エピローグ
それから、ひと月が過ぎた。
ひとびとは、渦中にあった東京の住人でさえ、その一日に起きた出来事のことを、もう忘れてしまったようだった。
むろん、直接的な被害を受けたものもそれなりにいて、その知人まで含めれば、相当数の人間が巻き込まれた、それは未曾有の災厄であったし、大事件であったはずだ。
いかに政府レベルの情報コントロールによってメディアが沈黙し、あるいはまやかしのカヴァーストーリーを報道したとしても、あの日起こった怪異、狂乱、狂騒、惨劇、悲劇、阿鼻叫喚のすべてを隠し切ることなどできようとは思えなかった。
それでも、日々がすぐさま平穏を取り戻し、退屈な日常が戻ってきたのは、そうありたいという人々の願いもあっただろうし、あの日の悪夢を忘れてしまいたい、何もなかったのだと思い込みたいという、浅はかであったかもしれないが、切なる思いのなせるわざであったのだろう。
実際、大勢が大切なひとやものを失い、傷を負った。
ありえざる出来事を経験したひとびとに、それでも、日付が変わればやってきたのは、これまでと同じ次の日だった。
映画とは違い、生き残った人々は、次の日からも、一日一日を生きていかなくてはならなかったのだ。
だから、かれらはもとどおりの日常を過ごしてゆく。
あるものにとっては退屈で、あるものにとっては過酷な日々を。
警視庁、捜査一課の刑事、倉田真斗にとってはどうだっただろう。
脳にダメージを受けて、一時は意識不明となった後、奇跡的に回復して、次の日には大立ち回りを演じた倉田だったが、さすがに病み上がりの肉体の酷使はこたえたと見え、そのあと、一週間は入院することになってしまった。
そのため……ほとんど事情を知らされることもないまま、退院して職場に復帰したときには、すべては終わってしまっていたのだ。
出勤すれば、無精ひげを剃りもせずに新聞を読んでいる先輩刑事が、うっそりと挨拶をしてくれるとばかり思っていた倉田は、「なんでお見舞い来てくれなかったんですか」と恨みごとを言ってやろうと思った気持ちの、やり場をなくすこととなった。
隣の机はすっかりと片付いて、読みかけの新聞も、コーヒーを入れて放置したままのマグカップも、なにも置かれていなかった。
江戸川譲史がどうなったのか、誰も答えられるものはいなかった。
上層部に問い合わせても、それには答えられない、と言われるばかりだ。
アパートはすでに引き払われていたし、実家の連絡先など、倉田は聞いていなかった。
警察ならではの手段を用いれば、実家くらいは突き止められたのかもしれないが、そういうことはするべきではないように思い、踏みとどまる。
そうこうするうちに、新しい事件が起こって、捜査本部が立ち上げられた。
こんどは、まっとうな――というのもおかしいが、特段に狂気じみていたり、不可解だったりしない事件だった。倉田は別の先輩刑事と組み、捜査が始まれば、たちまち忙しさに目を回すはめになった。
そして、飛ぶように日が過ぎていったのだ。
「ウソだろ……」
その日、倉田は繁華街を駆けずり回っての仕事だった。
ようやく落ち着けたときには日付が変わっており、相棒の刑事はタクシーで家へ帰って行った。
倉田はどこかサウナにでも泊まるつもりでいたが、その前に腹ごしらえに、と、路地へ入り……目指していた店が閉店しているのを知ったのだ。
それは、退院以来、二度目に大きなショックだった。
譲史に連れて来られて知った、お気に入りの店だったし、先輩刑事との思い出の場所でもあったのだったから。
反射的にスマホを手に取り、メールを打ち始めていた。
まっさきに試し、何度も送信したが、一度も返信が来ることはなかったアドレスへ向けて、ラーメン屋が閉店したことだけを、短く書いて送った。
肩を落としとぼとぼと歩き出す。
真夜中を過ぎて、繁華街のネオンはいよいよ煌々と輝き、すれ違う酔漢どもは上機嫌の赤ら顔で、客引きの声はそらぞらしく明るい。
倉田は、八つ当たりのように連中を逮捕してやりたくなった。
だがそれは何の罪であっただろう。東京を、いや、世界を救ったはずの男の名前を誰も知らないという罪だろうか。
倉田は、ふいに立ち止まった。
まさか、という思いでスマホの画面を見る。気のせいではなかった。新着メールが1件、の文字。
ふるえる指で開けば、あらわれた文字に重なって、なつかしい声が聞こえてくるようで、たちまち視界が滲んでいった。
あの店なくなっちまったのか。残念だ。
挨拶できなくて悪かった。
俺のことは心配するな。
すぐさま、二通目のメールを送信したが、今度はそのようなメールアドレスは存在しない、という意味合いのエラーが返ってきた。
スマホを握りしめながら、倉田は人目もはばからず涙を流す。大人になってからこんなに泣いたことはない。涙がこんなに熱いものだということを、すっかり忘れていたことに、倉田は気づいた。
「申し訳ありません。規則なので」
「だな」
「……後悔、していませんか?」
「何を」
「何って……オファーを受けたことをですよ」
「警視庁からFBIに出向したことをか? 俺の給料が何倍になったと思ってる?」
「元が安すぎたのでは」
「それは言えてる」
「合衆国が提示した報酬は、危険手当の意味もあるんですよ」
「だろうな」
「それに、あなたには自由がない。常に当局の監視下におかれ、動静が把握されたうえで、今後、一生涯、さまざまな制限が……」
「あの気が滅入る契約書なら一度読んだし、一度読んだらもうたくさんだ。それより、仕事があるんだろ? その話をしろよ」
「……そうでした。手元のファイルは」
「あとで読む」
「概要をお伝えすると、ネバダ州で、このひと月のあいだに数名の旅行者や地元住民が失踪しています。そのうちのひとりが昨日、ハイウェイ沿いの砂漠地帯で、遺体となって発見されました。外傷はありませんでしたが、検死を行ったところ……」
「……」
「頭蓋の中に脳がありませんでした。……外傷はなく、です」
「出発は?」
「三十分後に」
「わかった」
その夜、倉田は夢を見た。
乾いた砂漠の空気のなか、ハイウェイを走る一台の車がある。黄色いコンバーチブルだ。
それは奇しくも、このところアメリカのインターネットを中心に流布している都市伝説そのものだった。
奇怪な事件が起こるとき、デューセンバーグ・モデルJに乗った二人組の男たちがあらわれる。かれらは政府の秘密機関の人間で、一般市民が知ってはいけない秘密を処理し、なかったことにするために働いているのだという。
ひとりはライエンデッカーの絵から抜けてできてきたようなハンサムだが、隻眼で、海賊のような眼帯で左目を隠している。
その相棒は東洋人で、眼光が鋭い。
ふたりはいつも言い争いをしているが、不思議と行動の息は合っている。
そして、車で走っているときは、ふたりともおおむね機嫌が良い。
倉田が見た夢も、そんなふたりのドライブだ。
乾いた風を受けながら、唇に微笑を乗せて、どこまでもまっすぐな路を走り続ける。ひとつところを一心に目指すようでいて、いつまで経ってもどこにも到着しないことを望んでいるかのように。
カーラジオから、ルイ・アームストロングの歌う「この素晴らしき世界」が流れるなか、ふたりを乗せた車は地平線へと走り抜けてゆく。
――H.P.ラヴクラフト、東京で消えた禁書を追う (完)
ご愛読、ありがとうございました。
拙い作品ではありますが、作者自身、とても楽しみながら書いた物語です。
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ラヴクラフトと譲史の冒険は、まだ続いているようです。いつかまた、どこかで、お目にかかれますように――。