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4 厨房の怪人

 厨房に入ってすぐのところで死んでいる給仕の向こうには、別の給仕が、できあがった料理を出すカウンターにもたれかかるようにして絶命していた。制服が血まみれだ。

 そのまた向こうにもう一人。さらに、調理場のほうに倒れている人間の脚が見えていた。

 譲史は慎重に厨房に足を踏み入れる。

 調理台の向こうで、なにかが動いている気配と物音がある。ぐしゅ、ぐしゅ、と湿ったものを叩いているような音だ。ここが厨房であれば、なにか料理をしているのだろう、で済む話なのだが、累々と死体がよこたわっている今となっては……。 

 ふいに、むくり、とそいつが身を起して、こちらを振り向いた。

 まだ若い料理人だった。

 そのシェフコートが返り血に染まっている。きわめて不吉なのは、男が手に持った肉切り包丁が血と脂にぬらぬらと光っていることと、男自身の口元も血に濡れていることだった。彼は大きな目を見開いて、譲史をじっと見つめた。

 譲史が警察手帳を提示する。

「警察だ。刃物をそこに置き、手をあげてゆっくりとこちらへ来い」

 男が従う様子はない。というより、言葉がわからないかのようだった。丸く見開かれた目はなんの感情も映し出してはいない。その口が、ぱくぱくと動いて、奇妙にざらざらとした声が流れ出した。

「オマエ、魚ノニオイガスルナ」

「あの魚の料理を作ってくれたのはあんたかい。うまかったよ。何があったんだ。話を聞かせてくれ」

 譲史は言った。アドレナリンが全身に行きわたり、次の動作に備える。私服刑事は拳銃を携帯していない。まずはどうにかしてあの刃物を放させなければ。

 そのときだった。

 男の片目がぐるりと裏返ったかと思うと、頭の半分が、ぼこりと膨れ上がった。まるで男の頭が風船で、誰かが空気を吹き込んでいるように、いびつな形に変形したかに見えると、突如、ぱくりとふたつに割けたのだ。

「なに……!?」

 割けたところには、びっしりと細かい歯牙の列が並び、上下の歯の間にねばつく唾液が糸を引いている。口だ。まぎれもなく、新たなあぎとが、ありえない場所に生まれたのである。

 異形の変化はそれだけではなかった。ごきり、ぐきり、と恐ろしい音を立てて、男の関節が異常な向きに曲がり、シェフコートの背中がせりだしてゆく。人が、目の前で人ならざるものに変わっていこうとしている――そのことが、譲史を戦慄させたとき、異形のシェフは、調理台を獣じみた動きで乗り越え、譲史へと猛然と飛び掛かってきた!

「冗談きついぜ!」

 譲史はすんでのところで包丁のひと振りをかわし、その腕を掴んで捻りあげた。首尾よく、相手は包丁を取り落としたが、その五本の指が、関節の可動域を無視してそれぞれがてんでばらばたの動きをしてみせ、それがどこか昆虫の脚を思わせて譲史をぞっとさせたかと思うや、指先を突き破って鋭い爪とも骨ともつかぬものを生やしたのだった。男は包丁に代わる武器を手にしたようだ。

 譲史の手を振りほどくと、男は爪で空を切り裂きながら、譲史に迫る。爪がジャケットをかすめると、その生地がぱっくりと切れてしまった。

「ク、ク、ク、クワ……セロ……ッ!」

 がちがちと、男の頭に生まれた顎が歯を打ち鳴らし、男の本来の口からはざらざらとした声が不穏な言葉を漏らす。四肢それぞれが、違う方向に曲がっているため、動きが読めない。男はパルクールのように壁を蹴って高く跳躍し、上から譲史に襲い掛かった。

「うおおおっ」

 恐怖か、威嚇か、奮起か――あるいはそのいずれもか、譲史が吠える。男の両腕を掴んで爪の攻撃は防いだが、もっとも恐ろしい部位が自由だ。大きな顎がくわっと開く。その幅は譲史の顔より大きい。譲史は悪臭ただよう口の中に、蛇のようにのたうつ舌があるのを見た。舌の先端には、眼球らしきものがあり、それが、ぎょろりと譲史を見て、目が合った――ように思えた。

「譲史さんッ!」

 なにかが飛び込んできて、譲史を押さえつけていたものがなくなり、体の自由が戻ってくる。

 ラヴクラフトがシェフにタックルしたのだ。

「下がって!」

「危険だ」

「いいえ。ぼくはこのようなケースの対処に慣れています」

 ラヴクラフトは、ナイトのように男と譲史の間に立ちふさがった。驚くほど広大な背中が、そびえる城壁のようにそこにあると異様に頼もしい。

「オマエ……イヤナ、ニオイガスルナ……」

 怪人が言った。

「対処って、どうするつもりだ」

「世間の人々は曾祖父を評価してくれています。文学の才能や、豊かな教養、慎ましい性格などを挙げて。しかし、曾祖父には、ひとつだけ、足りないものがありました」

 異形のシェフが再び床を蹴った。人間ばなれした跳躍だ。

 ラヴクラフトは逃げない。むしろ踏み出していく。右手の革手袋が固く握りしめられたことでみしりと音を立て、その拳が、怪人の爪よりも速く、唸った。

 見事な右ストレートだ。

 怪人は吹き飛び、床を三回跳ねてから、廊下の突き当りにあるトイレのドアに当たって止まった。

「曾祖父に足りなかったもの。それは――」

 ラヴクラフトは譲史を振り返る。

「筋肉です」


 代官山は騒然としていた。

 店の前には何台ものパトカーと救急車が停まり、所轄の警官たちがばたばたと出入りしている。

「残念です。デザートが食べられなかった。この店のジェラートが評判だと聞いていたのですが」

 のんきなことを言うラヴクラフトの傍らを、かれらに襲い掛かってきた男が、拘束された状態でストレッチャーで運ばれていった。

 その顔に、殴られた跡はくっきりと残っていたが、あの異形の顎はどこにもない。

「俺が幻覚を見たわけじゃないよな」

 譲史はパトカーにもたれかかり、加熱式タバコをふかした。犯人に続いて、シートに包まれた遺体が次々運び出されていく。夏の陽射しの下で、すべてがゆらゆらと陽炎のなかに溶けてゆくようだった。

「ええ。あれは《グール》です。『屍食教典儀』の情報汚染に暴露した症例をそう呼んでいます」

「でも……あいつはこの店の料理人だよな……?」

「仕事に不満があったのではないでしょうか。《禁書》の情報汚染は、特定のトリガーに反応して発症しやすい特徴があるのです。『屍食教典儀』は特にその傾向が強く、『現状への不満』がトリガーになります。この症例は1920年代にボストンの画家、リチャード・ピックマンが――」

「もういい。……殴れば治せるのか?」

「そういうわけではないのですが……」

「江戸川さん!」

 倉田刑事だ。

「大丈夫ですか!? 一体なにが」

「料理人の頭がおかしくなって同僚を皆殺しにしちまったのさ」

「江戸川さんたちが食事していた店で、たまたまそんな凶悪事件が起こったっていうんですか?」

「倉田刑事」

 ラヴクラフトは遮るように言った。

「頼んでおいたこと、わかりましたか」

「ああ、ええと……今、問い合わせ中です。わかったら、メールしましょうか?」

「おい待てよ。おまえ、倉田に何をやらせたんだ。っていうかいつの間に」

「こちらのアドレスまでお願いします。……譲史さん、今夜、例の殺人事件の犯人を逮捕しますよ。準備しておいてください。それから……ちょっと失礼」

 ラヴクラフトは倉田に名刺を渡すと、その場を離れた。

 見れば、離れた場所にあのアラブ人の執事が立っている。彼に呼ばれたようだ。

「江戸川さん、この名刺、名前とメアドしか書いてない。……俺、ちょっと調べたんですが、あの人、大学教授らしいんですよ。ほら」

 倉田のスマートフォンの画面には、どこかの大学のウェブサイトとおぼしきページに、隻眼の男の画像が貼り付けられている。

「文化人類学の博士号を持っているそうです。そして、今朝、外交ビザで入国しています」

「今朝?」

 譲史は眉を寄せた。

「島本家の事件が起きたのが今朝だぞ。その前に日本に来ていたのか。どういうことなんだ」


 一方、ラヴクラフトは。

「アヴドゥル、この店の予約に使ったプリペイド携帯は破棄してくれ。ぼくらが店に行くことを知られていた可能性がある。念のため、滞在先のホテルも変えよう。フォーブスの4つ星以上ならどこでもいいから、手配してほしい。……これが例のものだね。ありがとう」

 執事に必要なことを告げつつ、渡されたファイルを受け取る。中身をちらりと覗き見て、唇を引き結んだ。ファイルに挟まれた書類には、クリップで江戸川譲史の写真が留められていた――。

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