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6 胎児よ、胎児よ

「待て!」

 叫びながら、なんとも間抜けな声掛けだと、譲史は思う。待てと言われて待つ逃亡犯などいるはずもない。それでも逸る気持ちは声をあげずにはいられないのだ。

 警官は警察学校で「声は武器だ」と教わる。

 凶行をなそうとする犯罪者に、やめてください、と優しくお願いをしてもやめてはくれない。やめろ!と力強く声を出すことで、相手を威圧することができる。

 譲史はその教えに忠実な刑事だと言えた。

 夜空の背景を鉄骨のシルエットが縦横に区切っている。そのなかを、金属音を立てながら駆けていく逃亡者のすがたがあった。

 段を飛ばして駆け上がった譲史が、指し渡された足場の上を逃げる男を追う。

 防音のために現場を覆っていたシートは、ある程度以上の高さからは採光のために飛散防止をおもな目的とするメッシュシートに変わる。

 夜風が、鉄骨のあいだを吹き抜けていった。遠くに街明かりがちらついて、ここが高所であることを警告している。片手に拳銃、片手に手すりという格好で走る譲史だったが、安全帯もなく、本職の鳶でもない彼だ、うっかり足を滑らせれば命はない。

 対して、逃げる男はまるで恐怖を感じないように、高所の足場をものともせずに駆けてゆく。上に逃げたのが運の尽き、あとは追い詰めるだけだと思ったが、この様子ではどうかして逃げられるかもしれない。

「畜生」

 覚悟を決めて、譲史は発砲した。

 弾丸は鉄骨にあたったようで、ぎぃん――!と、耳障りな音が響き、闇の中に火花が散る。だがもとより当てるつもりのない威嚇射撃だ。さすがの相手も銃声を聞いて身をすくませたのを見れば狙いどおり。

 その隙を逃さず、幅跳び選手のようなストライドで、譲史は距離を詰めてゆく。

「島本宏志!」

 二度目の射撃。今度はあたってもおかしくないところを射線が貫いた。

 すでに、間合いはほんの数メートル。しかも、ふたりは一本道の足場のうえで、島本の行く方向で足場は途切れて終わっていた。チェックメイト。

 島本は手をあげた。

 譲史は銃の狙いをつけたまま、慎重に近づいてゆく。

 島本はもはや袋のネズミであるが、窮鼠は猫を噛むものだ。この場で揉み合いになればすこぶる危険である。

 ここまでの追いかけっこで乱れた呼吸を、譲史はどうにか落ち着かせようとする。まるで細かい硝子の針が混じった空気を吸ったとでもいうように、肺が燃えるような心地だが、気取られぬよう、努めて抑えた声で、譲史は話しかけた。

「島本宏志。妻を殺したのはおまえなのか?」

「……そうだ」

 フードの下から、絞り出すようないらえがあった。喉を傷めてでもいるのか、押しつぶしたようなざらついた声音だった。

「おまえが彼女の腹を裂いたのか」

「そうだ」

「なぜだ。おまえの子だろ? ……もしかして、違ったのか?」

 ふいにそのことに思い至って、譲史は訊いた。妻のお腹にいたのが不義の子だったなら、激昂した夫が腹を裂くこともあるのやもしれぬ、と思ったのだ。だが、はたしてフードの陰から漏れてきたのは、含み笑いだったのだ。

「違う……そうじゃない。そうじゃないんだ。間違いなくおれの子だった……。だからだ。だから殺した」

「それはどういう意味だ」

「生まれてはいけない子だった」

「……」

 ごう、と夜風が唸った。

 現場を囲うメッシュシートがばたばたと風をはらむ。

「仕方なかったんだ! あの子を――あれをこの世に産み落とすわけにはいかない。そしてこのおれ自身も消えなくてはならないんだ。あってはならないものだから……この世にあるべきじゃないものとして……あの子を……おれは……。こんなはずじゃなかったんだ……亜矢、すまない……」

 最後の言葉は、涙声になっていた。

 肩を震わせていた島本の身体が、耐えかねたように崩れ――譲史があっと思う間もなく、しかし、スローモーションのようにはっきりと、傾いでゆくを彼は見た。

 風向きが、変わった。

 違う方角から吹き込む風は、島本のフードをあおり、星明りのなかにその貌をあらわにした。

 そこにあったものは、人間の頭部ではなかった。

 ――魚だ。

 まぶたのない、大きな丸い眼には、なんの表情もなかったが、それなのに言い知れぬ哀しみをたたえ、細かい歯の並んだ大きな口が、まさしく陸にあがった魚類よろしくぱくぱくと動き――見るものに根源的な嫌悪を抱かせずにはおかない、生臭さを感じさせる異形の頭部を、しかし譲史が仔細に観察する暇もなく、島本宏志の身体は、真っ暗な工事現場の闇のなかへ、まっさかさまに転落していったのだった。


「倉田。おい、平気か」

「……あ、江戸川さん……」

 気絶していた倉田刑事は、呼びかけるとすぐに目覚めた。大事はなさそうに見える。

「島本は?」

 譲史はかぶりを振った。

「落ちたよ」

「ああ……」

「応援を呼んだから、じきに鑑識が来る。救急も呼んであるから病院行けよ。頭打ってるからな。痛むか?」 

「少し……。ありがとうございます……」

 倉田は身を起こした。無理をするな、と譲史は止めたが、いえ平気です、と答えて彼は立ち上がり……、その声のほうへ顔を向けた。


 Hush-a-bye, baby, on the tree top!

 When the wind blows the cradle will rock;

 When the bough breaks the cradle will fall;

 Down will come baby, bough, cradle and all.


(あかちゃん、おやすみ、木のうえで

 風が吹いたら、ゆりかご揺れる

 枝が折れたら、ゆりかご落ちる

 あかちゃん、ゆりかご、みな落ちる)


 歌声――。

 片隅に積み上げられた資材のうえに、ラヴクラフトが腰かけている。彼は腕のなかにそれを抱き、低く、歌っていた。

「そ、それは……」

 吸い寄せられるように、ふらふらと倉田が近づいてゆく。ラヴクラフトが抱いているのが、もとは島本が抱えて持ってきたものであることに気づいたのだ。そう、彼はその毛布にくるまれたものを、この工事現場に埋めようとしていた。

「まさか」

 倉田は、毛布のなかをのぞきこみ、そして息を呑んだ。

「そ、そんな……なんで……どうしてこんな酷いことを……あ、赤ん坊を、焼き殺すだなんて……!」

 こみ上げてきた嘔吐感に、口を押える。

 毛布のなかにあったのは、黒焦げになった胎児とおぼしきものであった。時期から考えて胎児はほぼ新生児に近いすがたをしていたはずだが、もはや見た目では、男女もわからない。

「妊娠中の妻のお腹から胎児を取り出して……焼いたうえに、埋めようとしたっていうんですか? なぜ……」

 倉田の疑問に答えるものはいない。ただ譲史の頭のなかには、島本の言葉が思い起こされるだけだ。

(生まれてはいけない子だった)

(そしてこのおれ自身も消えなくてはならないんだ)

「ちょっといいか」

 譲史はラヴクラフトに目くばせをする。隻眼の紳士は、遺骸を包む毛布をそっと置くと、譲史に招かれるまま、暗がりへ。

「なぜ島本が子どもを埋めに来るとわかった」

「彼の自宅は素敵なお家でしたが庭がありませんでしたから。彼の仕事が建築関係だと聞いて、工事現場ならおあつらえ向きだと考えました」

「胎児がどういう状態かも予測していたのか」

「どういう、とは?」

 譲史の眼光がラヴクラフトを射抜く。埋めようのない身長差のために、譲史は常にラヴクラフトを見上げざるを得ないが、心理的には絶対に見下されるものかという気迫を込めて、譲史は続けた。

「俺は島本宏志の顔を見た。レストランの男と同じだ。いや、様相はだいぶ違う……島本は魚だった。まるで半魚人だよ。……驚かないな」

 ラヴクラフトはたくましい肩をすくめるだけ。

「《禁書》の影響なのか?」

「学んでいますね、譲史さん。いいことです。ええ、そのとおり。彼が接触したのは『ルルイエ異本』。《最も忌まわしき十二の書》のひとつで、ぼくはそれを追って日本へ来ました」

「やっと本当らしいことを言ったな。それはいいだろう。しかし、俺の鼻はごまかせんぞ。なぜ胎児は焼かれる必要があった?」

「『胎児よ、胎児よ、何故躍る。母親の心がわかっておそろしいのか』」

 うたうように、ラヴクラフトは言った。

「『ドグラ・マグラ』という小説の一節です。夢野久作という作家が……」

「はぐらかすな!」

 譲史はラヴクラフトのスーツの襟を荒々しく掴んだ。

「俺の鼻はごまかせんといったんだ。このにおいは何だ? ……今朝、島田家でも俺は同じ匂いを嗅いだ。()()()()()()()()()()()。あの家の朝食には焼き魚が出てたからそれは不思議じゃない。だがなぜ、この工事現場で同じ匂いがする? ……胎児を焼いたのは島本じゃない。ここで、おまえがやったんだ、ラヴクラフト。なぜだ」

「……」

「胎児も……父親と同じく、魚になっていたのか? どういうことだ。島本が変わったのが《禁書》のせいなら、子どもは――」

 譲史は発作のような激しい咳き込みにラヴクラフトを掴む手を放した。

「譲史さん?」

 平気だ、と手で示そうとして、しかし、咳は一向にやむ気配がない。

 ひゅうひゅう、と不吉な喘鳴を漏らしながら、譲史は膝から崩れた。

「譲史さん!」

 喀血が散る。呼吸困難に陥っているようだ。ラヴクラフトは譲史の背中を支えて仰向かせ、その頬に手をあてた。

「聞こえますか? ぼくの目を見て。譲史さん」

 何度も名を呼ぶ。

 その声を、譲史は遠い意識の片隅で聞いている。

 息ができない。全力疾走は、病に侵された肺には少々酷だったようだ。視界が霞み、身体に力が入らない。呼吸が苦しい。まるで、泥の中に埋められていくようだ。今朝見た夢は、それでは予知夢だったとでもいうのだろうか。

 持ち上げられるような感覚があった。

 冗談じゃない、こいつ……俺をお姫様抱っこしやがった。心のなかでめいっぱいの悪態をついたのを最後に、江戸川譲史は意識を手放した。

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