの作家達、か弱き者であった、と冠をつけられようとしていた彼らは、その棘の先に花が咲くことを知る。それも大輪の、青い薔薇が咲き誇るに違いないのさ。
彼は言っていた。作家には小説の自由がある。読者には想像の自由がある。この自由は真っ白な空白だけど、無ではないんだ。たとえば白いカンバスや白紙といった、未だ何も描かれていないものに過ぎない、と。
誰もがさらなる飛翔をすることができる。それは未だ存在していない新しいものを生み出そうとする。死に絶えた作品すらも蘇えらせようとする。それをするのは意志であり、心であり、魂なんだ。マクスウェルが願ったのが何だったのか。そこに手を伸ばすことの是非を問う者はいない。それは自由だからだ。自由であるがゆえに、全ては自ら決めるべきことだからだ。
僕は思ってるんだ。人間は想像することを許されている。英語圏の作家の多くがシェークスピアやウィリアム・ブレイクの引用を行うように、いつかコーダ・マクスウェルの『三ヶ月六日十六時間二十分三十九秒』から引用することは当然になるかもしれないってね。なぜなら、すべての文章は自由で、何もかもが真実で、そのくせ、想像を阻める者なんか誰一人いやしないんだから。