26 世界を救う唯一の方法
「それから――わたしはラバン・シュリュズベリィという仮の名を得て、この禁書捜査局を率い、北米のみならず、全世界で《禁書》を回収してきました」
画面のなかで、ラヴクラフト――この時代はまだシュリュズベリィ――は語った。その目元は黒眼鏡に隠され、表情を読むことはかなわない。淡々と語られるのは、合衆国が、いや、世界が知らされてこなかった歴史であった。
そこがホワイトハウスの大統領執務室でないのなら……シュリュズベリィの講義をモニターを通じて聞いているのが、就任したばかりの合衆国大統領でなかったなら、茶番にしか見えなかっただろう。だからこそ、逆に芝居じみて見えたとも言えたが、同席する国防総省長官のしかつめらしい顔はとてもジョークとは思えなかったし、大統領の貴重な時間を、ホワイトハウスのスタッフが総がかりで担ぐなど、あるはずもなかった。
で、あれば……。大統領は深い息を吐き、顔を両手に埋めた。このシュリュズベリィなる人物が話したことは事実なのだ。
人類は、はるかな時空の外側からくるものたちによって脅かされており、知られざる闘いが有史以前より連綿と続いていたという途方もない物語が。
「……禁書捜査局は、合衆国の政府機関なのだな」
「さようです、閣下。フーヴァーによってこの機関が創設されて以来、わたしは12代の大統領に仕えてきました。ただ……性質上、われわれの目的は合衆国だけでなく全世界・全人類に寄与するものです。また、当機関の存在は大多数の国民には秘密であり、その活動の全容は合衆国大統領閣下にさえ、お知らせすることはできません」
「ひとつ質問をいいかね」
「なんなりと」
「《禁書》がそれほど危険なら、なぜ破壊しない? なぜそんなものを保存する図書館が必要なのだ?」
「保存ではなく、封印です。わたしたちの書架は永久的に閉架されているのですから。ご質問にお答えするなら、それにはふたつの意味があります。まずひとつめは、《禁書》の情報は、《禁書》がもたらす災厄への対抗手段にもなりうること。毒をもって毒を制する役割ですね。そして」
シュリュズベリィは極めて重要なことを口にしようとしていることを予告するかのように言葉を切り、一拍を置いた。
「《禁書》は、かれらがこの世界に影響を及ぼすための接点であり、文字通りの『媒体』であるということです。かれらは《禁書》を通して人類に自分たちの存在を知らしめます。つまり、全人類がただのひとりも《禁書》を目にすることがなければ、かれらはこの世界に何もなすことができない」
「ならばやはり破壊すべきではないか」
「いいえ。もし、《禁書》が存在しなくなってしまえば、かれらは新たな《禁書》を創造するでしょう。われわれのあずかり知らぬところで。ゆえに、すべての《禁書》を管理下に置き、人類の目から遠ざけておくことが、もっとも有効な方法なのです」
「だがすべての《禁書》が封印されているとわかれば、やはりかれらは新たな《禁書》を創り出すのではないかね?」
「その可能性はあります。しかし長い歴史のでさえ《禁書》は無尽蔵にはあらわれてはいない。人類の脆弱な精神が、《禁書》の著述という恐るべき負担にそうそう耐えられないからです。新たな《禁書》の創作はかれらにとっても非効率なのです。現存する《禁書》があれば、その解放と拡散のほうを優先します。それに抗うことがわれわれの基本戦略です」
「だがそれが間違いだった」
殷々と響く声――。
譲史は、おのれが虚空に浮かび上がっていくのを感じる。眼下に広がっていたオーバルルームの光景が遠ざかってゆき、時間が加速してゆく。すべてがクイックモーションになり、やがて肉眼ではとらえられない光の渦に溶けていった。
「すべての《禁書》の封印。ラヴクラフトはその任務に勤しみ続けた。その結果、自分自身が世界を滅ぼす存在になってしまったのだ」
「なぜだ。《禁書》を封印すれば、おまえたちはこの世界に手出しできないんじゃなかったのか」
譲史は自身の脳内で、おのれを掌握する超常の存在へ問いかける。いらえは、自分の内なる声として返ってきた。
「やつがただ《禁書》を閉架図書館にしまい込んで、それで安心したと思っているのか? ラヴクラフトはそれだけでよいとは考えなかった。傲慢にもわれわれに対抗する手段をもとうと企てたのだ。……そのためにラヴクラフトがとった方法はな、《禁書》の情報を自分の脳内にも貯蔵しておくという方法だ」
「なんだって……!?」
譲史の視界に、色と形が戻ってきた。
時間の流れが再び遅くなってきているのだ。
「ラヴクラフトはすべての《禁書》を読破し、記憶する。その結果、情報汚染を一身に受けることになったのだ。ただの人間なら、その記憶容量の一定割合を超える情報汚染を受けた場合、瞬時に変異する。だが《輝くトラペゾヘドロン》のエネルギーによって生き続ける不死身の肉体を持つラヴクラフトは常人をはるかに凌駕する記憶容量を持つため、容易には変異に至らない。それゆえに、人類史上にいまだかつて存在したことのない、ひとつの巨大な情報集積体……すべての《禁書》の情報を統合した、ひとつの巨大な《禁書》があらわれてしまった。接収した《禁書》を閉架図書館に永久封印する一方、自分自身がそのコピーになってしまったのだ」
「ラヴクラフト自身が……ひとつの《禁書》に……」
冷たい衝撃が、譲史の意識にしんしんと沁みてゆくようだった。
「近い将来、ラヴクラフトはその臨界点を超えてしまう。不死身の肉体を得ていようが、その魂はひとりの人間にすぎない。ラヴクラフトの魂の限界は近づいている」
東京の街並みが、譲史の足の下に広がっている。
そこかしこに異形の怪物がうごめき、戦闘が繰り広げられているところもある。
ありえざる銃声と硝煙の匂いが満ちる街へ、譲史は急降下してゆき――……、すとん、と着地した。
うす暗い、クラブのダンスフロアだ。
そこにいた人物が、気配に振り返った。
ジャストサイズに仕立てられた、上等なスーツに身を包んだ男。堤防ような肩と胸の厚みが、ひどく懐かしく感じられた。まるで、数年ぶりに再会したような気分だ。だが、その感慨に、これまではなかった感情が混じっていることに譲史は気づいた。
振り向いた、ギリシア彫刻のように端正で彫りの深い顔つき。その片目を覆った眼帯。
(ラヴクラフトは人類を滅ぼす)
脳内で、その声が囁く。
「うるさい!」
譲史は叫んだつもりだったが、その声が《仮面》の外に聞こえたかどうかは定かではない。
「俺は……ラヴクラフトを……」
(殺せ)
「だめだ。それはできない」
(人類が滅びるとしてもか?)
「まだそうと決まっていない」
(いいや、決まっている。見たはずだ。未来の光景を)
「おまえが見せたんだ」
(そうだ。私が見せた。あれは来るべき未来。ありうべき未来だ)
「まだ決まっていない」
(そのとおり。まさに今このときがそれを決する)
「どういう意味だ」
(この日、この場所がターニングポイントだからだ。いまここでラヴクラフトを殺せば、あの未来はやってこない)
「そんな……」
(さあ、殺せ。それだけが唯一、人類の滅亡を回避し、世界を救う方法だ。世界を救え、江戸川譲史。おまえこそが、この世界の救い主。ヒーローになるのだ)
譲史は、自分がその《剣》を持っていることに気づく。
『仮面ナイト』の小道具というには、あまりにもずっしりと重く、その刃は鋭利に輝いている。
「俺は……ラヴクラフトを……殺したくは、ない……」
(だが世界が滅ぶことを望んではないはずだ。それはラヴクラフト自身もな)
「あのとき……ラヴクラフトは……」
滅びゆく世界を背景に、荒野を彷徨するラヴクラフトの姿がよみがえった。
あのときラヴクラフトは苦しんでいるように、譲史には見えたのだ。
「ラヴクラフトも世界を滅ぼすことを望んでいない。だがいずれラヴクラフトは、世界を滅ぼしてしまう……」
(そうだ。救うためにはどうすればいい?)
「ラヴクラフトを、救うには」
(救うには)
「殺すしかない」
譲史は、《剣》を握りしめた。




