第八章『過去からの訪問者』
冬の冷たい風が吹きつける朝、もふもふカフェの店内はストーブの暖かさと動物たちの寝息で満たされていた。将之はカフェラテを啜りながら、窓の外で舞う雪をぼんやりと眺めている。
「今日は寒いですね。」幸華がカウンターでココアを作りながら微笑んだ。
「本当に。動物たちも今日は丸くなってばかりです。」将之がそう言うと、ルカが膝の上で甘えたように鼻をこすりつけてきた。
その時、カフェのドアが勢いよく開き、冷たい風が吹き込んできた。振り向くと、そこには見知らぬ男性が立っていた。無精ひげを生やし、少し疲れた表情をしている。彼は店内を一瞥すると、美優香を見つけて一歩近づいた。
「美優香……久しぶりだな。」
その声に、店内の空気が一瞬張り詰めた。美優香は驚きと戸惑いが入り混じった表情を浮かべ、目を見開いたまま固まっている。
「……涼介さん?」
美優香がその名前を口にした瞬間、スタッフたちが互いに顔を見合わせた。将之も事情を飲み込めずにいたが、広孝がそっと肩を叩き、小声で耳打ちする。
「あの人、美優香さんの昔の知り合いみたいだな。」
美優香はカウンターを出て、涼介に近づいた。その表情には懐かしさと警戒心が混ざっている。
「どうしてここに……?」
「少し話がしたくて。ずっと探してたんだ。こんなところでカフェをやってるなんて知らなかった。」
その言葉に、美優香は少しだけ眉を寄せた。将之は美優香の心情を推し量りながらも、声をかけるべきか迷っていた。
「まあ、ここじゃあれだから……奥の席にどうぞ。」美優香が控えめに誘導すると、涼介は無言で従った。スタッフたちは自然と距離を取りながら、美優香の様子をうかがっていた。
「将之さん、あの人誰なんでしょう?」味夏が不安げに尋ねる。
「元彼か何かじゃないか?」広孝が苦笑いを浮かべながら推測する。
「でも、美優香さん、すごく困ってる顔してたね。」幸華が小さくつぶやいた。
カフェの片隅、二人だけの空間で美優香はゆっくりと口を開いた。
「突然来られても……何を話せばいいのか分からないよ。」
「悪かった。でも、どうしても直接会って謝りたかったんだ。あの時は、本当にすまなかった。」
美優香の顔に一瞬だけ影が差したが、すぐに気丈な表情に戻る。
「もういいんです。あの時は……私も未熟だったし。」
「けど、お前が突然姿を消してから、ずっと心残りだったんだ。俺は、勝手だったよな。仕事ばかりで、家庭のことなんて何も考えてなかった。」
涼介の言葉を聞きながら、美優香の心には複雑な感情が渦巻いていた。かつての恋人、そして共に過ごした時間。しかし、その時間が彼女にとってどれだけ辛いものであったかも同時に思い出させた。
「過去のことはもう、どうしようもないです。私はここで、新しい生活を始めて、動物たちやスタッフと一緒に過ごしています。それが、私にとっての幸せなんです。」
「そっか……なら、俺が今さら出て行ったところで、邪魔にしかならないか。」
涼介が自嘲気味に笑ったその時、美優香の胸に少しだけ痛みが走った。確かに彼の不器用さに傷つけられたこともあったが、それでも一度は愛した人だった。
「邪魔とかじゃないです。ただ、もう私は過去に戻るつもりはない。それだけです。」
その静かな決意に、涼介はしばらく黙っていたが、やがて小さくうなずいた。
「分かった。最後にこれだけ言わせてくれ。美優香、元気でな。」
涼介はゆっくりと立ち上がり、店を出て行った。その背中が小さくなっていくのを見つめながら、美優香は息をついた。将之がそっと近づき、心配そうに声をかける。
「大丈夫ですか?」
「うん、大丈夫。少しびっくりしたけど……これで良かったんだと思います。」
美優香は優しく微笑んだが、その笑顔にはどこか切なさが混じっていた。将之は何も言えず、ただそっとその隣に立っていた。
その夜、美優香は一人でカウンターに座り、ホットミルクを静かに飲んでいた。将之は、何か声をかけようとしたが、思うように言葉が出ない。そんな時、ルカが美優香の足元にすり寄り、甘えた声を出した。
「ありがとう、ルカ。」美優香がその頭を撫でると、ルカは安心したように丸くなった。
将之はその光景を見つめながら、静かに決意した。美優香が過去を乗り越え、また笑顔を取り戻すために、自分も少しでも力になりたいと。都会で抱えていた孤独が、この街で少しずつ癒されているように、美優香の心もまた、ここで癒されてほしいと心から願っていた。
(終)