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25 そは永久によこたわる死者にあらねど

 病室には、タイプライターの音だけが聞こえていた。

 その人物は、ベッドにいながら、ベッドテーブルの上に置いたタイプライターを一心に打ち続けている。顔色は悪かったが、背筋はぴんとしており、ベッドにいるにしては、そのまま外出もできそうなシャツをきちんと身につけていた。

 ふと、キーを打つ手を止めて、息をつく。

 その日、古都の空は晴天だった。ロードアイランド州の3月はまだかなり寒い。だがそのせいか空気は澄んでいて、伝統的な切妻屋根が並ぶ眺めや、そのなかに突き立つ教会の尖塔などが、かなり遠くまで見渡せるのだった。

 軽いノックの音に、男は振り向く。

 面長で色白の、貴族的な風貌だ。きわめて知的な光を、その瞳は宿している。

 どうぞ、と答えると、ふたりの客が病室に姿を見せた。

「やあ、ソニア。ようこそわが書斎へ」

 それは自嘲のようだ。

 実際、ベッド脇の棚には、持ち込まれたと思しき書物がぎっしりと隙間なく並び、床の上にさえ、本の山が積み上がっていたのだ。

 そして大量の手紙の束も。

「あいかわらず、手紙ばかり書いているのね」

「ここでは他にすることもないからね」

「あなたの我慢強さは看護師の間でも評判だそうよ」

 ソニアと呼ばれた女性は、笑みを見せようとしたがうまくいかず、泣き笑いのような表情になった。

「かなり痛みがあるはずだと」

「癌だからね」

「ハワード」

 ソニアはベッドの傍に膝をつき、彼を見上げた。ひどく痩せた、かつての夫の顔――死に向かいつつある、ハワード・フィリップス・ラヴクラフトの顔を。

「私たち、夫婦としてはうまくいかなかったけれど、私は今でもあなたを誰より尊敬しているわ。私は、あなたに生きていてほしい」

「ソニア……」

 ラヴクラフトは、穏やかな目でソニアを見つめたが、それ以上口を開こうとはしなかった。

 病室の沈黙を破ったのは、もう一人の客の、咳払いであった。

「失礼。ご挨拶が遅れたが……。私はジョン・エドガー・フーヴァー。FBI長官を務めているものだ」

 肉厚な身体をダークスーツで包んだ紳士である。ぎょろりとした大きな目から、熱っぽい視線が病床のラヴクラフトへ注がれていた。

「お噂はうかがっています。大変、光栄ですが、ベッドの上で失礼しますよ」

「お構いなく。私は非効率なことは好まないので、率直に申し上げるが、ミスター・ラヴクラフト。あなたにはわが合衆国と世界のために、生きていていただきたい」

「……連邦捜査局からの手紙はすでに拝読しています」

「信じられませんか?」

「たしかに荒唐無稽な内容です。まさしく、わたしやわたしの仲間たちが書く小説のような。ですが、わたしには否定できません。事実、わたしは夢で見た光景をそのまま小説にしたことがある。わたしが、創作してきたと思っていた物語が、すべて実在する存在を、わたしの無意識が感知した結果だとしたなら……」

「あなたの創作性や小説の才能を否定してはいない」

「わたしの才能ですって!」

 ラヴクラフトは笑った。

「わたしが書いた作品で雑誌に掲載されたものがいくつあるかご存じですか?」

「そのような議論は不要だ。問題は、あなたは、われわれが知るなかでもっとも高精度に、かれらの存在を感知する能力を持っているというだ。われわれに、いや、人類にとって必要なのは、あなたの、その才能だ」

「作家としての才能ではなく、ね」

 ラヴクラフトはフーヴァーから顔をそらし、窓の外へと視線を逃がした。

 古き良きプロヴィデンスの街並みは、いつもと変わらぬ美しさと慕わしさをもって、そこにあった。

 どこかで教会の鐘が鳴る。

 澄んだ空色にふさわしい音色が、天へと昇ってゆく。

「……それで」

 窓の外を向いたまま、ラヴクラフトはフーヴァーに尋ねた。

「どういう手段で、わたしを延命させると言うんです?」


 時刻は真夜中だった。

 施設内に人気はなく、静まり返っている。ラヴクラフトを乗せ、ソニアが押す車椅子の車輪が軋む音だけが、異様に耳に障った。

 モルグの室温は極めて低温に保たれていたので、人々の息は白い。ソニアはラヴクラフトの病身を気遣い、厚い毛布をまとわせてくれた。だが、ラヴクラフトの目は、金属の解剖台に寝かされたその姿に引き付けられており、元妻に礼を言うゆとりはないようだ。

 つめたい照明の下、そのものはまるで眠るように横たわっている。

「どこで……これを……」

「クウェート付近の砂漠地帯に埋もれた古代の遺跡で発見された」

 はっと目を見開いたラヴクラフトへ、フーヴァーは頷く。

「発掘隊の報告内容は、まさしくあなたが描写した『無名都市』そのものだった」

「わたしの夢想が実在したと」

「狂える詩人アヴドゥル・アルハザードは、夢のなかでかの都市を幻視し、その場所を訪れた。あなたもまた同じことをしたのだ。実際に訪れたか、タイプライターに打ち付けたかの違いはあるにせよ。……検死医はこの遺体の死亡推定時刻を特定できなかった。状況から見て紀元前よりかの遺跡にあったと考えられるが、ミイラ化も死蝋化もしていない、ある種の第三永久死体と呼ぶべきだろう」

 それは、ひとりの青年男性だった。

 並外れた巨躯であり、全身が鍛え抜かれた筋肉に覆われた見事な肉体である。

「かれは誰なのですか」

「それは知る由もないが……戦士階級であるだろう」

「きみたちが言っているのは……わたしの脳を、この肉体に移植し……この身体でわたしが生き続けると……?」

「見てのとおりきわめて頑健で、優れた肉体だ。きっとお気に召すだろう」

 フーヴァーは、古代戦士の、たくましい筋肉の隆起をうっとりと眺めた。

「……気にくわない」

 ラヴクラフトは顔をそむけた。

「ほう?」

「わたしの友人のロバート・E・ハワードは、ボディビルをやり、この青年にも負けないような見事な身体つきだったが、母親が危篤と聞いて、拳銃で自分の頭を撃ち抜いた。アメリカは偉大な才能を失ったが、わたしは彼を責めようとは思わない。わたしは癌で余命わずかだが、その運命を受け入れているつもりだ。わたしがこの蛮族コナンの姿になって生き延びたとして、それが何になる?」

「まだわからないのか、ミスター! これはもはや、あなただけの問題ではない。やつらの侵略によってこの世界そのものが滅びるかもしれないのだぞ!」

 フーヴァーは声を荒げて、車椅子のラヴクラフトに詰め寄った。

「グリーン女史はどうお考えかは知らないが、われわれはあなた個人を生かしたいがために、国家予算なみの資金をこのプロジェクトに注ぎ込んではいない。あなたに承諾を求めているのは一種の礼儀に過ぎないのだ」

「選択肢はないというわけですか。わたしは、わたし自身が悪夢のなかに垣間見た、外宇宙の存在と闘う使命があると」

「ご理解いただけたかな。あなたは世界で初めて、死を免れた人類となれる。いや、聖書のカインを数えるなら二人目か。悪い取引ではないのでは?」

「わたしの、この身体はどうなるのです?」

「遺体として埋葬される。書類上、ミスター・ラヴクラフトには死去してもらうしかないので」

「脳を生かしたままその摘出などできるのですか?」

「あなたが『闇に囁くもの』という小説で書いたとおりに」

「きみのことがメフィストフェレスに思えてきたよ、フーヴァー長官」

 ラヴクラフトは苦笑を浮かべた。

「ひとつ注文をつけても?」

「できることなら」

「やはり顔が気にくわない。今後、この身体で生きて行かなくてはならないのなら、顔を洗うたびに不愉快な思いはしたくないのだが」

「整形外科医を手配しよう。今の顔にすればよいかな?」

「それは体格に合わなさすぎる。もっとこう……。そう、たとえば――アローカラーの広告のような顔がいい」

「結構。アメリカいちのハンサムになれるとは羨ましい」

 それはせめてもの、ラヴクラフトの抵抗だったし、フーヴァーはそれに気づいてもいた。

 そして、その翌日、1937年3月15日――。

 怪奇小説家、H.P.ラヴクラフトが、がんのためロードアイランド州プロヴィデンスの病院で亡くなったというニュースが、小さく報じられた。

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