30 ウィアード・テイルズ
鬼面に隠されていないほうの半面で、ラヴクラフトは薄く笑った。ひどく酷薄な、嘲りの表情だ。
「おまえ……ラヴクラフトじゃあないな」
譲史が言った。
ソニアと兵士たちがぱっと散開し、ラヴクラフトを取り囲むように位置取ると、彼へと自動小銃の銃口を向けた。
「この身体はそもそも彼のものじゃない。ならばわたしが使っても問題ないのではないかな」
「ラヴクラフトはどうした?」
「どうもせんよ。ここにはまだ――」
コツコツと、こめかみを指先でつついて、
「やつの脳が収まっていて、生きてはいる。《輝くトラペゾヘドロン》の力を使ってな。……取り戻しにきたのは、《輝くトラペゾヘドロン》のほうか、それとも、ラヴクラフト自身のほうかね、人類諸君」
と、ラヴクラフトが決して見せたことのないような、悪意にあふれた笑みを見せた。
「両方とも、返してもらうわ。《無貌なるもの》」
「やれやれ。少なくとも《輝くトラペゾヘドロン》は、わたしこそが『返して』もらう権利があると思うがね。まったく無謀もはなはだしい。ここへ来るまで何人死んだと思っている? 正確には死んだわけではないが……それよりひどいことだと、きみたちは考えるのではないかな」
びゅん、と蔓が唸った。
逃げ遅れた兵士のひとりが、蔓に身体を貫かれた。
苦痛の悲鳴は、瞬時に、なにものかの咆哮へと変わる。兵士の四肢の関節が逆向きに折れ曲がり、長く伸びて、柔毛に覆われた節足動物の脚へと変わった。
頭部はぱっくりと開いて、牙の並んだ口となり、零れ落ちた唾液はしゅうしゅうと煙をあげて地面を溶かしてゆく。
「やめろ!」
譲史は叫んでいた。それを、ラヴクラフトの姿をしたものは鼻で笑う。
「なにをやめろというのだ。きみたちが《禁書》と呼ぶものは……この宇宙の真理だ。われわれはこうして、ダイナミックに情報を書き換えてゆくことでこの宇宙を創り、制御してきた。人類の性質のほうがむしろイレギュラーなのだぞ」
蜘蛛のような怪物と化した元・兵士だったものは、強酸の唾液をしたたらせながら仲間へと襲いかかり、兵士たちが小銃で応戦する。
「きみたちだけが……われらに比べて須臾の間の生命しか持たぬくせに、永遠不変の『自分』というものがあるなどと信じている。愚かなことだ。しかし、それを揺るがせられるとき、きみたちは《恐怖》という、われわれには決してない、大きな感情のエネルギーを生み出す。われわれは《禁書》を使って、きみたちの《恐怖》を収穫し、このうえなく甘美なものとしてそれを味わってきた……。ゆえにわたしはきみたちの愚かさを愛しく思う。万に一つの勝ち目がないとわかっていて、ここまでやってきたのだろう?」
銃声を伴奏にして、うたうように、そのものは言った。
「きみたちが助けたがっているこの男……ラヴクラフトも、この『ンガイの森』の空気に触れることで情報汚染にさらされ、もはやこの脳細胞のなかに籠城しているに過ぎない状態だ。ほどなく、わたしはこの肉体のすべてを掌握し、そうすれば《輝くトラペゾヘドロン》も――」
ふと、その表情から笑みが消えた。怪訝そうに、眉根が寄せられる。
「なんだ……これは」
つぅ……と、ラヴクラフトの形のよい鼻梁の下を、唇まで伝ってゆく、暗い赤色。鼻血だった。
「……おまえたち……なにか、しているな」
「ようやく気づいたようね」
ソニアが応えた。
「あなたはこの高密度情報空間である『ンガイの森』をインターネットに接続することで《禁書》情報をネット上へと送り込んでいた。私たちはその経路を逆にたどり、ここへ情報を逆にアップロードしているのよ」
「バカな。人類の創造物に《禁書》のような力はない」
「ええそうよ。でも、相対的に《禁書》の情報密度を薄くすることができる。今、急激にあなたの力は『薄く』なっている。むろん外なる神であるあなたの情報量を凌駕することなど到底できないけれど、私たちはきっかけを作れればよいのだから」
「ラヴクラフトか!」
「言って!」
《無貌なるもの》とソニアの叫びは同時だった。そして、譲史が動いたのも、だ。
「ラヴクラフト、聞こえるな!」
「なんだ、この情報はなんなのだ。《禁書》に似ている……だから気づかなかった。しかし、これは……」
《無貌なるもの》は両手で耳をおさえていた。かれにだけ聞こえる騒音に苛まれているようだ。
「戻って来い、ラヴクラフト。頭のなかからそいつを追い出して、おれたちのところへ帰ってくるんだ!」
「これは……憶えがある……いや、わたしは知らない……これは……ラヴクラフトの記憶だ……これは、まさか……」
がくり、ラヴクラフトは膝をついた。全身ががくがくと震えている。
その半面に、苦し気な表情が浮かび、そして、
「譲史……ソニア……」
という声が漏れた。
「ラヴクラフト!」
「だめです……逃げて」
「負けるな!」
「違う……」
ラヴクラフトは首を振った。
「ぼくには……そんな資格が……ない、から……。ぼくは人類を危険に晒した。……そもそも、ぼくは……ぼくの夢想こそが、外なる宇宙とつながり、かれらをこの世界に……」
「いいえ、それは違うわ、ハワード!」
ソニアが叫んだ。
「今、あなたを助けるために、この空間へとアップロードされている大量の情報がなんだかわかる? あなたの作品よ。あなたが書いた小説。あなたが語った物語」
「え――」
「そして、あなたの作品を愛した、全世界のクリエイターたちが創作した、あらゆる二次創作物の情報がこの空間に注ぎ込まれている。あなたの物語は、《禁書》の情報を、人類に無害なレヴェルで形にしたもの、いわば《禁書のワクチン》なの。だから、外なる神々に抗う力を人類に与えることができる。あなたは最初から、そうして人類を助けていたの!」
「ラヴクラフト、戻ってこい。おれはこれを持ってきた。なんだと思う?」
譲史はずっと携行していたジュラルミンケースを掲げた。
「約束の品だ。『東京で一番のアイスクリーム』だよ」
ごう――、と、ラヴクラフトの半面を覆う鬼面が、緑の炎に包まれた。
ラヴクラフトの口からは獣のような吠え声が迸り、その巨躯が高らかに跳躍する。譲史がすんでのところで避けた場所へ着地し、地面を大きく穿ったが、すぐさま地を蹴って、譲史へと襲い掛かる。ふたりはもつれあうようにして地面を転がったが、そこから蔓草の森は、変幻自在にその姿を変えていった。
海底から浮上し、恐るべき威容をあらわしたルルイエの神殿。
切妻屋根の並ぶアーカムの街並み。
ニューヨーク、レッドフック地区の路地裏には、異教徒たちの囁きが満ち。
ダンウィッチを取り囲む鬱蒼と茂る森の梢で、夜鷹が鳴く。
ラヴクラフトの拳が譲史を殴る。負けじと譲史もそれに応じる。癇癪を起した子どもの喧嘩のように、掴み合い、押し合い、引っ掻き、叩き合いながら、ふたりは海底へ沈みゆく潜水艦の床を転がり、インスマスから脱出する夜の廃線へ倒れ込み、魔犬の遠吠えが迫る墓地へと互いを突き飛ばした。
「強情なやつだな!」
譲史はラヴクラフトの襟首を引っ掴むと、思い切り頭突きをくらわせた。
くらくらするほど自分も痛かったが、先ほどから触れ合うたびに、譲史のなかで過去の光景がまざまざとフラッシュバックするという不可思議な現象が起こっていた。
リムジンから降りてきた、初めて見た――とそのときは思った――ラヴクラフトのすがた。
屋上でピクニックまがいのことをしたときの、はにかんだ顔。
温泉旅館へと向かう車中の横顔。
よみがえる記憶は、次第に変容し、ラヴクラフトを見つめ返す自分自身の顔を、そこに見いだすようになった。
(なんだこれは。記憶が……混乱して、いや、混じっているのか)
この場所を、『ンガイの森』とソニアは呼んだ。事前に受けたレクチャーでは、《禁書》が空間となったかのような、一種のヴァーチャルリアリティの世界だとも。
(そうか。ラヴクラフトの記憶か!)
そこに譲史の姿がある。
事件現場で。レストランで。病院で。軍用ヘリのなかで。
最初は疑念と不信の眼差ししかなかった。次第に、打ち解けてゆけば、そこには、遠い日の面影がよぎるようになり――。
(あれは……おれ……いや、おれは……どっちだ……)
泥濘のなかに沈んでいく自分を見る。
では自分はラブクラフトなのか。それとも、ラヴクラフトの記憶のなかの視点を通して自分を見ているだけなのか。
あのとき、おれはラヴクラフトに助けられた。
その記憶は消されたはずだが、夢に見たラヴクラフトの姿を追うように、俺は刑事になり……再び出会ったラヴクラフトを助けるために過去へ……そして俺が助けたラヴクラフトは、また俺を助けるためにさらに過去へ飛んで……。
ウロボロスの輪は廻る。
(ここにいちゃいけない)
(ラヴクラフト……か……?)
(譲史。ぼくらの因果はあまりにも複雑になりすぎてしまった)
(誰のせいだと……いや……おれのせい、なのか?)
(そこなんです。ぼくらの運命に始まりも終わりもない)
(頭がこんがらがってくる)
(だから抜け出してください。もうぼくに構うべきじゃない)
(今さらだぜ)
譲史は手を伸ばした。
泥濘に沈みつつある自分を見下ろすラヴクラフトへ向かって助けてを求めて。
あるいは、泥濘に沈みつつあるラヴクラフトを引き上げるために。
助けようとしているのか、助けられようとしているのか。どちらの事実も重なり合って同時に存在している。
(世界はまだおまえを必要としてる。ソニアの話を聞いただろ?)
(……本当、なのですか。ぼくの作品が、《禁書》への抗体のように働くだなんて)
(ここへ来る前、おれもおまえの本を読んだよ。時間がなくて少しだけだが)
(えっ)
(……感想を聞きたいか?)
(あ、いや――)
(聞きたいだろう。だから生きろ。戻ってこいよ、ラヴクラフト)
ぴしり――、となにかがひび割れる音がした。
ラヴクラフトの左目を隠していた鬼面に亀裂が走り、そこから黒い炎が沁み出すように燃え広がってゆく。
「またもこのわたしが人間に出し抜かれるとは」
低い、怨嗟の声だった。
「下等で脆弱な猿どもが、わたしの与えた《禁書》を薄めたあげく、玩具のように弄ぶとは思ってもみなかったぞ。だが……それもまたよかろう。時を稼いだな、ラヴクラフト。今しばらく、《輝くトラペゾヘドロン》は預けておこう。おまえは、わたしと、わたしのあるじたちを、退屈させないでいてくれるようだから。おまえにどのような最期を、いつどのように与えるかは……混沌のなかでゆっくりと考えるとしよう。わたしには、永遠の時間というものがあるのだから――」
そして、鬼面は粉々に砕け散った。
ラヴクラフトが伸ばした手を、譲史が掴み取るのと、それはほぼ同時であった。
月に向かって咆哮が轟く。
血の色の触手が、月へ向かってまっすぐに伸び、うねりながら、虚空へと溶けてゆく。千のすがたを持つという邪悪な神が、地上から飛び去ってゆく、それがその光景だった。
あとに残されたのは、月明かりに照らされる東京の街路であり、そこには生き残った兵士たちと、ソニア・グリーン特務大佐、アラブ人執事のアヴドゥルの姿があった。そしてむろん、江戸川譲史と……H.P.ラヴクラフトも。
「……で」
ゆっくりと、ラヴクラフトは身を起こした。眼帯を丁寧につけなおすと、譲史へと向き直る。
「聞かせてもらいましょうか」
「……おまえ、とりあえず、病院に行ったほうがよくないか」
「ぼくなら平気です。……というか、本当に読んだんですか?」
「読んださ! ただちょっと――なんだ……けっこう難しくてだな」
大げさに、ため息をつく。
「それは翻訳が悪いですね」