3 前菜のあとで
譲史は、リムジンに乗るのは人生で初めてだった。
「なにか飲みます?」
ラヴクラフトはミニバーを指したが、譲史はかぶりを振る。
なりゆきに納得していないことを示すために、乗り込むときもわざと荒っぽく振舞ったが、それさえ艶やかな革張りのシートはやわらかに受け止めてくれるのだった。
「ではお近づきの印には、こちらを差し上げましょう」
ラヴクラフトが飲み物の代わりに差し出してきたのは、一冊の文庫本だった。
黒い表紙に『ラヴクラフト全集1』とある。
「曾祖父の本です」
「作家だったのか……?」
「ええ。一般的にはあまり知られてはいませんが、一部に熱狂的なファンがいるのです。おかげで日本語にも訳されているようで」
「俺は本はあまり読まんな」
受け取った本をぱらぱらとめくった後、シートに投げ出したが、ラヴクラフトは表情を変えない。
読めない男だ、と譲史は思う。
「作家の孫がなんで捜査官なんだ」
「あなたはひいおじいさんと同じ仕事をされているのですか?」
「日本語が達者だな」
「ありがとうございます」
「皮肉だよ」
リムジンは代官山のあたりに到着した。
一軒家を改装したリストランテだった。
絨毯が敷かれ、モダンなアートが飾られた廊下を抜けてホールへ案内された。一方がガラス張りで、明るい陽射しを店内に取り込みながら、庭の緑が目を楽しませてくれる。
ホールのいちばん奥まった場所に、いつのまにかふたりのために予約されていたらしいテーブルがあった。
平日の昼間のことだ、店には身なりのいい富裕層のマダムといった風情の女性たちばかりだったので、ふたりの姿は異様に場違いだった。
譲史のダークスーツは吊るしの安物でよれよれだし、シャツはしわだらけだ。それに髭も剃っていない。ラヴクラフトは身なりこそ店には合っているが、この男の容貌が悪目立ちしない場があるだろうか。
ラヴクラフトはワインを注文し、譲史のぶんのグラスも運ばれてきたが、さすがにそれは断った。譲史のグラスには水が注がれる。
「今日の出会いに」
「……」
譲史は乾杯に応じない。ラヴクラフトは相変わらず微笑のままだが、テーブルには沈黙が落ちた。
やがて、前菜が来る。譲史の皿はタコのカルパッチョだったが、ラヴクラフトの皿は生ハムのサラダのようだった。
「ぼくは前菜のメニューを変えてもらいました。申し訳ないのですが、その八本脚の頭足類だけは昔からどうしても苦手で。でも、美味しいようですから、あなたはそれを召し上がってください。日本は海に囲まれているだけあってシーフードが素晴らしいと聞きますし」
ラヴクラフトはナプキンを首元から垂らし、食事に取り掛かった。ひとつひとつの所作が、腹立たしいくらいに様になっていた。
「それで、さきほどの質問ですが」
優雅にナイフとフォークを操りながら、ラヴクラフトは言った。彼は右手の手袋は嵌めたままだった。
「ぼくが属している組織は、実は曾祖父が創設にかかわったのです。曾祖父は小説家でしたが……ある時期から政府の仕事をしていました」
「あんたのひい爺さんがFBIを?」
「ああ、たぶん、誤解しておられると思うので――というか、さきほどは事態をスムーズに進めるためわざと誤解させたのですが、そのFBIではないのです」
「……なんだと」
「ぼくはFederal Bureau of Investigation――連邦捜査局とは無関係です。曾祖父が創設し、ぼくが属している組織は公的にはその存在が秘匿されているので、知られていないのですが、Forbidden Books Investigation、日本語に訳すなら、そう……《禁書捜査局》とでもいいましょうか」
「……」
「簡単に言うと、人類が知るべきでない情報を秘匿し、封印することを職務とする機関です。米国政府内でも、その存在を知るのはホワイトハウスの高官と……本来のFBI、あとはCIA、NSAの上層部などに限られています。非常に危険なものを扱っていますからね。そして、われわれの職務は、実は全世界が対象です。アーカム条約を批准している国連加盟国はすべて、《禁書法》にもとづき、われわれの管轄にある事案については、その捜査権を認め、われわれの指揮下に入らなくてはなりません」
滑らかな日本語で滔々と語りながらも、ラヴクラフトはフォークとナイフと口を動かし、前菜をきれいに片づけていった。
対する譲史は、あまりに荒唐無稽な話に、食事どころではない。警視総監直々の電話がなかったら、目の前の男は頭がおかしいとしか思えなかっただろう。
「……諜報機関ってことか? 今回のヤマがおまえの仕事にどう関係する?」
「諜報機関ではありません。情報を集めるのではなく、隠すのが役割です。……今朝、あの家で起きた殺人事件は、ぼくが今追っている、あるものが原因で起こった可能性が高いのです」
「さっぱりわからんぞ」
「そうですね、説明が難しくて。なにから話せばいいかな」
フォークとナイフを空になった皿に揃えて置くと、お行儀よくナプキンで口を拭く。
「情報汚染――と、呼んでいるのですが。それに暴露すると、ヒトの遺伝子や脳内物質に変性が起こってですね……ああ、もっと簡単に言いましょうか」
ラヴクラフトはにっこりすると、こう言った。
「『それを読んだ人間を、怪物に変えてしまう本』があるんですよ」
「は――」
渇いた笑いが、譲史の口から洩れた。
「ははは」
「あははは」
「こいつは傑作だな」
「可笑しいですよね」
ふたりは笑い合った。
譲史は、いよいよこいつは本当に頭がおかしいのではないか、といった憐れみを含んだ目で。ラヴクラフトは和やかに笑ってはいるが眼差しだけは奇妙に真剣で。
「アクアパッツァでございます」
給仕が、料理を運んできた。
イタリアンは、前菜に始まり、パスタなどの「第一の料理」(プリモピアット)、肉料理や魚料理などの「第二の料理」(セコンドピアット)と続くのが正式だが、ランチコースでは略式で一品のメインディッシュ(ピエタンツァ)だけを出すこともある。この店は後者のスタイルのようだ。
姿のまま野菜と一緒にオリーヴオイルで煮られた魚が、皿によこたわっている。
「2001年9月11日」
ラヴクラフトが、すっと真顔になって口にした日付に、譲史は眉を寄せた。
「その日……、全米が混乱の最中にあったその日、マサチューセッツ州にある禁書捜査局の施設から、あるものが盗み出されました。そこは、米国でも最高の、ペンタゴンにも劣らない厳重な警備体制と、魔術的セキュリティによって護られているはずだったのです。『永久封鎖書架コキュートス』――そこは今まで蒐集された《禁書》を、永遠に人類から秘匿するための、いわば《禁書》の墓場でした。その最下層、『フロア・ジュデッカ』は、大統領さえ容易く立ち入ることが許されない場所なのです。そこに封印されていたものが、しかし、その日、消えてしまいました」
「……」
「われわれが《最も忌まわしき十二の書》(タブー・トゥエルヴ)と呼んでいた、危険度SSクラスの《禁書》です。あれらは……あれらだけは、決して野放しにしておくことはできないのです。人類の存亡にかかわります。よって、それから20年に渡り、われわれは全世界で、《最も忌まわしき十二の書》の痕跡を追い続け、いくつかは回収してきました」
「……」
「われわれは全世界の警察機構と繋がっていますし、独自の情報ネットワークも持っています。それにより、世界のどこでも、《禁書》が関係すると思われる事件があったときには――」
「待て」
譲史は話を遮った。
「タバコを吸ってくる」
そう言って席を立つ。
ホールに案内されるとき、廊下の奥に手洗いと喫煙所があるのが目に入っていた。
譲史はホールを出ると、しかし、喫煙所には向かわない。
ラヴクラフトの長広舌を聞きながらも、彼の目は店内を見まわし、その異変に気付いていたのだ。譲史たちに料理を運んできた給仕が戻って以来、ただのひとりも給仕がホールに来ていない。
客たちはまだ食事とお喋りに夢中で気づいていないようだが、料理がまだだったり、飲み物のお代わりを頼もうとして、きょろきょろとしているものも少し、いた。
これほどの高級店で、ホールのどこかに給仕が一人も控えていないなどということはないはずだった。
それに、譲史は最後に見かけた給仕がもとはホールの入口に立っていて、なにか慌てた様子で出ていくのを記憶していた。
廊下に敷かれた絨毯が、ちょうどよく足音を消してくれる。
慎重に、譲史は厨房をのぞきこみ……、戸口すぐのところに、ひとりの給仕が倒れているのを見る。床に赤黒い血だまりができていた。