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「結婚しても母さんを優先する」と言った婚約者へ。私も、自分を大切にすることにしました

作者: 黒咲かぐら
掲載日:2026/10/13

「結婚しても、俺は母さんを優先するよ」


 婚約者の立花祐介は、当然のことのように言った。


「沙知にも、それは分かってほしい」


 テーブルの上には、祐介の両親の結婚三十周年を祝う食事会の案内があった。

 その日の午後、私の父は手術を受ける。


「あなたがお母さんを大切にするのは、分かるよ」


 私は、鞄から出した手帳を閉じた。


「私が父を大切にすることは、認めてもらえないの?」


 祐介は眉を寄せた。


「そういう張り合い方するなよ」


 祐介には、予定どおりお祝いに行ってほしい。

 私は父のそばにいたい。

 それだけの話が、どうして通じないのだろう。


     *


 祐介は、家族を大切にする人だった。

 付き合い始めて最初の母の日、帰り道で花を買っていた。


「母さん、こういうの好きなんだよ」


 花を抱えて笑う彼を見て、いい人だと思った。


 私も、両親とは仲がよかった。

 月に一度は顔を見に帰り、父の誕生日には、祐介が贈り物を選ぶのに付き合ってくれた。


「白石さんのお父さん、お酒は?」

「好きだけど、母が飲みすぎないようにって言ってる」

「じゃあ、グラスにする?」


 私が名前を入れられるものを探すと、祐介は店員さんに受け取りの日を確認してくれた。

 父が喜んでいたと伝えれば、彼も嬉しそうだった。


 この人なら、私の家族も大切にしてくれる。

 二年半付き合い、結婚を申し込まれたとき、そう思った。


 両家への挨拶を済ませたあと、祐介のお母さんから、週末の食事に誘われた。


「もう家族になるんだから、遠慮しないでね」


 最初は、歓迎されていることが嬉しかった。

 料理の感想を伝えると、お母さんは作り方を教えてくれた。帰りには果物を持たせてくれた。

 私も皿を運び、片づけを手伝った。


 次の週も、その次の週も、誘いは来た。


「日曜日、うちでご飯どう?」


 その日は、父と母に会いに帰る予定だった。

 そう伝えると、祐介は言った。


「お父さんたちには、来週でも会えるだろ。母さん、沙知が好きだって言ってた料理にするつもりなんだよ」


 申し訳なくなって、私は母に連絡した。

 母は「じゃあ、また今度」と答えた。


 翌週には、祐介の叔母さんが来るという。

 親戚に挨拶する機会だからと言われ、私はまた予定を変えた。


 食事のあと、男の人たちは居間でテレビを見ていた。

 私はお母さんと台所に立ち、叔母さんが持ってきた容器を洗った。


「沙知さんが来てくれると、助かるわ」


 笑顔で言われるたびに、途中で帰りたいとは言いにくくなった。


 その頃、住んでいる町の古本交換会にも、行けなくなっていた。

 数か月に一度、公民館に本を持ち寄り、紹介文を読んで交換する催しだ。私はときどき受付を手伝っていた。


 その開催日も、祐介の実家での食事と重なった。

 受付を頼まれていたので断ると、祐介は「代わってもらえないの?」と聞いた。


「私がやりますって返事したんだよ」

「別に、仕事じゃないんだし」


 その日は食事に行かなかったが、祐介は母親が残念がっていたことを何度も話した。


 婚約して一か月ほど経った頃、私は会う頻度を相談した。


「毎週は行けない。自分の家のこともしたいし、私の両親にも会いたいから」

「毎週、来いって言ってるわけじゃないよ」

「今月は、ほとんど毎週になってる」


 手帳を見せた。

 食事と親戚への挨拶で、土日のどちらかが毎週埋まっていた。


「来月は、最初の日曜日なら行ける。それ以外の日は、先に相談してほしい」


 祐介は「分かった」と言った。

 私は、言えば分かってもらえるのだと思った。


 でも、次の誘いを断ると、彼は困った顔をした。


「今回だけ、顔出してくれない? 母さん、楽しみにしてるんだよ」

「この前、相談したよね」

「そうだけど、少し行くくらいならいいだろ」


 少し、で終わったことはなかった。

 私が皿を洗っているあいだ、祐介は時計を見なかった。


「私の実家の予定と、あなたの実家の予定が重なったら、毎回私が変えるの?」

「毎回って決めてるわけじゃない。今回は、そうしてほしいってだけだよ」


 今回だけ。

 その言葉で、私の予定は後ろへずれていった。


     *


 父の入院について連絡が来たのは、祐介の両親のお祝いに出席すると返事をしたあとだった。


 手術は三週間後の午後に決まった。

 母から電話で聞き、父とも話した。


「仕事、休めそうか?」


 父がそんなことを聞くのは、珍しかった。

 実家に帰る日を変えても、いつも「忙しいなら無理するな」と言う人だ。


「休みは取れると思う。来てほしい?」

「……当日、顔を見られたら嬉しいな」


 いつもより小さな声だった。


「行くよ」


 私は答えた。

 母のためにも、父のためにも、自分のためにも、行きたかった。


 食事会は夕方から。病院から店までは電車を乗り継いで二時間近くかかる。

 当日の経過を気にしながら、途中で病院を出る予定にはしたくなかった。


 その日のうちに、祐介へ事情を伝えた。


『お祝いは欠席させてください。ご両親には私から連絡します。祐介は予定どおり行ってね』


 しばらくして、電話が来た。


「もう、二人で行くって言ってあるんだけど」

「ごめん。手術の日が今日決まったの」

「病院にはお母さんがいるだろ?」

「いるよ。私も一緒にいたい」


 受話口の向こうで、祐介が息を吐いた。


「こっちにも親戚来るんだよ。母さん、みんなに沙知を紹介するって話してる」

「紹介してもらうのは、別の機会にしたい。お祝いも、改めて渡したいし」


 出席すると返事をしたのはこちらだ。

 欠席の連絡も、お詫びも、自分でするつもりだった。


「お店の人数変更で費用がかかるなら、確認してほしい。私の分は払うから」

「金の話じゃないよ」


 祐介の声が硬くなった。


「母さんが、どう思うかってこと」


 私は口を閉じた。

 父がどう思うかは、聞かれなかった。


 翌日、祐介のお母さんにも電話した。

 父の手術の日が決まったこと、食事会を欠席したいことを説明した。


「病院には、お母さんがいらっしゃるのでしょう?」


 祐介と同じことを言われた。


「はい。でも、私も父のそばにいたいんです」

「こちらにも家族が集まるのよ。結婚前に顔を覚えてもらう、いい機会だと思うのだけれど」


 ありがたいお話ですが、と言いかけた。

 その先に、やはり行きます、と続けそうになった。


 でも、父の小さな声を思い出した。


「今回は、欠席させてください。急な変更で申し訳ありません」


 お母さんは少し黙り、「祐介と相談して」と言って電話を切った。


     *


 祐介と会ったのは、その週末だった。

 私の部屋のテーブルに、彼が食事会の案内を置いた。


「父さんたちの記念日だよ。毎年ある食事じゃないんだよ」

「分かってる。だから、祐介には行ってほしいって言ってる」

「二人で来ないと、母さんが寂しがるだろ」


 私は、会社に出した休暇の申請日を手帳で確かめた。

 もう、同じ説明を三度していた。


「私は、父のところへ行きます」


 そこで、祐介は言った。


「結婚しても、俺は母さんを優先するよ。沙知にも、それは分かってほしい」


 私が父を大切にすることは認めてもらえないのかと聞くと、張り合うなと返された。


 私は案内を彼のほうへ戻した。


「張り合ってない。あなたに、自分の両親を後回しにしてって言ってないよ」

「じゃあ、どうしてそこまで意地になるんだよ」

「父のところに行きたいから」


 声にすると、理由はそれだけだった。

 手術がどれほど大変か説明して、食事会より重要だと認めてもらわなければ、行ってはいけないのだろうか。


「私、あなたが花を買って帰るところを見て、いい人だなって思ったんだよ」


 祐介が、顔を上げた。


「自分の家族を大切にする人なら、私にもそうさせてくれると思ってた」


 彼は困ったように額を押さえた。


「結婚するなら、うまくやってくれよ。母さんと揉めたくないんだよ」


 私も揉めたくなかった。

 だから、何度も予定を変えた。

 父に会う日も、本を選びに行く日も、洗濯をするだけの休日も。


 譲れば、その日は丸く収まった。

 でも、次にはまた、私が譲ることになった。


「食事会には行かない。それから、結婚のことも考え直したい」


 祐介の手が止まった。


「そこまでの話?」

「私には、そこまでの話だよ」


 彼はしばらく私を見ていたが、やがて案内を鞄に戻した。


「落ち着いたら連絡して」


 私はうなずかなかった。

 その夜は、母に電話して当日の待ち合わせを決めた。


     *


 手術の日、病院で父に会った。

 私が着くと、父は壁の時計を見た。


「早かったな」

「遅れたくなかったから」


 母が鞄から父の眼鏡を出し、ケースを枕元に置いた。

 私は父に、退院したら食べたいものを聞いた。


「家のご飯でいい」

「何でも、は困るよ」


 母が言うと、父は少し考えてから、いつも母に作ってもらっている煮物の名前を挙げた。


「沙知も、一緒に食べていけるか?」

「もちろん」


 父が、私を見た。


「来てくれて、ありがとう」


 私はうなずいた。

 目元が熱くなって、父の布団の端を見た。


 手術のあいだ、母と並んで待った。

 誰かの機嫌を損ねたことは、頭から消えたわけではなかった。

 それでも、ここへ来たことを後悔はしなかった。


 手術を終えたあとの説明を母と聞き、必要な連絡を分担した。

 その日は実家に泊まった。


 母がお茶を出しながら、「今日は助かった」と言った。

 父のいない食卓に座り、私はようやく、自分も緊張していたことに気づいた。


「私も、一人で家にいるより、ここにいたかった」


 母はうなずき、向かいの椅子に座った。


 祐介からのメッセージを開いたのは、そのあとだった。


『親戚にも説明した。母さん、結構気まずそうだったよ』


 父のことを尋ねる言葉はなかった。

 私は画面を閉じて、お茶を飲んだ。


     *


 父の退院の見通しが立ってから、祐介と会った。

 外で話したかったので、駅前のカフェを選んだ。


「お父さん、もう大丈夫なの?」


 私は経過を短く伝えた。

 祐介は「よかったじゃん」と言い、続けた。


「だったら、母さんにも一言、連絡してくれない? この前は来られなくてすみませんって」


 私はカップを置いた。


「欠席することは、前もって説明して、お詫びもしたよ」

「そうだけど。あのあとも母さん、気にしてるんだよ」


 でも、次に何をするかも、祐介のお母さんに納得してもらうところから始めなければいけないのだろう。


「結婚は、やめたいです」


 祐介が、私の顔を見た。


「まだ怒ってるの?」

「怒った勢いで言ってるんじゃない。病院で待ってるあいだも、そのあとも、考えた」


 私は、手帳を出さなかった。

 私の予定があること自体を認めてもらえなければ、日を数えて見せても意味がない。


「私が自分の家族に会うのに、毎回あなたのお母さんの機嫌を確認する生活はしたくない」

「そんなつもりじゃないって。母さんに悪気はないんだよ」

「悪気の話じゃなくて、あなたと結婚できるかの話をしてる」


 祐介は黙った。


「お祝いに、あなたも来ないでとは言わなかった。私は父に会いたい。それを、意地を張ってることにされたのがつらかった」


 祐介は何度か口を開き、結局「ちょっと時間置こう」と言った。

 私は、結婚する意思は戻らないと伝えた。


 新居も式場も、まだ契約していなかった。

 それぞれ一人暮らしだったので、引っ越す必要はなかった。

 互いの部屋に置いた私物と合鍵を返し、受け取っていた婚約指輪も返した。


 自分の両親には、私から説明した。

 母は驚いたけれど、最後まで聞いてくれた。


「お父さんのことで、気を遣わせちゃったかしら」

「違うよ。前からあったことが、あの日にはっきり分かっただけ」


 母にまで、父の手術のせいだと思わせたくなかった。


 祐介側の両親への連絡は彼に任せた。

 食事会の人数変更に費用はかからなかったと確認でき、お祝いとして先に渡していた品についても、返却は求めなかった。


 最後の私物を受け取ってから、一週間ほどして、祐介から電話が来た。


「母さんも、今回は仕方なかったって言ってる」


 私は窓の外を見た。

 休日の午前中だった。洗濯物を干して、本を読みかけていた。


「だから、もう戻ってきてもいいんじゃない?」

「お母さんが納得したら、私たちの問題は終わりなの?」

「だって、母さんが怒ってたのが原因だろ」

「祐介は、どう思ってたの?」

「……別れるって言われてから考えたよ。母さんに沙知はもう来ないのかって聞かれて、毎回、俺が誘ってたことも話した。でも、母さんが納得すればやり直せると思ってた」


 胸の奥が、冷たくなった。


「祐介。私が結婚をやめた理由、まだ分からない?」

「母さんとの食事に行けって、俺が何度も言ったことだろ。そこは悪かったよ」

「何度も断ったのに、私の予定だけ変えようとしたこと。父の手術の日まで、そうだったこと。何がいけなかったか、ちゃんと考えてほしい」


 電話の向こうで、彼は黙った。


「……母さんは、結婚もやめるなんて思わなかったって言ってた」

「お母さんも、手術の日に来てほしいって言ってたよ」

「うん。そう言ってた。でも、最後に沙知に『うまくやってくれ』って言ったのは俺だ」


 初めて、自分の言葉を覚えているような声だった。


「母さんが喜ぶと、これでよかったんだって思ってた。沙知が嫌だって言うまで、俺、何も変えなかった」


 私は何も言わなかった。

 聞きたかった言葉に、少し似ていた。けれど、あの日、病院へ行こうとする私に聞かせてほしかった。


「……今からじゃ、遅い?」

「うん。私はもう、結婚するつもりはない」

「そうか」


 長い沈黙のあと、祐介が言った。


「お父さんの手術の日、俺、何も聞かなかったな。ごめん」

「ありがとう。でも、戻れないよ」


 復縁のための連絡は、もうしないでほしいと伝えた。

 彼は今度は引き止めず、「分かった」と答えた。


 電話を切ったあと、しばらく本を開けなかった。

 好きだった人との関係が終わったことは、やっぱり悲しかった。


 それでも、祐介が何を理解したかと、私がやり直すかどうかは別の話だ。

 午後は、自分のために使えた。


     *


 次の古本交換会へ行ったのは、父が退院してしばらく経った頃だった。

 病院と実家への行き来も落ち着き、私もいつもの生活に戻り始めていた。


 会場の入口で、牧田和彦さんが箱から本を出していた。

 以前、私が受付をしたときに一緒になった人だ。設備管理の仕事をしていて、勤務の都合がつく回だけ手伝っている。


「白石さん、お久しぶりです」

「お久しぶりです。今日は参加だけなんですけど」


 以前、結婚する予定だと話していたので、婚約を解消したことだけ伝えた。

 和彦さんは理由を聞き出そうとはしなかった。


「そうだったんですね。今日は、ゆっくり選んでいってください」


 箱を持っている彼を見て、私は自分の鞄を肩にかけ直した。


「何か手伝います?」

「今は足りてます。もしあとで頼んだら、そのときできるか教えてください」


 そう言われて、私は本の並ぶ机へ向かった。


 何か役に立たなくても、ここにいていい。

 以前は、それを特別に考えたこともなかった。


 文庫本を一冊選んだ。

 紹介文には、『最後の章を読んでから、最初の一ページに戻りたくなりました』と書いてあった。


 読みたくなって、持ってきた本と交換した。


「それ、俺が出した本です」


 帰り際、和彦さんが言った。


「あの紹介文、牧田さんだったんですね」

「中身を言わずに勧めるの、難しいですね」

「でも、気になりました」


 彼は嬉しそうに笑った。


 以前にも、この人の本を選んだことがある。感想を話すと、同じ本なのに覚えているところが違い、もう一度読みたくなった。


「読み終わったら、感想聞きたいです」

「次の交換会だと、だいぶ先ですね」


 言ってから、急に自分の言葉が大胆に思えた。


「よかったら、連絡先、交換しませんか」


 和彦さんが言った。

 私は顔を上げた。


「はい」


 名前を登録する。

 祐介と婚約していた頃は、会場で話すだけだった人が、私のスマホに入った。


     *


 読み終わったのは、その週の木曜日だった。

 私は本当に最初の一ページへ戻り、その感想を和彦さんに送った。


 彼からは、最後の選択について別の読み方をしたという返事が来た。理由をもっと聞きたくて、私からお茶に誘った。


 最初に提案した日は彼が父親に会う約束をしていた。翌週は私が実家に帰る予定だったので、会うのはその次の日曜日になった。


『待たせてしまいますね』

『楽しみが少し先になるだけです。俺は大丈夫ですよ』


 日を決めたあと、急に申し訳なくなったりはしなかった。

 その二週間、私は本を読み、父に会い、母と買い物をした。

 待ち合わせの日が近づくのも、楽しみだった。


 そして約束の日、和彦さんは待ち合わせの店に来た。


「お待たせしました」

「いえ、私も今来たところです」


 席につくと、彼が鞄から本を出した。


「買い直したんです。感想を聞く前に、もう一度読んでおきたくて」


 私も同じ本を出す。二人とも、今日のために持ってきていた。


 彼が最後の選択に納得していない理由を聞き、私は自分の読み方を話した。

 意見は変わらなかったけれど、相手の言っていることは分かった。


 次に読む本を教え合ううちに、カップが空になった。


「こんなに話せると思ってませんでした」


 和彦さんが言う。


「私も。交換会だと、立ったまま話して終わっちゃうから」

「白石さん、このあと時間あります?」


 私は腕時計を見た。

 冷蔵庫には、昨日作った夕食がある。帰りが少し遅くなっても困らない。


「あります」

「近くの古本屋、見ていきませんか」


 私はうなずいた。


「今日、誘ってもらえて嬉しかったです」


 古本屋の入口で、彼が足を止めた。


「二階に、古い文庫ばかり置いた棚があるんです。行ってみませんか」


 私は彼と並んで、二階へ上がった。

 棚にあった別の小説の話になり、私は主人公が最後に帰らなかった理由を話しかけた。けれど、棚の前に別のお客さんが来たので、場所を譲った。そのまま別の本の話になって、続きを言いそびれた。

 隣で同じ棚を眺めながら、また好きなものを探せた。


     *


 何度か会ううちに、和彦さんは月に一度、父親のところへ行っていると知った。

 お母さんが亡くなってから一人暮らしになり、顔を見て、一緒に食事をするのだという。


「父も予定があるんで、先に日を聞くんです。たまに友達と出かけるって断られます」


 彼は笑って話した。


 私も、父のことを少し話した。

 手術の日に病院へ行ったこと。今は家で過ごし、母と二人で少しずつ生活を整えていること。


「顔を見られたら嬉しいって、父から言われたのは初めてでした」

「会えて、よかったですね」

「ありがとうございます。……いつか牧田さんのお父さんにもお会いするなら、失礼のないようにしないとですね」

「そんなに気を張らなくても大丈夫ですよ」


 「会えて、よかったですね」という言葉に、胸の奥が緩んだ。

 行くべきだったかどうか、誰かに許してもらう必要はない。

 でも、会えてよかったと一緒に思ってくれる人がいるのは、嬉しかった。


 あるとき、母から実家の片づけを頼まれて、和彦さんとの約束を変更してもらった。

 難しければ母と別の日を相談するつもりだったが、彼は空いている日を二つ教えてくれた。


『ありがとうございます。こちらから約束したのに』

『大丈夫です。それより、本の結末はまだ言わないでくださいね』


 私は笑って返事をした。

 約束を変えたことより、次に会えることを考えていた。


     *


 和彦さんの父親の誕生日が近いと知ったのは、その二週間後だった。

 昼食を食べながら、彼が来月の予定を確認していた。


「次の土曜は父と食事なんです。誕生日なので」

「何を贈るんですか?」

「まだ迷ってます。毎年、欲しいものはないって言うんですよ」


 食事のあと、二人で商店街を歩いた。

 菓子店の前を通りかかって、私は足を止めた。焼き菓子の箱が、きれいに並んでいる。


「お父さん、甘いものはお好きですか?」

「好きですよ。どうして?」

「よかったら、私も何か……」


 言いかけて、店のガラスに映った自分を見た。

 まだ付き合ってもいない。会ったこともない彼のお父さんに何か贈らなければと思っている。


「贈り物を考えてくれたんですか?」

「……迷惑でしたよね。すみません」

「迷惑じゃないです。ありがとうございます。ただ、父への贈り物は俺が選びたいんです」


 和彦さんは店の前を離れず、私の返事を待っていた。


「何もしていないと、失礼かなって」

「白石さん、前にも父に失礼のないようにって言ってましたよね。何か心配ですか?」


 自分では覚えていなかった。

 でも、きっと言ったのだろう。


「気に入ってもらえないと、よくない気がして」

「俺は、白石さんと話すのが楽しくて会ってるんです」


 彼は鞄を持ち直して、続けた。


「この前、古本屋で話していた小説。主人公が最後に帰らなかった理由、まだ聞けてません。途中で別のお客さんが来たでしょう」

「……覚えてたんですか」

「気になってます。今度、聞かせてください」


 冗談めかしているのに、私の目を見ていた。


「父に何かしてもらわなくても、俺がまた会いたいのは変わりません」


 店先に人が来て、私たちは通路の端へ寄った。

 並んで立つ距離が少し近くなった。


「私、前に、相手の家族に合わせることばかり考えてたんです」


 祐介と婚約を解消した理由を、初めて詳しく話した。

 予定を断ると気まずくなったこと。父の手術の日も、欠席を認めてもらえなかったこと。


 和彦さんは口を挟まずに聞いてくれた。


「だから、何もしてないまま会うのが、少し怖くて」

「……そうだったんですね」


 彼は少し考えてから言った。


「俺も、断ることが何度かあったから。会いたくないって思われてないかなって、気になってました」

「そんなふうに思ったこと、ありません」

「よかった」

「別の日を考えてくれるでしょう。私も、別の日なら会いたいから、予定を伝えてるんです」


 彼はほっとしたように笑った。

 この人にも不安があって、私の言葉で安心してくれる。

 それが、嬉しかった。


「お父さんのお祝い、楽しんできてください」

「はい。白石さんとは、その次の週に」


 歩き出したとき、さっきより彼の隣にいたいと思った。

 菓子店の前を通り過ぎても、もう振り返らなかった。


     *


 和彦さんと連絡先を交換して、三か月ほど経った。

 家族の予定で会えない日も、仕事で返事が遅れる日もあった。

 そのたびに、次の約束をした。


 会えば嬉しくて、帰ったあとも、本の続きを送りたくなった。

 新しく見つけた店を、自分から教えるようになった。


 ある日、本屋の前で待っている彼を見つけて、私は足を速めた。

 和彦さんも、私に気づくと手を上げた。


 会うのが楽しみだと、曖昧にせず伝えたかった。


「和彦さん」


 彼が少し驚いた顔をした。


「はい」


 私は、彼の前で立ち止まった。


「家族の予定があっても、仕事で会えない日があっても、私はまた次の約束をしたいです」


 鞄の持ち手を握る。


「和彦さんと。これからも」


 彼は私を見たまま、一度うなずいた。


「俺も、そうしたいです」


 その返事が嬉しくて、でも、それだけでは足りなかった。


「私、和彦さんが好きです。付き合ってもらえませんか」


 彼は、ゆっくり息を吐いた。


「俺から言おうと思ってたのに」


 笑ってから、もう一度私を見た。


「好きです。沙知さんと、付き合いたいです」


 名前を呼ばれて、耳まで熱くなった。

 私は「はい」と答えたあと、うつむいた。


「今、顔を見るのは、ちょっと待ってください」

「俺も、たぶん変な顔してます」


 そんなことを言うので、結局顔を上げてしまった。

 二人とも笑っていた。


 本屋に入る前、彼が手を差し出した。


「手、つないでもいいですか」


 私はうなずいて、その手を取った。


     *


 付き合い始めて最初の日曜日は、別々に過ごした。

 前から決めていた、それぞれの家族との予定があった。


 私は実家で、父と母と夕食を食べた。

 父の前には、以前祐介と選んだグラスが置かれていた。

 今は、お茶が入っている。


 父が気づいて、少し申し訳なさそうにした。


「これ、使っててもいいか?」

「いいよ。お父さんにあげたんだから」


 選んだときは、私も祐介も父に喜んでほしかった。

 その気持ちまで、なかったことにしなくていい。


 母が煮物の皿を置いた。

 私は父に味を聞き、母には次に作り方を教えてほしいと言った。


 食事を終えて、自分の部屋へ帰ったのは九時前だった。

 スマホには、和彦さんから連絡が届いていた。


『父と食事してきました。勧めた本は、もう読んだと言われました』


 私は笑って、返事を打った。


『私も両親とご飯を食べてきました。父が、次は外で食べたいと言っていました』


『いいですね』


 そのあとに、メッセージが続いた。


『来週、沙知さんは何を食べたいですか』


 帰りの電車で見つけた店を思い出した。


『おそばが食べたいです。駅の近くで、気になる店がありました』

『俺も好きです。そこにしましょう』


 私は手帳を開き、来週の予定に店の名前を書いた。

 今日、家族と過ごした時間を削らずに、彼と過ごす時間を楽しみにできる。


 和彦さんへ、もう一通送った。


『会えるのを楽しみにしています』


『俺もです。今日はゆっくり休んでください』


 父に会う日も、彼に会う日も、私が選んでいい。


 次の日曜日の欄に、もう一度指を置いた。

 早く、その日になってほしかった。


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