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7 屋上のピクニック

 ブラインドの隙間から、やわらかな朝の陽が射し込んでいた。

 椅子に深く身を預け、ラヴクラフトは居眠りをしているようだ。眼帯に隠されていないほうの目が、そうやって閉じられていると、思いのほか長い睫毛の影が頬に落ちる。高い鼻梁はもとより、かたちのよい唇や、少し張り出した顎のラインも、ギリシア彫刻めいた端正さだった。

 しばらく、譲史はぼんやりと、ラヴクラフトの寝顔を観察していたが、やがて意識がはっきりしてくると、「待て。俺はなんだってこいつに見とれてるんだ?」というもっともな疑問が浮かび、はっとして身を起こそうとした。

 そこは病室だった。それも個室の。

 譲史は、自分の胸や指先がコードに取り付けられ、ベッドサイドの機械と繋がれているのに気づく。モニターには、それが何なのか譲史にはわからないが、おそらくは彼の状態を測定したものであろう数値やグラフが表示されていた。

「目が覚めました?」

 ラヴクラフトがいつのまにか目を開けて、譲史に笑みを向けていた。

「俺は……」

「一ヵ月も眠っていたんですよ」

「ウソだろ!?」

「はい、嘘です。……ただの冗談ですよ。そんな顔しないで」

「……っ」

「倒れてから十時間くらいじゃないですか? 先生を呼んできましょう」

 ラヴクラフトは椅子から立ち上がった。

「島本宏志はどうした」

「死亡が確認されました」

「被疑者死亡で書類送検、ってことか……」

「それを今考える必要はありませんよ」

 そう言い置いて病室のドアを開けたラヴクラフトの背中へ、譲史はさらに言葉をかける。

「一晩中――、ここに居てくれたのか……?」

 ラヴクラフトは一瞬、振り返りはしたが、チェシェ猫のような謎めいた笑みを浮かべただけで、何も答えないまま病室から出てゆくのだった。

 

 その後、すぐに主治医がやってきて検査をさせてくれと言い出した。

 言われるままに病院内をあちこち移動させられているうちに、午前中は過ぎていった。

 倒れたときは死ぬのかと思ったが、目覚めてからはむしろ体調が良い。ただ検査のために水も飲ませてもらえなかったので、腹が減り、死ぬほど煙草が吸いたかった。

 ひととおりの検査が済んだらしく、ようやく解放されるかと思ったら、主治医がどこかそわそわした様子で診察室へ来いと言う。

 思えばこの同じ部屋で、がんの告知を受けたのは、ほんの一昨日のことなのだ。

 それがまるで何年も前のことのように思えた。

「……江戸川さん」

 医師が神妙な顔つきなので、これはいよいよ、なにか決定的なことを言われるのかと身構えたが、果たして、続きは意外な言葉だったのだ。

「どうご説明すればいいかわからないのですが……検査結果を見る限り、肺の影は消えています」

「……え?」

「ありえないことなのですが、がんが治癒しつつあるとしか」

「昨日の今日で? 何もしてないのに?」

「ですから、ありえないことだと……」

「俺、血を吐いて運ばれたんですよね?」

「ええ、それは……昨晩、救急でいらしたときは呼吸困難でしたので酸素吸入もしましたし……。しかし、その後、未明までに急速に落ち着かれて、バイタルも安定しましてですね……」

「では退院しても?」

「できればこの謎を解くために徹底的に調べさせていただきたいところではあるのですが、何の症状もない人をお引き留めするわけにもいきませんからね」

 不承不承といった様子で医師は言った。

 そうとなれば、ここにはもう用はない。寝てなどいられないのだ。譲史はそう思ったが、とはいえ、目下捜査にあたっていた事件は、被疑者死亡でかたがつきそうだった。動機や事件の詳細にまだ謎はあるが、追うべきものはもういないと言えただろう。どこまで調べるかは難しいところだ。気持ちとしては徹底的に調べ抜いて、すべてに納得いく答えを見つけ出したいが、島本が死んだ以上、それはかなわぬことかもしれないし、上は被疑者死亡で捜査は終わりとみなすだろうから、いつまでもこだわることを望むまい。

 そんなことを考えながら病室に戻ってみれば、部屋は無人だった。

 ベッドの上に新品のシャツとスラックスがたたまれたかたちで置かれていた。

 傍らにはカードが一枚。


着ておられた服はクリーニングに出しています。よければこれを着てください。

昨日はランチが中断してしまいましたので、今日こそご馳走します。

屋上までいらしてください。

――H.P.Lovecraft


 服は真っ白いオックスフォードシャツで、あつらえたように譲史にぴったりだった。どうしてサイズがわかったのだろう。気味が悪いが、清潔な服に着替えると、気分はかなりすっきりした。病気が治ってきていると聞いたせいか、ぐっすり眠ったからかはわからないが、身体も軽いのだ。

 譲史はカードの言葉に従い、屋上へと向かった。

 重い扉を押し開けると、たくさんのシーツが干されて風になびいている。

 ばたばたと揺れるシーツの波間を進んでゆくと、その向こうに見えたものに、譲史は足を止め……誘いに乗ったことをいささか後悔した。

 ここで、飯を食うのか? こいつと、俺が、ここで?

 そこには布が広げられ、ラヴクラフトがくつろぎながら譲史を待っていた。ジャケットは脱いで、シャツの上はゆるめたネクタイとベストだけの恰好だ。

 影のようにアラブ人執事が控えており、その前に大きなピクニックバスケットが三つも並べられている。

「本当はシャンペンでも抜きたいところなのですが、お身体に障ってはいけないと思って」

 ラヴクラフトがグラスを差し出てくる。やむをえず受け取り、布のうえに腰を下ろすと、執事がペリエを注いでくれた。

「どうぞ召し上がってください。お茶もお淹れしましょうね」

 バスケットのなかは、ずらりと並んだサンドイッチ――胡瓜にハム、卵、クレソンなどが挟まれている――、バゲットに、パイのようなもの、切り分けられたチーズの塊、ピクルス、スモークサーモン、手の込んだパテに色とりどりの果物のコンフィチュール、りんご、ナッツ、焼き菓子の類……とにかく、うまそうなものがぎっしりと用意されていた。

「ミルクを入れてもいいですか? 砂糖は入れます?」

 譲史は空腹だったから、それは魅力的以外のなにものでもなかったが、このもてなしを素直に受けることを、躊躇させるものがある。

(こいつは……このやり方はまるで……)

 あのリムジンや、身なりのことを持ち出すまでもなく、ラヴクラフトが金に不自由する身分でないことは明白だ。そして、金を使うことに恐ろしく慣れていて、何の躊躇も感じられない。それは生まれながらの王侯貴族や富裕層が持つ振る舞いであり、そうでないものにはある種の暴力性すら感じさせるものだったのだ。

 言うなれば初めてデートした相手が、突然、高価な貴金属をプレゼントだと言って差し出してきたような不気味さだ。

「なぜ、と思っていますか?」

 思いを読み取ったように、ラヴクラフトは言った。

「なぜこんなことをするのか、って。譲史さんにはきっとご迷惑をおかけしただろうと思っています。そのお詫びの意味もあって――というのでは、納得していただけないでしょうか」

 ラヴクラフトは、うつむき加減だ。それは譲史が初めて見る、彼が自信なさげにしている様子であった。

「かえってあなたを不審がらせたり、なにか失礼にあたることをしているのだったら謝ります。ぼくはその……実のところを言うと、こういうことにあまり慣れていなくて。こういうことというのは、つまり……誰かと仲良くしたいという、そういう意味なのですが」

 ふっ――、と、譲史は心がほどけるような思いを抱いた。

 ラヴクラフトの言葉に嘘はないようだった。それではつまり……構えてしまっていたのはこちらのほうだったのか。この男の振る舞いは、額面どおりに受け取ってもいいのかもしれない。

 空は青く、澄んでいた。

 やわらかな風が、真っ白いシーツをそよがせている。

 譲史は布のうえに腰を下ろすと、サンドイッチをひと切れ取って、かじりついた。

「うまいじゃないか」

 そう言って笑ったつもりだったが、果たして。

「……お互い様だな。俺もとっつきにくいと言われるから、親しくしてるのは倉田ぐらいだ。しかしあいつは誰にでも寄っていく犬みたいなやつだからな」

 ラヴクラフトは、安堵したような笑みを見せる。

 なんともぎこちない、笑顔の応酬だった。

「おまえの捜査はまだ終わっていない。そういうことだな」

 刑事の顔つきに戻って、譲史は言った。

 ラヴクラフトは、だからまだアメリカには帰らない。これからも譲史に協力してほしいということなのだ。

「譲史さん。お願いがあります」

 あらたまって、ラヴクラフトは言うのだった。

「ぼくと一緒に、温泉旅行に行ってほしいのです」

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