5 真夜中に墓穴を
都内某所、真夜中近く――。
街灯の光を避けるような場所にひっそりと暗い色のセダンが身をひそめるように停まっている。時間と場所を考えれば、無人の路駐と考えるのが自然だったが、果たして、車内ではふたりの男がじっと息を殺すようにしている。事実、それは獲物を待ち構えている狩猟者であったのだ。
「ここで何があるって言うんでしょうね」
沈黙に耐えかねたように倉田刑事が言った。
「知らんよ。眼帯野郎は何も言ってなかったのか」
「ドクターはここに島本宏志が来るはずだとだけ」
「ドクタぁー?」
譲史は片眉を跳ね上げた。
「博士号を持ってるんだから、ドクターでしょう。ドクター・ラヴクラフト」
ふん、と譲史は鼻を鳴らす。倉田刑事が買ってきてくれたコーヒーを飲み干してしまったことに気づき、ぐしゃりと、カップを握りつぶした。
「あそこはマル被の仕事場なんだろ」
「ええ、ドクターは島本が建設会社の社員だと聞くと今担当している現場を知りたがっていました。それで会社に問い合わせたんです。8階建てのオフィスビルを建ているそうです」
ふたりの視線の先には、シートで覆われた建設現場があった。
島本宏志は目下指名手配されているが、その行方は掴めておらず、目撃情報もない。ここにあらわれるだろう、というラヴクラフトの予言に信憑性は感じられなかったが、ほかに手がかりもなく、また、上層部からは「彼の捜査に協力せよ」とのお達しなのだ。
そのラヴクラフトも別の場所から張り込みに参加しているらしかった。さすがにリムジンは目立つので他の車両を手配すると言っていたようだが……。
コーヒーが切れたことで苛立ちを抑えるものがなくなり、譲史は加熱式タバコに手をのばした。
「江戸川さん、控えたほうがいいんじゃないですか。また健康診断ひっかかりますよ」
倉田が言った。
「……倉田ぁ、おまえ付き合ってる女とかいんの?」
「いきなりなんですか。プライヴァシーでしょ」
「刑事にそんなもんあるかよ。俺はいないぜ」
「知ってます」
「別にいつ死のうが、誰も構いやしないってことさ」
「江戸川さん……」
本気で心配しているふうの倉田の声音を、冷めたにやにや笑いで受け流す。
それにしても、なんと忙しく、狂気じみた一日だったろう、と譲史は思う。
昨日は昨日で病を宣告され、悪夢とともに始まった日。悪夢の続きのような血まみれの事件現場で呼び出され、隻眼のおかしな男と出会い、高級レストランの食事に誘われたと思ったらそこで料理人が怪物に変わって襲ってきた。その夜に、殺人犯があらわれるのを待って張り込みをしている……。
そのときだった。
「江戸川さん!」
倉田が緊張した声で、もう一度彼の名を呼んだ。
言われるまでもなく、譲史は双眼鏡で、その人物――建設現場に近づいてきた人影を確認している。
「顔が見えんな。だが入っていくぞ」
むろん建設現場は作業が行われている時間でなどありえない。出入口は施錠されているが、その人影は鍵を開けて中に入ったのだ。
「ドクター。あらわれました」
倉田が電話をかけているのを後目に、譲史は車を飛び出してゆく。
その人影は、勝手知ったる様子で建設現場に入っていった。
蒸し暑い夏の夜だというのにウインドブレーカーのようなものを着て、顔はフードの下であるが、背格好からすると男のようだ。そして、その者は、腕の中に、布にくるまれた何かを抱きかかえている。
現場は、基礎ができて、そのうえに鉄骨の骨組みをつくりはじめたところのようだった。昼間なら、重機の駆動音や行き交う作業員の足音、諸々の作業音や話し声に喧しく満たされているはずのところを、この時刻はしんと静まり返り、まるで世界が滅びたあとに残された廃墟のように、鉄の柱が星明りの空へと林立しているばかりだ。
人物は、片隅に置かれていたショベルを手に取ると、まだコンクリートが敷設されていない剥き出しの地面になっている箇所を、掘り返し始めた。
静かな工事現場に、謎の人物が土を掘る音だけが響く。それは不吉な墓堀人のわざを思わせた。
やがてそこそこの深さの穴が掘れたと見えたとき、人物はそこに膝をつき、布にくるんだものを、どこか厳かに、その穴の中に置こうとして――。
あたりが、ぱあっと真昼のように照らし出された。
夜間作業用の照明が一斉に灯ったのだ。闇の中で作業をしていた目は眩んだことだろう。人物が狼狽したように見えた。
「動くな、警察だ」
光のなかにゆっくりと歩み出てきたのは、むろん譲史である。その手のなかには拳銃があった。
「島本宏志だな?」
銃口が、人物の背をぴたりと狙っている。
「手を挙げてゆっくりと立ち上がれ」
相手は従った。
「こちらを向いて顔を見せろ」
「……」
「聞こえたか? こちらへ顔を見せるんだ」
弾かれたように、島本と思しき人物が駆けだした。
「止まれ!」
譲史が叫ぶ。
島本が逃げた方向の闇からは、倉田刑事が飛び出してきたが、島本は止まらなかった。掴みかかる倉田へとタックルを食らわせる。譲史は倉田が吹き飛ばされるのを見た。体格はさして違わないのに、体幹が相当強いのだろう。アメフトかラグビーの経験があったのだろうか。
だが倉田も鍛え抜かれた警察官らしい根性を見せた。すぐさま態勢を立て直し、逃げようとする男へ、後ろから抱きついたのだ。
「抵抗はやめろ!」
譲史は再び叫んだ。走りながら銃を構えたが、威嚇の効果があるかは甚だ疑問だ。倉田を誤射しかねないこの状況では発砲はできないからだ。
譲史がたどりつく前に、島本は倉田を振りほどき、蹴りを入れた。
蹴飛ばされた倉田は、運悪く鉄骨に後頭部を打ち付け、その場に崩れる。
「倉田、大丈夫かッ!」
いらえはない。出血はしていないようだが、脳震盪を起こしたのだろう。
譲史が迷ったのは一瞬だった。相棒を寝かせると、島本を追って照明の輪の外へと走り出す。
「止まるんだ、撃つぞ!」
譲史は闇の向こうへ叫んだが、相手の姿をとらえられもしないのに、闇雲に発砲はできない。拳銃の携行を許可されたとはいえ、日本の警察機構は発砲の妥当性の判断には厳しいし、鉄骨が林立するこの場では跳弾の危険もあった。
暗がりの向こうから金属音が響くのを耳にする。
「上か!」
逃亡者は、骨組みだけのビルの、鉄の階段を登っていったのだ。
怒号と、鉄階段を駆けあがる足音。にわかに騒々しくなった真夜中の建設現場の、場違いに明るく照らされた輪のなかに、おもむろにあらわれたのはラヴクラフトである。彼は刑事たちの追跡劇に加わる素振りはなかった。
大股に、島本が掘った穴へと歩み寄ると、 彼がそこに置き去りにしたもの――毛布にくるまれたものの傍へ、そっと腰を落とした。
きっちりと仕立てられた三つ揃えのスーツに包まれたその巨躯に比べ、島本が置いていった、それはあまりにも小さい。
「……」
ラヴクラフトは布をめくって中身を確かめ、その整った眉をわずかに寄せた。
北欧の湖水のような深い青の瞳に、いいようのない寂しさが浮かんだように見えたのは錯覚か。
彼は右手の革手袋を外した。
その掌に、タトゥーが施されているのがあらわになる。星形のなかに、眼が描かれた不気味なシンボルだった。
そして左目を覆っていた眼帯をそっとめくり……、閉じた瞼をおさえるように右手をあてがう。次の瞬間……!
黒い光――。
そのようにしか、形容できないものが、開かれたラヴクラフトの左目から迸った。
彼の眼窩は、虚空だった。ぽっかりと口を開けた深淵のような穴だったのだ。そのなかに、漆黒を背景にしてなにかが……闇よりも黒いなにかが、輝く闇を煌めかせながら存在しているようだった。
それが放つ黒い光を、ラヴクラフトは右掌のタトゥーで受け止め――、その巨躯を震わせた。食いしばった歯の間から、苦痛の呻きが漏れる。
燃えている――!
彼の右手が、ありうべからざる、黒色の炎に包まれ、燃え上がっていたのだ。
「…………っ!」
一体いかなる現象が起きているのか、常識的には説明できないが、それが彼に、実際の炎と同様の苦痛をもたらしているのは明らかだった。
ラヴクラフトは左目を閉じると、蓋をするかのように再び眼帯でそこを覆った。
一方、右手はしっかりと握り込まれ、その拳は黒い炎に包まれている。
彼は燃える拳を振り上げると、渾身の力を込めて、一息に振り下ろした。