遅れてきた季節
水上ヴィラの窓から差し込む朝日が、まぶしい。ベッドに横たわったまま、隣の寝顔を見つめる。結婚して5年。コロナ禍と仕事で延期に延期を重ねたハネムーンが、ようやく実現した。
「おはよう」
目を覚ました顔が、にこりと笑う。かつてのようなときめきはない。ハネムーンというより、ただの豪華な旅行になっている。もっと早くに来れたらよかったのにと思う。
プールサイドのビュッフェで、二人を見かけた。70歳になろうかというおじいちゃんと、20代とおぼしき美女。60室ほどしかないこのリゾートで、日本人は私たち以外にはその二人だけだ。
「見てる?あの人たち」と小声で話す。
「うん」
「なんか、気になるよね」
美女は完璧な水着姿で、インスタ映えを狙うようにポーズを決めている。おじいちゃんは少し離れた場所で、撮り終わるのを待っている。
「愛人かな?」
「でも、見てみなよ。おじいちゃんの気遣いぶりが半端ない。お姫様扱い」
「そうね。愛人っていうより……もっと複雑な関係みたいな」
その後、リーフでシュノーケリングをしていると、おじいちゃんが一人で波打ち際を歩いているのが見えた。美女はビーチチェアで携帯を見ている。二人の間には、目に見えない壁があるようだった。
その夜、バーで偶然隣り合わせになった。美女が席を外すと、おじいちゃんが話しかけてきた。関西弁の温かみのある声。
「あんたら、落ち着いとるな。新婚ちゃうんやろ?」
「はい、結婚5年目です」
「そやのに、仲良さそうでええわ」
きれいな方ですね、と言うと、おじいちゃんは、グラスの氷を静かに揺らしながら言葉を継いだ。
「あれな。新地のホステスや」
「わしみたいな男、ようけおるんや。似たような年で、似たような財布の重さの。皆が目をつけとった子を、わしが連れてきた」
グラスを傾け、一口飲む。
「勝ったつもりが、なぁ」
窓の外では、彼女が一人でビーチチェアに座り、携帯を見つめていた。
おじいちゃんは、こちらの表情を見て付け足す。
「貢いだ礼に『一緒に行ってあげる』いうやつや。別に楽しいことないんや。あいつはインスタに自撮り上げてるだけ。夜も別になんもせんしな。そういうのは粋やないんや」
グラスを傾け、一気に飲み干す。
「わしの人生なんやったんやろ。こんなことするために一所懸命働いてきたんやろか」
沈黙が流れる。おじいちゃんの目は、遠くを見つめている。
「嫁の時もそうやったわ。娘が結婚したら、即離婚や。まあ、嫁に家と財産半分やったわ。娘にもわたるやろうしな」
「そんで、離婚してこれで自由やと思て、男としてまだまだいけるんやと思いとおて……こないなことしてんけど、なんか虚しくてな」
バーテンダーが新しいドリンクを運んでくる。氷の音だけが、一瞬の沈黙を埋めた。
「あんたら、ええ夫婦やな。わしみたいになったらあかんで」
そう言って、おじいちゃんは苦笑いを浮かべた。
水上ヴィラに戻る途中、満天の星空の下で、手をつなぐ。
「ねぇ」
「うん?」
「なんか、私たち、全然ハネムーンっぽくないよね」
「そうだね」と笑う。
「でも……」
黙ったまま、手を握り返してくる。
波の音が心地よく響く。ハネムーンに来るのが5年も遅れたことは、私たちにとって、悪いことではなかったのかもしれない。時を経て初めて見えてくるものがある。それは、派手でも華やかでもないけれど。インスタもやってないし。
肩を寄せ合う二人を、南国の夜風が優しく包み込んだ。