24 世界を滅ぼす獣
(目を覚ませ目を覚ませ目を覚ませ――)
譲史は必死に、呼びかける。
無情な闇がすべてを覆い、肉体の制御をすべて奪われてなお、おのれ自身に呼びかけ続ける。
茫漠たる虚空のなかを、どこまでも落下してゆくような感覚があった。
頭部を包み込んだ仮面は、ぞっとするような厭わしい軟らかさで皮膚に密着し、皮下組織にまで浸透していくようだった。
恐ろしいことに、それとともに、封じられていた視界が甦ってくる。
それはあたかも、仮面と自分自身が一体化したことを意味しているように感じられ、譲史を慄かせる。それでいて、身体のコントロールは効かないままだ。
(くそっ、俺をどうするつもりだ)
心のなかでありったけの悪態をつく。
それが、この仮面に聞こえているのかどうか。
たん、と――、乾いた音を立てて、譲史の革靴が着地する。
眼前には、異様な風景が広がっていた。
廃墟――なのだろうか。
ビルの谷間に、譲史はいる。アスファルトの地面には無数のひび割れが走り、路肩にはガラスの割れ、フロントがひしゃげた車が放置されて久しいようだ。
周囲に、人の気配はなく、建物の窓に明かりは灯っていない。
なかば崩れ、傾いたビルが、荒れ果てた墓地に残された墓碑のように立っているばかりだ。
今が夜なのか昼なのかも、判然としないのは、あたりが真っ暗でもなければ、かといって明るくもないせいだ。
空は不気味に赤く、血に染まったようなその色が、はたして黄昏のせいなのか、それとも別の原因によるものかはわからない。
譲史は、おのれの足が、廃墟の街をさまよい歩くのを見る。
生きた人間のすがたはなかったが、そこかしこの物陰に、なにものかが息づいているような不気味な気配はある。
ふいに、風が無人の通りを吹き抜け、塵を舞い上がらせた。
風の音がどこかに反響したものか、幽霊の叫びにも似た、ぞっとするような悲鳴じみた音が、譲史の背筋を粟立たせる。
滅び――、という言葉が、ふと浮かんだ。
まさか、これは人類が滅びたあとの、世界の光景だとでもいうのだろうか。
だとすれば、血の色の曇天の下、そぞろ歩く譲史を見つめるものは、死に絶えた人々の眼差しであるのかもしれず、風に共鳴するのはかれらの無念の声であったのかもしれない。
進むにつれ、建物の崩壊の度合いは大きくなってゆき、やがて、ほとんど原型をとどめなくなって、視界は急に開ける。
舗かれていたアスファルトももはやなく、剥き出しの地面には雑草が延びていたが、それも枯れているようだ。
荒れ地としか言いようのない地平を、譲史の足は、自分の意志でなく歩んでゆく。それはいかなる苦難の道行きか。譲史の意識はこの先にあるものを見たくない、と思った。目的地がゴルゴダの丘でなかったとしても、そこに安らぎがあろうはずがないのだ。
鋭い音が、頭上を通り過ぎていった。
飛行機だ。
戦闘機の編隊が、赤い空を飛んでゆく。
それでは、人類は滅びていなかったのだ。譲史が安堵したのもつかのま、行く手の空に閃光が弾け、すさまじい爆音が天地を揺るがした。
戦闘機が撃墜されたのだ。
残骸が、炎と煙の尾を引いて、荒野へと墜ちてゆく。
そこにひとりの影が立っていた。
(見るがいい)
譲史の頭の中で声が響いた。
(世界を滅ぼす獣の姿を)
次々に墜ちる戦闘機が、地面に激突して立てる轟音とさらなる爆発を背景に、そのもののシルエットは大きく、魁偉だ。
その巨躯は、かれのために仕立てられたと思しき、体格に合ったスーツを纏っていたが、上質な生地はひどく汚れ、あちこちが擦り切れていた。
低い駆動音をともなって、地平より戦車の一群があらわれる。その砲塔はみな、その人物に向けられていた。たったひとりの人間へ向けて、一個大隊と思われる戦車が投入されているのだ。
ゆらり、と、人物は周囲を確認するように頭を巡らす。
どこかでまた爆発が起き、高く上がった火柱が、そのおもてを照らし出したが、むろん、譲史はとっくに、それが誰かを知っていた。
ハワード・フィリップス・ラヴクラフト。
彫りの深い顔立ちはそのままに、しかし、顔つきは険しく、譲史が知っていた、体格に似ぬやわらかさはどこにもなかった。
そしてその左目は、いつもの眼帯で覆われておらず、剥き出しの眼窩からはありえざる黒い炎がごうごうと吹き出しているのだ。
前触れもなく、戦車大隊の砲が火を吹いた。
耳を聾する砲声のなか、譲史はやめろ、と叫んだつもりだった。
生身の人間が戦車の砲撃を浴びて無事であるはずがない。
しかし。
煙が晴れたとき、そこにはラヴクラフトの逞しい姿が、微動だにせず、仁王立ちしたままだったのだ。
ごう、と――、彼の左の眼窩から噴き上がる黒い炎がその勢いをましたかと見えた瞬間、迫りくる戦車大隊の戦列は突如として崩れてゆく。
キャタピラの下の地面が、ふいに、液状化し、鋼鉄の車体が傾いて呑み込まれていったのだ。
戦車のハッチが開き、搭乗していた兵士たちがわらわらと脱出してくるが、そのときすでに、車体は半分以上が地の底に沈んでいこうとしている。さらには、液状化した地面を破って、いくつもの触手があらわれ、兵士たちに襲いかかったではないか。
(ラヴクラフトのなかには、すべての《禁書》の情報がある)
譲史の脳内で、殷々と語る声があった。
(彼は《輝くトラペゾヘドロン》を通して、この世界のあらゆるものに接続し、情報を伝えることができる。すなわち、世界を自在に書き換えることが可能なのだ)
胸の悪くようなまだら模様の触手には、不気味な吸盤が並んでおり、掴みとられた兵士はなすすべもなく圧死したり、地面にひきずりこまれたりしている。
その地獄のような光景を、譲史はただ立ち尽くして眺めていることしかできない。
頭のなかの声は、この惨劇が、その中央に立つラヴクラフトのもたらしたものだと告げているのだ。
(これがやがて来る未来。そう遠くはない日の光景だ)
ラヴクラフトが歩み出す。
その足元で、その周囲で、すべてのものが絶え間なく形を変え、弾けて消えていった。
触手の攻撃をかいくぐって、ラヴクラフトのもとへたどりつけた兵士は、瞬時に、猿人から爬虫類、両生類、魚類へと、進化の道程を逆にたどるようにその姿を変じ、最後はどろりと崩れて地面にのまれてゆく。彼の足跡からは、古生代のシダ植物が成長し、その茂みから巨大トンボが飛び立ったかと見えれば、次の瞬間にはそれらは塵となって崩れ去っている。
創造と破壊――、その円環が、おのれの周囲ですさまじいスピードで繰り返されているのに、ラヴクラフト自身はまるで気づかぬように、その瞳は宙をさまよい、あてどなく歩いているのだった。
(なぜこんなことになったのか、という疑問があるかね?)
脳内の声が問う。
(それは、ラヴクラフトが、そうあることを望まれたためだ。ほかならぬ人類自身によって。かつて、人類は核の火を手に入れ、自ら滅びへの扉を開く鍵を見つけてしまった。ラヴクラフトも同じだ。人類自身が、世界を滅ぼす獣を、自分たちの手で生み出してしまったのだ……)
語る声は、どこか哀しげでもあった。
(われわれは……この宇宙とは異なる宇宙に存在している。そこから、こちらの宇宙にシグナルを送り、ごくわずかな、それを感じ取れる能力を持った人類を通して、われわれを名づけさせ、形を与えさせ、描かせ、物語らせることにより……われわれは人類の《恐怖》というエネルギーを得て、この宇宙に現出する。われわれはそういう存在だ。そしてラヴクラフトは、いわばシャーマンのような役割を持つ人類として、それは類希ではあれど、人類史のなかでは唯一ではないものとして生きた。そして死ぬはずだったのだ)
譲史の視界が、ゆがみ、ぼやけてゆく。
荒廃した未来の光景が、別のなにかに変わっていこうとしているのだ。
崩れかけたビルは、趣ある切妻屋根の街並みに。
荒れ果てた道は瀟洒な石畳へと変わっていった。
(しかし、運命は変わってしまった。……ここは1937年。アメリカ合衆国、ロードアイランド州、プロヴィデンス……)
教会の鐘が鳴る。
澄んだ空色にふさわしい音色が、天へと昇ってゆく。
その日、古都の空は晴天だった――。