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この作品には 〔ガールズラブ要素〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

【短編】愛しのブラウス

作者: 絹衣なでしこ

「ちょっと、アンタ、何やってんの?!」

朝比奈瑠衣子は、自宅があるマンションの屋上で、手すりの向こう側で突っ立っている人物に声をかけた。

“何やってる”といっても、どこからどう見ても、そこから飛び降りようとしているとしか思えないが、瑠衣子には、その言葉しか出てこなかった。

瑠衣子は、そんな自分にちょっと苛立ちを覚えた。

しかし、今は、自分のボキャブラリーの貧弱さに憤っている場合ではない。

瑠衣子に声をかけられ、手すりの向こう側の人物は、一瞬、ドキッとしたように上半身をビクつかせたが、振り向きもせず、相変わらず直立不動のままだった。

そこで動きがあるのは、バレッタもシュシュも付けずに、そのまま背中まで延ばしただけの長く黒い後ろ髪が、風に靡いていることだけだった。

――しばしの沈黙。

「ねえ、ちょっと、聞こえてる?」

この突然の状況に、最初の言葉は自分でもびっくりするくらい声が出ていないと感じたので、「聞こえていなかった」と思い、今度は、今まで出したこともないような大声を、力いっぱいしぼり出した。

率直に言って、一生のうちで、こんな場面に遭遇することがあろうなど、瑠衣子は思ってもいなかった。

まして、こんな場面に遭遇したときの正しい対処法など、知る由もなかった。

だから、せめて、その人物――彼女――の気を自分の方にそらそうとすることしか思いつかなかった。

「聞こえてるわよ!」

ようやく、手すりの向こう側の彼女からリアクションが確認できて、瑠衣子はひとまず安堵した。

自分が声をかけたことによって、反射的に飛び降りられでもしたら、身も蓋もない。

「そんなばかでかい声だして、バカじゃないの!」

手すりの向こう側の彼女は、瑠衣子の方に顔だけ振り返りながら、予想外の言葉を投げかけた。

「はぁ?!」

売り言葉に買い言葉。

瑠衣子は、その言葉にダイレクトにカチンと来て、単なる痴話げんかのように、率直な反応を彼女に返した。

「なんなの、あなた? なんで、こんなところにいるのよ?!」

それは当然の疑問だな、と瑠衣子は思った。

普通、屋上になんて来ないものだし、そもそも、マンションの管理規約上、立ち入り禁止になっている。

しかし、彼女の疑問は、そんなところから出たものではないだろう。

なぜ、自分がこれからしようとしていることを止めるようなタイミングで居合わせているのか?

そんなところだろう。

そう言いながら、手すりの向こう側の彼女は、顔だけでなく、今度は身体ごと瑠衣子の方を向いたので、自然、二人は正面から向き合うことになった。

手すりの向こう側の彼女が着ている、ゆったりめの白のブラウスと、結んだ長めのリボンタイが、そよ風に煽られ、パタパタと翻っている。

「そんなこと、どうでもいいじゃない!」

はっきり言って、瑠衣子は、自分がここに来た理由を、正直に彼女に伝えることが出来ない。

この言葉は、せめてもの時間稼ぎ。

ウソの理由をでっち上げるための。

でも、半分は、いや、半分以上は、本当のこと。

自分がここにいる理由よりも、彼女がこれからしようとしていることについて話す方が、優先順位は高いだろう。

手すりの向こう側の彼女は、眉間にシワを寄せて、瑠衣子の返事に、明らかにムッとした表情を見せた。

「あなたまで、私のこと、否定するのね!」

そうか、そういうことか。

それが、原因なのね。

瑠衣子は、心理学にはとんと疎いが、手すりの向こう側の彼女が、なぜ、これから取り返しの付かないことをしようとしているのかくらいは、その言葉から大体は察しがついた。

ようし、これからの展開の足がかりがついてきた。ような気がする。

「別に、あなた自身のこと否定している訳じゃないわよ。あなたのこと、そんなに知ってる訳じゃないし」

そう言って、瑠衣子は「しまった」と思った。

“そんなに知っている訳じゃない”

これじゃ、よくは知らないけれど、少しは知っている。そう、自白しているようなもんじゃないか。

瑠衣子の気がかりは、残念ながら的中した。

「ってことは、あなた、私のこと、知ってるの?」

はぁ・・・。やっぱりそこに食いつくか。

この状況で、そこに気がつくとは、割りと冷静なのね。

ここは、強気に出るしかないかな。

「そりゃそうでしょ。私だって、このマンションの住人なんだから。あなただってそうなんだから、顔くらい知ってるわよ」

手すりの向こう側の彼女の表情は、未だ眉間にシワを寄せたままで、苛立っているようだった。

「そう・・・。でもね、もうすぐ、このマンションの住人は一人、少なくなるわ」

瑠衣子は、思わず半歩、後退りした。

やっぱりそうか。

やっぱり、これから、ここから飛び降りるつもりだったんだ。

まさか、「私、明日、引っ越しするの」なんてことはないだろう。

「そんな事して、何になるの? どんな理由で、あなたがそうしようとしてるのか知らないけど、そんなの、何の解決にもならないわ」

「解決なんて、しなくてもいいわよ。わたし、そんなの、望んでない」

「なら、あなたの望みは、何?」

「“無”よ」

手すりの向こう側の彼女は、そう言って、ニヤリ、と口角をやや上げた。

「悲しい望みね。そんな、悲しい望みを手に入れるために、あなた、そこから飛び降りるの?」

これまで、眉間にシワを寄せて不機嫌な表情をしていた彼女は、突然、穏やかな表情を見せた。

「それは、あなたの意見でしょ。今までのわたしの人生だって、同じようなものだったし、何一つ変わることはないわ。だから、これが、わたしの唯一の“希望”なのよ」

そう言って、手すりの向こう側の彼女は、天を仰ぎ見た。

「そんなの、見せかけの希望に過ぎないわ」

瑠衣子がそう言うと、彼女はキッとした表情になって、瑠衣子を睨んだ。

「なんですって?」

「あなたの思い描いている“希望”は、“偽りの希望”だって言ってんの!」

瑠衣子は、吐き捨てるように言った。

「偽りの、希望ね・・・。今まで、偽りの人生を歩んできたわたしに、それこそ相応しわ」

手すりの向こう側の彼女は、ゆっくり、本当にゆっくりと、ひと言ひと言ことを噛みしめるように言った。

「あなた、さっき、わたしに“自分のことを否定するのか”と言ったけど・・・」

「それが、何か?」

「さっきから聞いてると、あなたさ、自分のこと否定してるのは、自分自身じゃないの」

瑠衣子は、からからになった喉をふり絞って、自分でも覚えのないくらいの早口でまくしたてた。

瑠衣子のその言葉を聞くと、手すりの向こう側の彼女は、左手で胸のリボンタイの長く垂れ下がった箇所を握りしめた。同時に、右腕は首の後ろに回し、それまで自由に風に靡かせていたため、今やボサボサになった長い髪をまとめるような仕草をし、大きく息を吸った。

「そうかもね。そうかもしれないわね」

おお、やっと意見が一致し始めたかな?

瑠衣子がそう思ったのもつかの間、

「だからね。これからするのは、そんな自分への、“罰”なのかもしれないわね」

はぁ、何言ってんだコイツ?

でも、そのキーワード、ありがたくいただくわね。

「あなた、そんなに罰せられたいのなら、わたしが別の“罰”を与えてあげようじゃない!」

なんなんだ、この会話。

おおよそ、これから建物の屋上から飛び降りようとする行為を止めるための言葉じゃないな、と瑠衣子は思った。

しかし、こういう状況になった今、瑠衣子も、ある程度は自分の身の振り方に覚悟を決めていた。

「なんなのよ、それ。あなた、神様にでもなったつもり?」

手すりの向こう側の彼女は、瑠衣子を軽蔑するように言い放ち、腕組みをする。

風はやみ、さっき撫でつけたお陰で、彼女の髪の乱れは、ある程度キレイに纏まったままになっていた。

「神か悪魔か、それはあなた自身で判断して頂戴」

チッと軽く舌打ちをする手すりの向こう側の彼女。

おい、聞こえてるぞ、それ。

「わかったわ。で・・・? あなたは、どんな“罰”をわたしに与えてくれるのかしら?」

さぁて。

ついに、これを言わねばならぬ時が来たか。

ずっと、彼女に言いたかった言葉。

長年、彼女に言いたかった言葉。

よもや、その言葉を彼女に伝える契機がやって来るなど、瑠衣子は思ってもみなかった。

まして、こんなシチュエーションで。

だが、ついに、“その時”が訪れたのだ。

「あのね、こんなこと言うと、変に思われるかもしれないけど・・・」

何言ってんだ、わたし。

「だから、早く言いなさいよ!」

手すりの向こう側の彼女も、腕組みをしたまま、眉間にシワを寄せ、怪訝そうな表情をしている。

すでに覚悟は決めたはずなのに、まだ迷ってる?

だめだ。

どう思われようと、これは彼女に対する“罰”なのだ。

むしろ、「変なこと」であればあるほど、“罰”としての効力を発揮するんじゃないか?

瑠衣子は、自分にそう言い聞かせて、自らの気持ちに発破をかけた。

「わたしと、・・・」

ははは。

自分でも驚くほど小さな声だった。

「え? 何?! 聞こえない!」

ほうら、聞こえないってよ。

もう一度言わにゃならんのか。

こんな言葉、二度言うくらいなら、一度で済ませておいた方がよかったな。

これ、彼女への“罰”というより、むしろわたしへの“罰”なんじゃないかと瑠衣子は思った。

しかし、そうも言っていられない。

今度は、また渾身の力を込める。一音一音、はっきりと。ちゃんと、聞こえるように。

「わたしと、付き合って欲しいの!」

言った!

言ったぞ!

今度は、ちゃんと聞こえただろうが!

瑠衣子は、力を込めて言ったので、目をつぶってしまったが、ゆっくりまぶたを開いていくと、手すりの向こう側の彼女は、キョトンとした表情をしている。

まるで、自分が今聞いた言葉が聞き間違いだったかのように。

数秒、彼女はそのままフリーズしていたが、

「ばっかじゃないの・・・」

やおら、手すりの向こう側の彼女が、呆れたように呟く。

まあ、そう言われるのは仕方がない。

「実は、わたし、ずっと前からあなたのことが好きだった! だから、わたしの“彼女”として交際して欲しい。これが、あなたへの“罰”よ!」

ええい、ままよ。

再び、渾身の力を込めて、手すりの向こう側の彼女へ、自分の思いの丈をぶちまけた。

「そんなデタラメな“罰”を与えられるくらいなら、ここから飛び降りたほうがマシよ!」

手すりの向こう側の彼女は、早口でそう言い放つと、ものすごい勢いで180°ターンし、今にも飛び降りそうな体制となる。

「だったら!」

瑠衣子が叫ぶ。

「だったら、何よ?」

「だったら、あなたが今着ているブラウス、あなたの形見として、わたしに・・・、わたしに譲ってくれない?」

「はい?」

「お願い・・・。わたし、あなたのそのブラウスが、欲しいの」

「あんた、バカ? こんなところで脱げるわけないでしょ? それに、わたしに、下着姿のまま飛び降りろって言うの? そんなの、ネットニュースのいいネタだわ!」

「なら、わたしのTシャツ、着れば良い」

瑠衣子と手すりの向こう側の彼女の背格好は、およそ同じくらいだったので、サイズ的には問題ないはずだ。

ただし、瑠衣子の方が、胸はすこしばかり大きい。

「あなたの、Tシャツ?」

「そう。これ着れば、下着姿じゃなくなる」

瑠衣子はそう言いながら、Tシャツの裾をパタパタと煽ってみせた。

「バカいいなさい! そんな、“セメント中毒(CEMENT ADDICTION)”なんて意味わかんない言葉がプリントされたTシャツ、着れるわけないじゃない!」

どこまで対面を気にするんだ、このお嬢さんは。

「だって、あなたの、その素敵なブラウスが、ここから飛び降りたあなたの、血と肉片にまみれて汚されるのなんて、わたし、耐えられない」

「な、何を言うのよ・・・」

手すりの向こう側の彼女は、これから先、確実に起こるであろう自体を瑠衣子から具体的な言葉として聞き、少したじろいだ。

「そりゃそうでしょ。飛び降りは、悲惨よ。ものすごい勢いで頭から地面と激突して顔はぐちゃぐちゃ、脳みそも内蔵も、身体の中のものが辺り一面に飛び散って、手足も関節から外れて本来曲がることのない方向に折れ曲がって・・・」

瑠衣子は、アメリカ人がするような(といっても、映画やドラマでしか見たことないけど)、“ヤレヤレ”と言わんばかりに両腕を開くジェスチャーをわざとらしくした。

「も、もういい・・・。もう、いいから・・・。わたし、ちょっと気持ち悪くなってきた。うぅ・・・、吐きそう・・・」

手すりの向こう側の彼女は、そう言って、その場にしゃがみ込むやいなや、激しく嘔吐した。

「だ、大丈夫?」

「・・・ぅぅぅ・・・」

手すりの向こう側の彼女は、しばらくは言葉にならない唸り声を上げながらしゃがんでいたが、やがて、右手の甲で唇を拭いながら、力なさげに、よろよろと立ち上がった。

「あなた、一体、どういうつもりよ・・・」

上目遣いで瑠衣子を睨む。

「どうもこうも、これから起こる現実を、あなたに教えて上げたの」

「そういうことを訊いているんじゃないわよ。飛び降りを止めようとするんだったら、もっと他にやりようがあるでしょうに。それなのに、ブラウスの心配? 説得力ないわ!」

瑠衣子の突きつけた飛び降り後の現実に、もはや飛び降りる気は削がれたと思われたのもつかの間、手すりの向こう側の彼女は、再び180度振り返り、またもや今にも飛び降りそうな体制となる。

しかし、一通り吐いて、体力と気力を消耗したのか、動きは緩慢だった。

「させるか!」

瑠衣子は、そう叫ぶと、猛烈なダッシュをかけ、彼女の方に向かって突進していく。

走りながら、「ヒールじゃなくてよかった」などと呑気なことを考えているうち、すでに彼女のもとにたどり着いていた。

瑠衣子は、手すりに「ガン!」と勢いよくぶつかったお陰で旧静止すると、同時に、間違っても後ろから押して突き落としてしまわないように、両腕をパッと開いて延ばし、手すりの向こう側の彼女を羽交い締めにする。抵抗されても落ちないよう、ギュッと力いっぱい抱きしめ、自分と彼女の間にある手すりに押し付ける。

手すりの向こう側の彼女は、短く「わっ!」と声を上げる。

「つかまえた」

瑠衣子は、手すりの向こう側の彼女の耳元でそう囁き、思わず「ふぅ・・・」とため息が出る。

羽交い締めにされた、手すりの向こう側の彼女の長い髪の下で、彼女の着ているブラウスの布地は、汗で背中に張り付いていた。その首元から漂う、香水とはまた違う、ほのかなバニラの甘い香りの匂いが、瑠衣子の鼻孔をくすぐる。

この子、こういう匂いなんだ・・・。

こんなに、汗かいて・・・。

瑠衣子が、手すりの向こう側の彼女の匂いに気を取られている間、彼女は瑠衣子の腕を振りほどこうと、必死にもがいている。

「“つかまえた”じゃないわよ! ちょっと、ばか、離しなさいよ!」

“離せ”と言われても、この状況でそんな注文、問屋が下ろすもんですか。

「そんなに暴れると、あなたご自慢の素敵なブラウスがシワになっちゃうわよ」

「またそれ?! あのね、これからあの世に行こうって人間が、服装の心配なんてしないわよ!」

彼女は、相変わらず瑠衣子の腕を振りほどこうともがきながら、瑠衣子に正論をぶつける。

「うそ・・・。わたし、知ってるわ。このブラウス、あなたの一番のお気に入りなんでしょ? これは予想だけど、だから、今、“死に装束”として着てるんでしょ?」

手すりの向こう側の彼女は、瑠衣子のその言葉を聞くやいなや、急にもがくのをやめた。

「なんで、そんなこと・・・」

「知ってるかって?」

瑠衣子の両腕を振りほどこうとしていた彼女の手は離れる。

しかし、別に、観念した訳ではないだろう。

彼女の後ろにいる瑠衣子からは見えなかったが、その腕の形から、きっとボウタイを握っている。それが、困った時に見せる、この子の癖だということも、瑠衣子は知っていた。

「言ったじゃない。ずっと前からあなたのことが好きだった、って。だから、ずっと見てたから分かったの。あなたのワードローブのコーデで、一番多かったのが、このブラウス。他にも何着か白のボウタイ・ブラウスは持っているみたいだけど、見てて、なんか、このブラウスだけは特別な感じがした」

照りつける、梅雨の晴れ間の太陽。六月半ばとはいえ、そのジリジリとした光は、密接した人間二人にとっては、強烈に感じられる。

「そう。分かったわ。だから、この腕、離してくれない? こう暑くちゃ・・・」

瑠衣子は手すりの向こう側の彼女の影になっているからましだったが、太陽の光は、彼女を真正面から容赦なく炙っている。

「いいけど・・・」

そういう瑠衣子の当然の心配を悟って、

「大丈夫。もう大丈夫だから。飛び降りるのは、もう止めよ」

彼女はそう言ったが、瑠衣子は、いきなり腕を離すのもなぁ・・・と思った。

こんな眼の前で飛び降りられでもしたら、瑠衣子の方は一生のトラウマものだ。

「少し、この腕を緩めてくれたら、わたし、そっちの方向くから、手すり乗り越えるの、手伝って」

うん。

そういう流れなら、最悪の事態が引き起こされる可能性はすごく少なくなる。

もっとも、力いっぱい反発されれば、彼女と同じくらいの腕力しかない同性の瑠衣子の力では、食い止めることは難しいだろう。

取り敢えず、ここは彼女の言葉を一応は信用するしかない。

「オーケー。じゃあ、少し緩めるから」

瑠衣子が羽交い締めにしている両腕の力を緩めると、手すりの向こう側の彼女は、踵を返して、約束通り瑠衣子の方を向いた。

彼女が180度Uターンしたので、瑠衣子の腕は、その腰回り付近を囲い込む形となる。

そうして向かい合った二人の距離は、手すりが間にあるとは言え、極めて接近し、ほとんどハグしているような状態だ。

うお、近い!

瑠衣子は、マンションのエレベーターで彼女といっしょになるが、こんなに接近したのは初めてだった。

そのことに瑠衣子が感嘆していると、

「そういえば、あなた、よく見かけるわね」

やっと気づいたか。

彼女とはフロアが違うので、いっしょになるのはエレベーターの中だけだったが、瑠衣子は通勤時間を概ね彼女と合わせ、来るエレベーターの中を確認して彼女が乗っているときに乗り込んでいく。

手すりの向こう側の彼女は、いつも時間ピッタリにやって来るので、待たされたり、先に行かれてしまったことはほぼなかった。

だから、もっと早く気づいて欲しかったなぁ。

「でしょ? わたしがこのマンションの住人だって、信じてくれた?」

「それは疑ってなかったわ。ここ、オートロックだし。問題は、なぜ、あなたが、今、ここに居合わせているのかってこと」

また、それか。

「そのことについては、後でゆっくりとお話し聞かせてもらうとして、そっちに行くの、手伝ってくれない?」

へいへい。

できれば、もっとこうして向き合っていたいけどね。

瑠衣子はそう思いながらも、彼女が手すりを乗り越えるのを手伝った。

「で、取り敢えず、あなたのお名前は?」

「わたし? わたしは、朝比奈瑠衣子。五階に住んでる」

なぜか、突然の自己紹介タイム。

瑠衣子は、聞かれていないことにも答える。

「あと、瑠衣子さん、一応訊くけど、やっぱりわたしの名前、知ってたりする?」

この質問は、地雷臭がプンプンする。

“知ってる”となれば、名前を調べにわざわざ別のフロアまで上がったことになり、そこからストーカー疑惑が発生する。

逆に、“知らない”となれば、「本当にわたしのこと、好きなの?」となり、今後の展開が危ぶまれる。

さあ、どっちの答えが正解だ?

まあ、ここは、正直に答えるのがベターだろう。

「申し訳ないけど、知ってる。最上階、六階の星野流加さん、でしょ?」

真紀は、瑠衣子から視線をずらし、ため息交じりに、

「はぁ。大正解。そうっか。やっぱり、調べてるのね」

「はい。ちょっと調べさせてもらいました」

テヘペロの瑠衣子。

「探偵?」

「いやいや。さすがに、そこまでは」

瑠衣子は、頭を激しく左右にブンブン振って、否定する。

「じゃあ、ストーキングか」

真紀が鋭い眼光で瑠衣子を睨む。

「それもない」

次第に酷くなる流加の予想に、瑠衣子はすねた子供のように唇を尖らせて言った。

「なら、どうやったの?」

考えうる全ての“疑惑”をひねり出してもなお、なかなか答えにたどりつきそうもなかったので、流加はついに半ば観念したように、半ば諦めたように、瑠衣子に訊いた。

「だって、わたし、五階で。エレベーターで上から降りてくるってことは、星野さんは六階住み確定。で、エントランスの郵便受けの名前みたら、六階は3つしか部屋入ってなくて、他の2つは、男性の名前だったから」

「でも、わたし、郵便受けにも玄関の表札にも、名前出してないはずだけど?」

流加は、そう言いながら頭をかいた。

「まあ、基本だよね、それ。わたしも、郵便受けにも表札にも名前出してない」

「じゃあ、どうして分かったの? わたしの名前」

流加は、少し語気を強めたて訊いた。

「それはね。管理人さんに、ちょっとカマかけたの。六階って、男性しか住んでないんですねぇ?って。そしたら、わたしの不安を察してか、『六階にはホシノルカさんという女性も住んでますよっ』て教えてくれた」

世の中には、悪気がなくとも、言ってはいけないことをバラしてしまう人がいる。

とくに、「正直者」とされる人は、この類の秘密の暴露をついやってしまうことが多い。

知っているのに隠し立てして言わないことを、「嘘」だと思っているからだ。

「呆れた・・・。そうまでしてわたしの名前知りたかったら、声かけてくれればよかったのに」

不意に、流加に視線を合わせられ、バツが悪くなって下を向く瑠衣子。

「うん。何度も声掛けようとしたわよ。でもね、いろいろ考えているうちに、なんて声かけたらいいか分かんなくなって・・・」

自分の不甲斐なさに、思わず泣きそうになる瑠衣子。

「そんなの、何だっていいじゃない。普通に挨拶するとか、天気の話とか。あなた、変なところで見栄はろうとするから・・・」

「ごめん・・・」

「それから、ほぼ毎日エレベーターで顔合わせるのも、単なる偶然じゃないんでしょ?」

「ごめん・・・」

「あーもう! 謝罪はいいから、本当のこと教えて!」

「うん・・・それはね・・・多少の時間調整はしたわよ。でもね、出る時間はあの時間だったし、流加、時間に正確で、いつも本当に時間ぴったりに乗ってきたから、助かった。っていうか、なんでいつも時間ぴったりだったの?」

「占い――」

「え?」

「テレビ番組の占いコーナーよ。自分の星座の占いやった後、すぐに出る感じ?」

「ああ、それ、わたし見れないやつだ。流加に時間合わせるため、コーナー始まる前のコマーシャルの時点で出掛けちゃうから。まあ、占い信じてないし、いいかって」

瑠衣子は、てっきり、占い師にでも仕事に出かける時間を聞いて、それに合わせて出掛けていたのかと思った。

「いや、別に、わたしだって信じてるわけじゃないわよ、占い。時間的にタイミングが良いってだけで」

「いいわよ、そんなこと。女の子なら、信じてなくても、多少は気になるものでしょ?」

「そうだけど、なんか、あなたに『この子、占い信じてんだ』と思われるのが癪だっただけよ」

「じゃ、エレベーターで今の会話したら・・・」

「絶対、教えてあげなかった」

ですよねー。

というか、わたし、そんな印象悪かったかなあ?

そりゃ、ちょっと寝坊して、時間に合わせるために急いで支度したから、ひどい顔だったことも多少はあったかもしれないけど、「あこがれの君」に合うために、出掛けの準備はバッチリ決めていたつもりだったのに。

「それで、さっきわたしが言った“罰”についてだけれど、お返事はいつもらえる?」

「そっちが先なの?」

「というと?」

「わたしが、なんでこんなことしようとしたのか、訊いたりしないの?」

「確かに、それは気になるけど、その原因は一つや二つじゃないだろうし、他人には想像できない辛いことがあったんだろうなって。だから、赤の他人のわたしがその根本原因をどうすることもできないから、取り敢えず、いっしょにいて様子見ることが良いかな?って。それで、いろいろお話ししてくれればいいし。わたしも、できる限りのことはしたいと思ってる」

「言っとくけど、わたしみたいのと付き合うのは、大変よ。病院には、絶対に行きたくないし」

「あなたのパートナーとして、力及ばなかったその時は、仕方なかったと諦めるしかないわ。あとは、自分の好きにすれば良い」

「そんなもん?」

「だって、本当にしょうがないじゃない。少なくとも、今、ここで飛び降りられるよりは、ずっとマシ」

「なんか、頼りない気もするけど・・・」

「けど?」

「取り敢えず、瑠衣子の下した“罰”、受け入れることにするわ」

「本当に良いの?」

「クドいわ。わたしが良いって言ったら、良いの!」

「ありがと」

「で・・・」

真紀は、両手でブラウスのボウタイを握り、なにやらもじもじし始めた。

「何?」

構わず、瑠衣子が訊くと、

「瑠衣子、なんでわたしのこと、好きになったの?」

「それは、さっきも言った通りで・・・」

「いいえ。さっきは、ブラウスの話ししかしてなかったわ」

「え、そうだっけ?」

「そうよ。『形見にしたい』だとか『ブラウスが欲しい』だとか。さっきの話だけだと、このブラウスが好きってことばかり・・・。わたしのことは、そのついでに好きみたいな風にしか理解できなかったんだけど・・・」

「『死に装束』っていうのは?」

「正直言って、大正解。今着てるこのブラウスが一番のお気に入りってのも、図星。だからさ、瑠衣子、ブラウスのことはよく見てるくせに、エレベーターでも声掛けてくれなかったし、わたしのこと、全然見てくれてないじゃない? って思ったのよ」

そりゃ、流加と合うのは朝、エレベーターの中での数十秒だけだからね。

ほぼ毎日合ってるとは言え、それだけで、しかも同性に恋をすることなど、普通に考えればあり得ない。

「一度だけ、流加とエレベーターの中でお話したこと、あったじゃない?」

「・・・そんなこと、あったっけ? ・・・ごめん・・・思い出せない」

「随分前だし、いいのいいの。わたしがエレベーター乗ったとき、――その日、ちょっと寝坊しちゃってさ――慌ててたから電車の定期落として、真紀が『落としましたよ』って、拾ってくれたの」

「・・・うぅーん。やっぱり思い出せないな。それで?」

「それで、定期、わたしが受け取るとき、屈んで拾ってくれたせいで、定期の上に乗ったブラウスのボウタイに少し触ったのよ」

「・・・うぅーん。話しが見えない・・・」

「要するにね、そのとき触ったブラウスの布地のトロんとした肌触りに、雷に打たれたような衝撃を受けました」

長い沈黙。

流加は、瑠衣子の言っていることがなかなか分からない様子だった。

しばらく、流加の言った言葉を反芻し、次第にその内容が理解出来はじめると、ほとんど信じられないといった顔つきで唖然となった。

「なによ、それ――」

やがて、長い沈黙を破り、おもむろに口を開く星野流加。

「それじゃあ、あなたがずっと見てたのは、このブラウスであって、わたし自身のことなんか、全く見てなかったんじゃない」

言いながら、流加は次第に語気を強めていく。

「確かに、このブラウスは、わたしが持ってるブラウスの中で、肌触りは良い方だけど、シルクサテンとかならまだしも、こんなの、ただのポリエステルの布でしょ? あなた、その“ただの布”に、特別な愛情を感じたっていうの?」

流加は、瑠衣子の目の前に、リボンのボウタイを突き出し、上下に揺らしてひらひらさせながら言った。

「最初は、最初は、よ! あなたに興味を持つキッカケ。そう、単なるキッカケに過ぎないの」

「もう、騙されません」

「はい?」

「あなたには、このブラウスさえあれば良いんでしょ? 分かったわ。本意ではないけど、あなたのTシャツとこのブラウス交換するから、それ、脱いでくれる? このブラウスはあなたに渡すから、後は、部屋に飾って眺めるなり、一日中まさぐって手触りを楽しむなりして、好きにすればいいわ! どうせわたしなんか、このブラウスより存在価値無い人間なんだからっ!」

星野流加はそう喚いて、瑠衣子のTシャツを脱がそうと、彼女の腰に手を延ばしてくる。

その瞬間、瑠衣子は、腰部に延びた流加の手を掴んで押さえ、やや前のめりになった流加の唇に、自分の唇を重ねた。

すかさず、「嫌!」と言って激しい勢いで顔を背ける真紀。

「やっぱり、同性にキスされるのは、嫌だった?」

「うー・・・」

星野流加は、考えながら低い唸り声を上げる。

「い、そこまで嫌じゃなかったけど、わたし・・・さっき・・・吐いたから・・・」

「え、なに? そんなこと気にしてたの?」

「そりゃ、気にするでしょうが!」

「あはは。まあ確かに『この子、さっき吐いたんだったよな』って、してから思い出したけど、わたしは平気よ。なんなら、もう一度しましょうか? 今度は、ものすごくフレンチなやつ・・・」

瑠衣子のこの発言に、さっき、瑠衣子のTシャツを脱がそうとしたときの勢いはどこ吹く風、明らかに身も心も引きまくっている真紀。

「確かに、わたしが最初に“恋”をしたのは、あなたのそのブラウス。だけどね、そのブラウスも、あなたが着ていなかったら、わたしにとっても“ただの布”に過ぎなかったかもしれない。つまり、そのブラウスの魅力も、あなたあっての魅力なのよ。あなたがいなくなって、そのブラウスだけ残っても、なんの意味もないの。分かる? わたしには、あなたが必要なのよ!」

「それって、わたしが、このブラウスの引き立て役として必要だって言ってるようなものだけど?」

「あーん、もう!そうじゃなくて!」

瑠衣子は、右足で屋上に敷き詰められたブロックをダンダンと踏みつけ、文字どうりの地団駄を踏んだ。

「あははは。瑠衣子ったら、駄々をこねる子供みたいね」

流加は、左手で口元を隠して大笑いした。

「だって・・・」

瑠衣子は流加のその仕草を見て、育ちの良さを感じ、自分の態度が急に気恥ずかしくなった。

「わたしもブラウスが好きだから、瑠衣子の、そのブラウスに対する想い、多少は分からないでもないわ。正直言って、わたしにとっても、ブラウスは“ただの布”じゃないし。ブラウスが好きで、ずっとブラウスばっかり着てきたわたしにとって、その役割りは、悪くないかもしれないわね」

明らかに気落ちした様子の瑠衣子に、流加は、優しく語りかけた。

「じゃあ・・・」

話しの流れに、瑠衣子はほっとして、表情をやや明るくして言った。

瑠衣子のその表情の変化を、真紀は見逃さず、ここで彼女にしては初めて未来の話しを切り出した。

「そしたら、これからわたしの部屋行って、わたしの持ってるブラウス、見てくれる?」

「良いの?」

「わたしが良いって言ったら、良いの。今着てる、このブラウスより、素敵なの、沢山あるんだからね。誰にも見せたことないけれど、あなたには、見て欲しい」

「ありがとう」

瑠衣子の心からの感謝だった。

「でも・・・」

流加は、腕組みをし、右手を頬に当てて怪訝そうな表情をする。

「これって、いわゆる同性愛よね?」

「いわゆるも何も、どこからどう見てもそうだけど?」

「それこそ、今度は本当の神様から罰を与えられかねないじゃない」

――Fin.――

「ブラウス」にまつわる短編小説と連載小説を掲載していきます。

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