幕間 翁
そこは、夜の盛り場だった。真夜中を過ぎても大音量でカーステレオの音をがなりたてる車が路肩に連なり、歩道にはへべれけになった酔客や、嬌声をあげる女の子たち、邪魔になるのも顧みず路上に座り込む若者グループでいっぱいである。
しかし、その通りから、ひとつ角を曲がり、一本奥の道に入ると――、不思議なほどあたりは静かになった。周辺の店はみな閉まっていて、車ひとつ走っておらず、街灯は暗い。
その建物は、モダンなデザイナーズマンションのように見えた。
おもてには何の看板も出てはいないが、明滅する蛍光灯の下のエントランスへ入り、ひっそりとした廊下を進めば、なにやら横文字の店名が掲げられた鉄扉がある。重々しい扉を開けると、聴こえてくるのは地の底から響いてくるような重低音と、かすかな音楽。
待ち構えていた屈強な体格の黒服からはいらっしゃいませの言葉ひとつないが、金を払えば、かれらの後ろの二重扉を開けてもらえるのだ。
そこから先に足を踏み入れると、音の洪水が襲い掛かってきた。ドゥン、ドゥン、と身体に直接伝わってくるほどの大音量だ。
吹き抜けのフロアを見下ろせる回廊状の通路が続き、高い天井から吊られた無数の照明から放たれる光が、スモークの煙る空間を刺し貫いているのが見渡せた。
手すり越しに下をのぞきこめば、おもてのひっそりとした様子からとうてい予測できなかった数の人間が、そこにひしめいているのがわかっただろう。
通路を進むと、手すりや壁にもたれている先客が、新顔へねっとりとした視線を浴びせ、値踏みしてくる。すれちがうのは、皆、男ばかりだった。
フロアへは螺旋階段で降りることができる。
スモークの甘い匂いに、すれ違う男の香水と汗の匂いが混じる。
空間の一方は酒瓶の並ぶ壁を背にしたバーカウンターで、残りの三方はボックス席の連なりが影に覆われていた。光があたるフロアの上では、肩が触れ合わずには通れないほどの密度で、男たちが踊りに興じている。
そう――。女性はただの一人もいなかった。
もし万が一、何も知らずにこの場に迷い込んできたものがいたとしても、そろそろここがどういう場所かわかりはじめた頃だろう。
客の多くは若い。シャツにキャップといったカジュアルなスタイルが多かったが、やや年上のものはジャケットをひっかけているものいる。
曲調に合わせて照明が変わり、色付きの光がさっと走ったときにボックス席に目を遣れば、肩を寄せ合って、手を握ったり、耳元で囁き合ったりしている男同士のすがたが見えたことだろう。
そして、フロアの目立つところには一段高くなったステージ状の場所があり、そこでは、レザーのパンツだけを身につけ、鍛えられた半裸をさらした男たちがスポットライトを浴びてその肉体を誇示しているのだった。
さて、その全貌を見下ろす位置に、前面がガラス張りの部屋がある。
防音ガラスであるらしく、部屋の中へは音楽は聴こえてこない。
観覧席のように置かれたコルビジェのソファに、細身のダークスーツをまとったひとりの男がいて、ソドムの狂宴を眺めていた。
男はただ一点を除き、いかにもこの場にふさわしい夜の住人の空気を漂わせている。
黒光りするほどに磨かれた靴や、細い指を飾るやはり黒い石を彫った指輪。整えられた濡れたような艶のある髪といったすべてが、形としては整然としているのに、どこかしら蠱惑的な匂いを放っているのだ。
「あの……」
控えめな声が背後からかかった。
黒服に付き添われて、ひとりの青年が部屋に入ってきたところだ。Tシャツにジーンズの、大学生ふうの素朴な若者であった。
「面接に来た、アキラです」
男はソファから立ち上がって、青年を迎えた。
振り向いた男の姿を見て、青年はぎょっとしたようだ。それもむりはない。異様なことに、男のおもては、仮面に覆われていたのだ。
それは翁と呼ばれる、老人をかたどった能面だった。
給仕が銀盆を手に滑るようにあらわれた。盆には黄金色の液体が入ったシェリーグラスがふたつ。
「飲みたまえ」
面の下から聞こえた声は、存外に若い。
青年は戸惑いながらも、言われるままグラスに口をつけた。
「……うわ、なんすか、これ」
「蜂蜜酒だよ。……カラダを見せて」
青年はシャツを脱いで半裸になった。よく鍛えられた筋肉があらわになる。
当然ながら、仮面の下の表情を読み取ることはできない。しかし翁面が、じっとりとした眼差しでおのれの半裸を検分しているように感じられ、青年は居心地が悪そうだった。
翁面は本来、福の神をあらわし、その表情は柔和な笑みである。
だが卓越した能楽師が、無機質な面に表情を宿らせるように、どこかしら、この翁のおもてには、邪悪なものが感じられる。
ぱちん、と気障な仕草で、翁面の男は指を鳴らした。
「いいだろう。合格」
「本当ですか。やった。このお店、二丁目でも評判だから嬉しいです」
別の黒服が、今度は奇妙なものを盆に乗せてやってきた。
「本は好きかな」
「えっ。いや、あんまり……」
「読みなさい」
「ええっ……」
男が盆から受け取り、差し出してきたのは、ひどく分厚く、古めかしい書物であった。その厚さに尻込みしたように、青年は受け取ろうとしなかったが、
「私のもとで働きたいのなら、読みなさい」
と言われて、しぶしぶ受け取る。見かけ以上に重い本だった。そして、その装丁が湿っているような、生温かいような不気味な感触がして、思わず身を震わせた。
「でも仕事って、ここのステージで踊ることですよね……?」
「きみにはもっと大きなステージを用意している」
翁面が、にぃっ、と笑みのかたちをつくったような錯覚があった。面の下の声が告げる。
「その本は、より高みへ飛ぶために、きみを新しい自分に変えてくれるだろう」
翁面の男は、三度あらわれた給仕の銀盆から小瓶を取ると、その中身を指先にすくい、青年の鼻先へと近づけた。
「この匂いをよく覚えて。そして追うんだ」
「え……」
男の指が青年の髪へと差し入れられ、その粘性のあるゼリー状のものを塗広げてゆく。どうやら整髪料だ。青年の髪が艶やかに整えられていくのを、翁面が満足げに眺めているように感じられた。
「きみはわたしの忠実な猟犬になってもらうよ」