28 罪と罰
狂ったような笑い声を、譲史はどこか遠くに聞いていた。
嘘だ――、と、思った。
俺は騙されたのだ。ラヴクラフトを信じることなく、この邪神の言葉を信じてしまった。そして、自分の手で彼を。
喉の奥から、獣が絞め殺される声が迸った。
途方もない悔しさと、罪悪感だ。溶けた鉛を呑まされ、内臓が灼かれてゆくような。
「ラヴクラフトは死んだ! これでもう、この男自身が《禁書》となって人類を滅ぼすことはない。その代わり……再び世界に散った《禁書》はおまえたちに恐怖と狂気をもたらし、それがわれわれへの供物となる」
首から下は『仮面ナイト』の甲冑、首から上は燃え盛る緑の炎に包まれた頭蓋に《鬼面》をかぶった異形の怪人は、したたるような嘲りをこめた声音で言った。
「さて。どうするね、江戸川譲史。おまえに褒美をやろう。おまえは人類を滅びから救った英雄だが、人類が永遠に恐怖と狂気にさらされる運命をもたらした咎人でもある。何を所望する? 慈悲の死を与えられたいか? それとも、わたしに仕えるか?」
言葉を返すだけの力も、湧いてはこなかった。
譲史は視線を落とし、感情が麻痺したように、ただ床のうえに血が広がってゆくのを目で追うことしかできない。血は『仮面ナイト』の爪先にまで達している。
「それすら決められんか。脆弱なるもの、汝の名は人間なり。おまえたちを死なせたり狂わせたりせずに脅かすことのなんと難しいことか。仕方あるまい。江戸川譲史、おまえはここで殺すとしよう」
怪人の宣言にも、譲史が心動かされることはなかった。
それならそれでいい。俺が死ぬのも当然だろう。俺はラヴクラフトを殺したのだから――
「……」
譲史の瞳が、ふいに光を取り戻した。
悪い夢から醒めたように、はっとした表情だ。
あの手はなんだ。『仮面ナイト』の足をがっしりと掴んだ、あの手は!
「なに!?」
「逃げてください!」
なつかしくさえある、その声……。
「ラヴクラフト!」
彼は眼帯をむしりとった。空洞の眼窩から放たれる《黒い光》が怪人を射つ。
「バ、バカな、なぜ死んでいない!」
怪人は身をよじって逃れようとするが、ラヴクラフトは足を掴んだ手を放さなかった。怪人の全身が、緑色の炎に包まれ、燃え上がった。炎は天井にまで達し、スプリンクラーが水を噴射したが、凄まじい熱が室内を満たして、譲史をたじろがせた。
「譲史、はやく逃げて!」
ラヴクラフトがもう一度叫んだ。生きている。シャツは血に染まり、起き上がることさえできていないが、それでも確かに、生きている。
荒々しい気配があって、騒々しく部屋に飛び込んできたものたちがいた。
「江戸川さん!」
ひとりは倉田刑事だった。
「アヴドゥル、本を……頼む!」
そしてもうひとりはアラブ人執事である。言われるまでもなく、彼は床に落ちていた『ネクロノミコン』を拾った。
「サーバは破壊しました。脱出しましょう」
「ラヴクラフトが」
「彼の指示なんです!」
「何……?」
有無を言わさず、倉田刑事とアヴドゥルは譲史をひきずるようにして部屋から連れ出そうとする。
すでに、VIPルームのソファからは火の手が上がっており、そのなかにいるのは、それ自身燃え盛る緑の火柱である怪人と、そいつの足を掴んで引き留めているラヴクラフトだけだった。
「ラヴクラフト!」
「いいんです、行ってください! ぼくはここで決着をつけます」
「おまえ何言ってんだ!」
音を立てて、天井材が燃え落ちてきた。
それが視界を遮り、部屋の中は炎と煙に閉ざされてしまう。ラヴクラフトの姿と声もその向こうへと消え――
「ラヴクラフトーーーッ!」
譲史の叫び声も、火災報知器の音にかき消されていった。
「さあ、《無貌なるもの》。おまえとも長い付き合いだったが、これでお別れだ。おまえを殺すことはできないけれど、しばらくはこの宇宙から退場していてもらいたい」
「ほざくな。……いったいどうやって死を免れた」
「さあね。ぼくはただ……『ネクロノミコン』に書き込まれたメッセージに従ったまで。二十年前の日付と、その日へ行って、なすべきことをなせ、というメッセージに」
「《精神交換》か! 二度も同じ手を!」
「そう、あの泥濘の島でぼくを救うために、ノーデンス号で譲史に施されたのと同じ術式だ。あのときは、現在の譲史の精神が過去の泥濘の島の譲史のそれと交換された。今回は、今ここにいたぼくの精神を、二十年前のぼく自身のそれと交換したんだ。譲史の剣に刺されたとき、ぼくの肉体のなかにいたのは二十年前のぼくだった。ぼくの肉体が死ねば、精神も巻き込まれて死ぬ。だが、それは不可能だった」
「祖父殺しのパラドックスだな!」
「そのとおり。二十年前のぼくが死ねば、その1年後、ぼくはあの泥濘の島で譲史と出会えない。あの島で譲史に救ってもらえなければ、ぼくはあの島で死ぬのだから、今ここにはいない。ウロボロスの輪が途切れてしまう」
「だがそれは、おまえの死のタイミングをほんの数分遅らせたに過ぎないのだぞ!」
「だとしても、ぼくの目的は、果たされたんだよ。ぼくの死を確信したおまえは、譲史を解放しただろう?」
黒い光と、緑の炎。ありえざるものが混じり合う混沌のなかで、ラヴクラフトはそのとき、たしかに微笑んだようだった。
「そんな、それじゃあ――」
軍用ジープが全速力で東京の街を駆ける。
運転しているのはアヴドゥルであり、譲史は後部座席で暴れるのを倉田に抑えられていた。だがタブレットの画面のなかで、ソニア・グリーンが語る言葉に、譲史は暴れるのも忘れ、ただ愕然と、後部座席のシートに体重を預ける。
「それじゃあ、まるで……ラヴクラフトは俺を助けるために……?」
後方で、爆音が響き、譲史たちは振り返った。
まさしく件のクラブがあったあたりで爆発があったようだ。
空はまるで夜のように暗い。そのなかに、いっそう黒々とした、なにかの巨大なシルエットが立ち上がろうとしていた。
「《月に吠えるもの》があらわれたわ。《無貌なるもの》の化身のひとつ。まもなくあれはこの地を飛び去るでしょう」
画面のなかで、ソニアが言った。
「ミスター。あなたと倉田刑事は、ノーデンス号へ退避してもらいます。もうまもなく、大統領令により、東京へ向けてICBMが発射されますが――」
「おい、それはどういうことだ!」
譲史は画面に喰ってかかった。
「拡散する《禁書》のデータを収めたサーバは約束通り破壊したんだろうが」
「でも東京をこのままにしておける?」
ソニアは反問する。
「私ももうラヴクラフトをかばいきれない」
「どういう意味だ」
「二十年前の自分自身と《精神交換》を行ったラヴクラフトは、その時点から二十年後の私たちへのメッセージを準備したの。ひとつは『ネクロノミコン』に書き込んだ、自分自身にあてたもの。もうひとつは私たちへ状況を説明した、時限式で送信される電子メールだった。それによって、私は、回復したばかりの倉田刑事とアヴドゥルに、あなたのところへ行ってもらうことができた」
「あいつの『指示』っていうのはそういうことか」
「ええ。そしてラヴクラフトは告白した」
ソニアは青ざめたおもてで続ける。
「二十年前、封印されていた《最も忌まわしき十二の書》を解放したのは自分だと」
「なんだ……って……」
(2001年9月11日)
かつて、ラヴクラフトが語った言葉がよみがえる。
(その日……、全米が混乱の最中にあったその日、マサチューセッツ州にある禁書捜査局の施設から、あるものが盗み出されました。そこは、米国でも最高の、ペンタゴンにも劣らない厳重な警備体制と、魔術的セキュリティによって護られているはずだったのです。『永久封鎖書架コキュートス』――そこは今まで蒐集された《禁書》を、永遠に人類から秘匿するための、いわば《禁書》の墓場でした。その最下層、『フロア・ジュデッカ』は、大統領さえ容易く立ち入ることが許されない場所なのです。そこに封印されていたものが、しかし、その日、消えてしまいました)
「な、なぜ……」
「消えた《禁書》を追って、ラヴクラフトはオーシャン・オニキス号の座礁地点へ向かったのよ? 《禁書》が封印されたままでは、ラヴクラフトはやはりあなたと出会えない。ウロボロスの輪は閉じないからよ!」
それは告発の声だった。カサンドラの不吉な託宣のごとく、女性軍人の声は運命の法廷に響き渡った。
「なにもかも、俺のためだったっていうのか?」
譲史の声はふるえている。
「全部俺のせいだって言いたいのかよ」
「自惚れないことね、ミスター。あなたを中心に因果の輪が循環したことは事実。でもそれだけに過ぎないわ。……ただ、ラヴクラフトは自分の持てる権限を最後に、最大限、行使してあなたを守ろうとした。私たちはそれには従います。あなたの生存は保証するので安心して」
「それでラヴクラフトは核ミサイルでふっとばすのか。この東京ごと! それでいいのか? あんたは確か……あいつの……」
「いいえ。私はラヴクラフトの妻だったソニア・グリーン本人ではないの。魔術的にその記憶の一部を受け継いでいるとしても、別の人間。1920年代から、真に生き続けているのはラヴクラフトひとりだけだった。それもすべてあの《輝くトラペゾヘドロン》の――」
そこまで言って、ソニアは突然、口をつぐんだ。




