2 その男、ラヴクラフト
外の空気を吸う、と言って家から出たが、習慣的に加熱式タバコを取り出してしまった。
躊躇したのは一瞬のこと――、タバコでも吸わないとやっていられない、と自分に言い訳をして、譲史はニコチンを摂取する。
「島本宏志の勤め先がわかりました」
倉田が追いかけてきて言った。彼が告げたのは、有名な建設会社の名である。
「さぞ高給なんだろうな。都内に戸建てだもんな」
「今朝は何の連絡もなく出社していないそうです。……夫ですかね?」
「教科書通りなら十中八九そうだがな。けど思い込みは禁物――」
そこまで言って、こみ上げてきた咳に譲史は身をよじった。
「だいじょうぶですか? なんかへんな咳ですよ」
「なんでもない。指紋の照合を急がせろ。包丁についてたやつと……旦那のが一致するか。それと夫婦以外の指紋がないか……」
ざらつく声で指示をしながら、譲史の視線は現場を取り囲む標識テープの向こう側をさまよう。そこへ、野次馬の群れを割って近づいてくる車の姿を、彼はみとめた。
それは一台のリムジンだ。
滑るようにやってきた黒塗りの車の、助手席からあらわれたのは、中東系と思しき外国人である。枯れ木のように痩せた老人だったが、まるで絵に描いたような執事服であったので、異様に目を引いた。
だが、アラブ系の老執事が、後部座席のドアを恭しく開けると、それ以上に印象的な光景が、その場に広がったのだった。
場面としては、ひとりの人物が車から降りてきたに過ぎない。
だが譲史は、その人物から目を離すことができなかった。東京の住宅街を背景に、あまりにもその者は浮いて見えたのだ。
外国人だった。執事とは違い、白人だ。
まず言えたのは、彼は大きい。
おそらく身長は2メートル近いだろう。背が高いだけでなく、恐ろしく厚みのある体躯だった。プロレスラーか、ボディビルダーだとしか思えない。
そのきわめて質量のある肉体はシルバーグレイのスーツに包まれていた。
上質の生地で、よく仕立てられている。むろん、オーダーのはずだ。彼のような体に合う既製品の服などあるはずもない。前ボタンを留めていないのはベストを着ているからだが、ボタンが留まるかどうかあやしいほどに、胸板が張り詰めている。それなのに、不思議と窮屈な感じがしないのは、彼がいかにも着慣れているといった風情だからに違いない。
そう――、男の物腰は、その魁偉さに比べて意外なほどなめらかで、優雅でさえあった。糊の効いたシャツのカラーが太い首との間に1ミリの隙間さえつくっていなくとも、シルクのネクタイの上品な結び目が高貴さを醸し出している。胸元には同色のチーフがのぞき、レスラー体型を美術館に飾られた彫刻のように見せていた。
男はどこか軽やかな足取りで――体重は100キロ近くありそうだったが――現場を封鎖した標識テープのほうへ、つまり、譲史たちのいるほうへまっすぐに歩いてくる。
人々は自然と彼に道を譲り、彼はそれを当然のようにして受け入れる。
さながらランウェイのようだった。
(きれいだ)
自分がそんなことを思っていることに気づいて、譲史は内心、狼狽する。
きれい、だ? 俺は何を考えている。あのゴリラみたいな男が……?
しかし――
実際、その顔は、美しいと言うに何のはばかりもいらないものだった。
といっても、女性的な優美さは一片もそこにはない。まっすぐに伸びた鼻梁。凛々しい眉弓。がっしりとした顎。どれをとっても、男性的な要素しかないのだが、その造作はあまりにも端正で、美しいとしか言いようがなかったのだ。
肌は白く、滑らかで、しみのひとつもない。
ダークブロンドの髪を、サイドはかなり上まで刈り上げ、トップは櫛目を残しながらも丁寧になでつけたバーバースタイルに仕上げていた。
だが、なによりも。
見るものの視線を集めざるをえないのは、その男の目であった。
透き通るような青い虹彩もまた、美しいと言えたが、それは片方だけだ。男の左目は、黒いアイパッチに覆われ、隠されていたのである。
つまり、男は隻眼だった。
それだけで、恐ろしく注目を集めずにはおかない。人々は、突如、事件現場にあらわれた隻眼の偉丈夫を目で追わずにはいられなかったのだ。
男はあたりまえのように標識テープをくぐる。
慌てて警官が止めにきたが、戦車のような体躯を止められるとは到底思えなかったし、事実、そのとおりになった。
男はまっすぐに譲史の前まで歩いてくると、にこりと笑顔を見せた。体格に似ぬ人懐っこい表情だ。
「ご機嫌よう。あなたが現場責任者かな」
完璧な日本語だった。
正しいイントネーションに、きちんとした身なり、そしてハンサム。そう聞けば、あやしい要素はない……と思いそうになるが、突然、殺人事件のあった家の前にリムジンで乗り付け、警官の制止を押し切る男が普通であるはずもない。
「なんだおまえ」
低く、圧を込めた声で譲史は言った。
譲史も175センチはあるから、低身長ではないが、さすがにこの男は見上げざるをえない。それでも、刑事は負けてはならないのだ。鋭い眼光で男を射抜く。
そのとき、電話が鳴った。
「……本庁から? もしもし、江戸川です」
電話をとった譲史の顔色は、瞬時に変わった。
「け、警視総監……! あ、はい……ああ、あの……はい、たしかに、それらしい……いや、しかし……」
譲史の戸惑いが伝わってくる。
倉田刑事は、汗をかく先輩と、微笑をたやさぬ謎の大男とを交互に見比べながら、どうしたものかと思っているようだ。
「はい……わかりました。……失礼します」
譲史の電話が終わるのを待っていたように、男はスーツの懐から、IDを取り出す。譲史は、男が右手にだけ黒革の手袋を嵌めていることにそのとき気づいた。
「あんた――」
「はじめまして。ぼくはFBI捜査官のハワード・フィリップス・ラヴクラフトです。……現場を見てもいいですか?」
「どういうことなんですか」
「俺にもさっぱりわからん」
ずんずん進んでゆく広い背中のうしろで、倉田が声を落として聞いたが、譲史は眉を寄せるばかりだ。
「だが警視総監がこいつの捜査に協力してやれだと。インターポールから要請があってもめてたら、さっきアメリカ大使館からもプッシュがあったらしい」
「そんなことあります!?」
「これはこれは。アヴドゥル!」
リビングに入ると、男――ラヴクラフトは執事を呼ぶ。執事が胸の前で開いたアタッシュケースの中から古典の探偵が使うようなルーペを取ると、あっけにとられている鑑識をよそに、部屋のあちこちを勝手に見て回りはじめた。
表情はあからさまに輝いていて、楽しくて仕方がないといった風だった。まるで初めての遊園地に来てはしゃぐ子どもだ。
「おお、トラディショナル・ジャパニーズスタイル・ブレックファーストですね」
ダイニングテーブルのうえに放置されている朝食をまじまじと眺める。
「この魚は何かな?」
「アジじゃねぇの」
「アジ……horse mackerelか。……ミソスープがお椀からこぼれている。そして一口も食べられていない。ここで食べる直前に争ったんだ。テーブルにあたって揺れたからスープが少しこぼれた」
「あのなぁ、ラヴ……なんだっけ」
「ラヴクラフト。ハワードと呼んでくれてもいいですよ」
「ラヴクラフト捜査官さん。俺たちだって素人じゃない。あんたが今推理したようなことはもうわかってるんだ。けどここんちの旦那は間違いなく日本人だ。FBIが何を捜査するって?」
「それは、この家の主人が、なぜ妻を殺害してしまったか。その理由に関係しています」
「あんたにはそれがわかってるのか?」
「朝食に魚が出たからでしょう」
「…………あ?」
譲史が片眉を吊り上げた。
怒気を隠そうともせず、ラヴクラフトに詰め寄る。倉田が止めるのもかまわず、ネクタイを掴んでぐい、と引いた。
「ふざけるのも大概にしろや。なにが目的か知らねえが、俺たちは犯人を捕まえるのに忙しい。あんたに東京を案内してるヒマはないんで、勝手にはとバスにでも乗って観光したら、とっととアメリカに帰ってくんねぇか」
ドスの利いた声だ。譲史のまとう剣呑な雰囲気と相まって、並みの人間なら震え上がらずにはおられなかったろう。だがラヴクラフトは穏やかな笑みのままだった。
「その女性を殺害した犯人については、あなたが逮捕してくださっていいですよ。ぼくの目的は少し違うのです。……そろそろお昼ですね。ランチでもしながら、お話しませんか?」