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29 奪還作戦

 大統領が発した命令にもとづき、ヴァンデンバーグ空軍基地はすみやかに大陸間弾道ミサイルの発射準備を進めていた。発射地点の西海岸から東京まではおよそ5500マイルの距離があるが、ICBMの速度はマッハ23である。大統領から最終的なゴーサインが出て、発射スイッチが押されたあと、ものの20分もすれば核弾頭は目標地点に着弾し、東京は消滅する。

 大統領のもとに、ソニア・グリーン特務大佐からの再度の連絡があったのは、まさにそのゴーサインをもとめて、空軍基地がホワイトハウスに通信せんとした直前のことだった。

「すでに結論は出たと思ったが?」

 大統領の声は苛立っていた。

 本来なら、一介の将校が何度も続けて国家元首の時間を奪えるはずもない。

「申し訳ありません、閣下。ですが、判断を変えざるを得ないのです」

 画面のなかで、ソニアが言った。

「東京に顕現した《月に吠えるもの》は、退去することなく、いまだこの地にとどまり続けています。現在、周辺地域はかのものが創り出す特殊空間『ンガイの森』に閉ざされたまま沈黙を続けています」

「ならば好都合ではないか。東京を核の火で焼き払えば、邪神も殲滅できる可能性がある」

「かのものがこの地をさらないのは、いまだ目的を達していないからと思われます」

「目的とは?」

「《輝くトラペゾヘドロン》の回収」

「……」

「《月に吠えるもの》が退去できないのは、H.P.ラヴクラフトがいまだ生存しており、その体内の《輝くトラペゾヘドロン》の制御をかのものに明け渡していないからと推測されます」

「結局、あの男を救おうというわけか! あの男は全人類を危険に晒したのだぞ」

「ですが《輝くトラペゾヘドロン》は回収すべきと考えます。……彼の生死は問わず」

「……」

 大統領は渋面をつくった。

「作戦はあるのか、グリーン特務大佐?」

「とっておきのものが。大統領」

 それは東京が経験した、もっとも長い一日であった。

 表向き、首都圏直下に地震が発生、ガス爆発などの事故が多発したという報道が流された。インターネットには信じがたい奇怪な出来事の報告がいくつも上がったが、そうしたものは片端から消去され、混乱のなかで流れたデマやフェイクニュースと断じられていった。

 自衛隊と警視庁の人員が総出で、都民の救出と避難誘導が行われるのと並行し、内閣総理大臣以下、日本政府首脳陣がすみやかに首都圏を脱する。

 そして自衛隊と米軍の混合部隊が、六本木周辺の作戦地域を戦車でぐるりと取り囲み、その時に備えた。

 前線に動員されている自衛隊員および米軍兵士は、万一の場合は東京に飛来する核ミサイルによって犠牲となることがさだめられていた。《アーカム条約》なる秘密条約により、それは国連加盟国すべてが承諾している事柄なのだ。

 日が落ちる。

 あまりにも静かに、東京の街は暮れてゆく。

 この日、東京タワーに灯はともらなかった。そのシルエット越しに、いつもなら不夜城の輝きに彩られて賑わう六本木が、黒い霧のようなものに包まれている。日が暮れてゆくにつれ、その闇はいっそう濃く、迫る宵闇よりも黒々としていた。

 蟻一匹、這い出る隙間も許さぬとばかりに、びっしりと並んだ戦車隊の列は、まさしくその黒い霧に包まれた空間へ砲塔を向けており、その内側からあらわれるものがあれば、なんであれ砲撃せよとの命令がすでに下されていたのだった。

 戦車の包囲は、黒い霧に包まれた領域から数百メートルの距離にあり、誰も包囲線より前に出ることは許されていなかったが、たった今、その前に兵士たちの一団があらわれると、すみやかに整列し、隊列をかたちづくった。

「チーム・フェラン、突入準備、完了しました」

「チーム・キーン、完了です」

 無線が交わされる。

 整列した兵士たちは五つの小隊に分かれ、黒い霧の地域を取り囲む五つの地点に配置されていた。

「チーム・ボイド、完了」

「チーム・コラム、完了」

 ひとつの部隊は溜池山王駅周辺にあり、そこから時計回りに、神谷町駅付近、麻布十番駅付近、西麻布付近、そして乃木坂駅付近にあった。

「了解。チーム・ブレインも準備完了した。ただいま、時刻は日本時間で18:44。3分後に、各隊突入を開始せよ」

 乃木坂駅周辺に配置された小隊を率いているのは、ソニア・グリーンだった。

 兵士たちは一様に、防護服のようなものを身につけており、顔は強化アクリルのフェイスガード越しにしか見ることはできない。

 やがて時間となり、ソニアが前進を命じると、小隊は霧の中へと小走りに突入してゆく。

「私から離れないで。この隊は全員、あなたを守るためにいるので、その点は安心してちょうだい」

「まさか、あんた自ら前線に出るとはな」

 ソニアの後ろに、譲史がいた。ソニアと同じく防護服に身を包んでいるが、銃は持っていない。かわりに、ジュラルミンのケースを携えていた。

 その傍らにはアヴドゥルもいたが、彼は兵士同様に銃を装備していた。

「見くびらないで」

「あんた……何者なんだ。俺が見た――いや、仮面の男に見せられた、過去にラヴクラフトの女房だった女は、あんたにそっくりだった」

「私たちは《ラヴクラフト・サークル》と呼ばれている。禁書捜査局でラヴクラフトをバックアップするスタッフであり……不老不死の生を得たラヴクラフトの精神を安定させるために、かつてのラヴクラフトの知人たちの名前と姿と記憶を与えられた存在なの」

「狂ってるな」

「否定はしないわ。けれど、私は後悔してないの。本来の名前と顔を捨て、見知らぬ女性の記憶を移植され、過酷な任務に携わったのだとしても……私たちは世界を守っている。それにね――」

 ソニアの言葉は銃声に遮られた。先を行く兵士が自動小銃を連射したのだ。

 ソニアは、譲史たちに着いて来い、というハンドサインを送ると、迂回するように駆けだした。

「私たちは犠牲を支払っている。でも、もっとも大きな犠牲を支払っているのは、間違いなく、彼――ラヴクラフト自身なのだわ」

 兵士たちのヘッドライトが投げかけた光は、異様な風景を闇に浮かび上がらせる。

 それは森だった。

 確かに植物とおぼしきものが、アスファルトを突き破って高くそびえている。

 そして、蔓植物のようなものが、ガードレールや、電柱や、建物の外壁に撒きつき、覆いつくしている。それはまるで、人類が滅亡し、何百年も経って都市の廃墟が自然に還りつつある様のようだ。

 ただ、その植物たちは、どれも見たこともないような緑とも紫とも灰色ともつかぬ色あいで、その表面には、ところどころ、脈打つ血管じみた部位や、呼吸するように膨らむ袋状の器官を備え、さわさわと繊毛をうねらせる奇怪で巨大な花のようなものを咲かせているものもあった。

 そのため、森というよりも、なにか巨大な生物の体内に入り込んでしまったかのような感覚もあったのだ。

 事実――、この森はひとつの巨大な意思を持っていた。

 すなわち、侵入者を排除する、という敵意である。

 兵士たちが小銃で応戦したのは、蔓とも触手ともつかぬものが、うごめきながら襲い掛かってきたからに他ならない。

「うわぁあああぁあーーーーっ!」

 悲鳴があがった。

 振り返ろうとした譲史へ、「見ないで進んで!」とソニアの声が飛んだ。

 ひゅん――、と空を切る鞭のような音とともに、打ち付けられた蔓には、鉱物質の棘が無数に備わっていた。それによって防護服を切り裂かれた兵士が、悲鳴をあげて悶絶し、仲間の見る前で変異してゆく。譲史たちが聞いたのはその悲鳴であり、その後に、他の兵士たちが数秒前まで仲間だったものを撃つ銃声が聞こえてきた。

「予測通り、この空間は大気中にも情報汚染物質が充満している。防護服を脱いだら人でないものになってしまうわよ」

 ソニアの警告に重ねて、無線からは各隊から震える声で報告があがってくる。その向こうで銃声や悲鳴が聞こえるので、各隊とも同じ状況に遭遇しているようだった。

「何人もの……いいえ、何百人もの人間が命を落としてきた」

 ソニアは言った。

 彼女の後を追う格好の譲史は、その表情を見ることはできない。ただ声に感情がこもるのを感じるだけだ。だがそれはどんな感情だったのだろう。

「ラヴクラフトひとりの命と、何百人もの命。本当に釣り合うのかと思ったこともある。でも、こうも考えるの」

 まだら模様の蔓が、譲史を狙って襲い掛かってくるが、ひとりの兵士が身を挺して守ってくれた。立ち止まりそうになるのを、ぐい、とアヴドゥルに腕を引かれる。

 かれらは、譲史ひとりを送り届けることに、その命を懸けてくれているのだ。

「わたしたちは、H.P.ラブクラフトというひとりの人間を、全人類のために犠牲したのだから、これはその報いなのだと」

「あいつがキリストには見えないけどな」

 くすり、と、かすかにソニアは笑ったようだった。

「最初は、彼もまだ、ただの人間だった頃と地続きの人生を生きていた。でも、最初期に彼を助けた彼のチームを失ってから、彼は変わったの。戦いをすべて、自分独りで行おうとした。たった独りでよ。……江戸川譲史。わたしがあなたを連れてきたのはね、ラヴクラフトがあれ以来、執着を示したただ一人の人間があなただからよ」

「そいつはどうも」

 かれらのゆくてに、ぼう、と灯りがともっていた。

 それはちろちろと燃える、緑色の鬼火のような火であった。

 しゅうしゅうと這いうねる蔓草が、鬼火に照らされ、表面に生えた鉱物の棘がきらきらと輝くさまは神秘的と言えなくもない。

 そのなかにたたずむのは、まぎれもなく、H.P.ラヴクラフトである。

 ゆっくりと振り向いたその顔の、左半面を、半分に割れた鬼面が覆っていた。

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