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27 英雄の剣

「『東京で一番のアイスクリーム』……約束ですよ!」

 そう言いおいて、巨大な菌類の茂みのなかへとラヴクラフトは駆け出していった。

 行く手を阻むのは、フードつきのローブを纏った、邪教の徒とおぼしきものどもだ。だがラヴクラフトはそれが人ではないことを知っている。

「《歩く妖蛆》ごときで、ぼくを止められると思わないことですね」

 ぐっと握り込んだ拳で迎え撃つ。

 眼帯に隠した眼の力を籠めるまでもなく、掌に刻まれた《旧き印》の効力だけで、ラヴクラフトに殴られたローブの中のものはその姿を保てなくなり、崩れ去ってゆく。

 人が塵と化したかのようだが、近くでみれば、それが、大量に寄り集まって人型をなしていた蛆虫がばらばらになっていったのだという、おぞましい光景であったことが見てとれた。

 ラヴクラフトは猛然と勝ち進み、地下の流水のほとりに立つものを倒すと、崩れゆくその手から、古びた書物を奪い取った。

 百科事典のように大きく、分厚い本だった。

 革張りの表紙を、確かめるように撫でると、ラヴクラフトは本を開いてその頁を繰り始める。

 ふと、その眉がひそめられた。

「これは……」

 彼の瞳に、驚きの色が広がってゆく。

「バカな。これはいったい」

 そのときだった。

 ラヴクラフトが顔を上げると、周囲の景色は一変している。

 地下の河畔は、暗いダンスフロアになっていた。しかしそこに流れる音楽はなく、重苦しい静寂のなかを、無機質な靴音だけを響かせて、そのものが闇のなかからあらわれる。

「譲史――なの、か」

 ラヴクラフトは呻くように言って、ぐっと歯を噛み締めた。

 くたびれたスーツと背格好で譲史とわかる。だがその首からうえは特撮ヒーローの仮面によって覆われており、その手には、撮影小道具らしき玩具めいた《剣》を握っているのが、奇怪なパロディのようであった。

 むろん、ラヴクラフトはその意味するところを悟っている。譲史の顔を奪っているのが何者であるのかを、だ。

 そのため、相手が居合のように鋭い剣を振るったときも、避けることができた。

 その剣が小道具などではないことは確かであった。

 ラヴクラフトは迷いのない動作で身を翻し走り出した。フロア奥の暗幕をくぐり、その先の廊下へ逃げ込む。

 細く長い廊下の壁には、等間隔飾られた能面が、天井からの照明によって浮かび上がっていてラヴクラフトをぎくりとさせたが、彼が足を止めることはなかった。

 女面、男面、尉、怪士、般若……。

 能面たちが見守るなか、逃げるラヴクラフトを、『仮面ナイト』が追う。追う者は、すでに獲物を追い詰めたと考えているのか、走ることなく、悠然とした足取りで、しかし大股に歩んでいる。

 その間に、ラヴクラフトは廊下の終わりから螺旋階段を駆け上がっていた。階段を上り切ったところにある部屋に逃げ込むと、ドアを閉め、部屋にあったコルビジェのソファでバリケードを築く。

 一面の壁がガラス張りとなり、フロアを見下ろすことのできるVIPルームのような場所だった。

 ほかに出口はない。袋の鼠となったのだ。

 だがラヴクラフトはさほど焦った様子もなく、床のうえに座り込むと、抱えていた本を開いて頁を繰り始めた。

 扉の外から、激しい音がしていた。『仮面ナイト』がドアを蹴り開けようとする音だ――。


(ラヴクラフトを、救うには殺すしかない)

 そう思った瞬間、譲史は、自分の感覚が、自分の肉体から完全に引き離されるのを感じた。

「お、おい……!」

 譲史は声を荒げた。

 正確には、荒げたつもりだ。おのれの意思によって声を出すはずの声帯は、もはや自分自身の制御下にはない。

 それまでも、自分の身体がそいつに乗っ取られ、操られている状態であることは意識していたが、その度合いがより強くなり、もはや、自分とは無関係な誰かの振る舞いを、そのものの視界だけを、映像として見ているだけの状態だった。

 まるで真っ暗な映画館の座席に縛り付けられ、指一本動かすことができずにスクリーンに上映されるものを観させられているようだ。

 そして、そこで上映されているのは、自分であるはずの肉体が、剣を持ってラヴクラフトを追い、彼を殺そうとしている様子なのである。

 彼は自分の肉体が螺旋階段を駆け上がるのを見た。そして閉ざされたドアを乱暴に蹴り開けようとするのを。

 やがてドアが壊れ、力任せに押し開けた先には、ラヴクラフトが驚愕の眼差しでこちらを見ている。

「Who?」

 ラヴクラフトの口がそう言った。オマエハ、ダレダ。これは俺なのか。俺をのっとった何者かなのか。ひとつだけはっきりしているのは、こいつがラヴクラフトを殺そうとしているということだ。こいつが俺なのか、俺じゃないのか、どっちだとしても、俺は一度はそれに同意した。

 ラヴクラフトを救うには、殺すしかない、と。

 本当に……?

 感情はついていけないまま、譲史はおのれの肉体がラヴクラフトと大立ち回りを演じるのを見ているしかない。

(ち、違う)

 譲史は思った。

 こんなはずじゃない。俺は……

(おまえに命を救われたことは変わらんよ)

 そうだ。あのとき、俺はそう言ったんだ。

 魔術的な方法で別人の肉体を得て、永らえているラヴクラフト――そんな自分自身のことを、不気味な存在だと卑下した彼に対して、言ったはずだった。

(それに、俺は別に、おまえのことを不気味だとは思っちゃいないさ)

 いや、それとも、その言葉は、すべて伝え切れていなかったのではないか。

 譲史は見た。

 自分が、ラヴクラフトを壁際に追い詰めるのを。

 剣の切っ先が、彼の、スーツの胸元へ、バターナイフのようにするりと滑り込んでゆく。

 意識のうえで、譲史の目が見開かれた。

 剣は、ラヴクラフトの厚い胸板を貫いて、その背へ突き抜けていた。ぐらり、とラヴクラフトの身体が傾ぐ。譲史の手は、ぐい、と力いっぱい剣を引き抜いた。

 スローモーションで、剣がラヴクラフトの胸板から引き抜かれるにつれ、情景はモノクロになった。ただ、シャツに広がってゆく血の赤だけが、譲史の視界のなかの色だ。気障な紳士が胸に挿した薔薇のように、ラヴクラフトのシャツに真紅が咲いた。その身体が、スローモーションの時間のなか、ゆっくりと崩れ、床の上に転がる。

 引き抜かれた剣の切っ先から散った血のしぶきが、ぴしゃり、と壁のガラスを叩いた瞬間、時間の流れが正常に戻った。

「ラヴクラフト!」

 譲史は、自身の叫ぶ声を聞く。

 声が出せることに気づき、次いで、すべての感覚が戻ってきていることに気づいた。

「……っ」

 息を呑み、手の中のものを放り出す。がらん、と剣が床に落ちて音を立てた。その刀身は血にまみれている。言うまでもなく、目の前に倒れている男――ラヴクラフトの心臓を貫いたことによって。

「ラヴクラフト!」

 もう一度、譲史は叫んだ。

 膝をつき、ラヴクラフトを助け起こそうとして、躊躇する。床に広がってゆく血に、動かしてはいけないと感じたからだ。

「そんな……、こんなつもりじゃ……」

 ラヴクラフトがわずかに顔を動かして、譲史を見たようだった。

 譲史は、おのれの顔を覆っていた仮面が消え失せていることに気づいたが、むしろ今となっては顔を隠していたかった。反射的におのれの顔を覆う。脂汗でぬるぬるとしていた。

「俺は……なんてことを……」

 ごふり、とラヴクラフトの唇の端から血があふれた。心臓を貫いた刃は、当然、肺も貫通していたはずだ。シャツはほとんどすべて真っ赤になっている。大量出血だ。どうすればいい。譲史は脳内で救命方法を検索したが、答はひとつだった。もう助からない。

 彼の目のまえで、ラヴクラフトの瞳から光が失われたのが、はっきりとわかった。

 死体なら、何度も見ている。

 眠っている人間と、死んでいる人間は、たとえ死の直後のそれであっても区別できた。

「ラヴクラフト」

 それでも、譲史は声をかけた。

「しっかりしろ、俺だ、ラヴクラフト、おい!」


「バカめ、ラヴクラフトは死んだわ!」


 地の底から聞こえたような低い、声。そして、それに続いたのは、爆ぜるような何者かの哄笑だった。

 振り返った譲史が見たのは、そこに立つ、甲冑のようなコスチューム……すなわち『仮面ナイト』の首から下だった。

 首から上は、緑の炎が噴き出して燃え盛っており、その前にどのようにしてか貼り付くように浮かぶ鬼の面が、そのものの《貌》なのであった。

 鬼面の口からは狂ったような笑い声が迸っている。

「おめでとう、江戸川譲史。きみはヒーローになったぞ。全人類を救ったのだ、ラヴクラフトを殺すことによってな!」

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