23 仮面の男、再び
ラヴクラフトが駆けだしてゆくのを見る。
緑の炎を崇めていたフードの人影のひとつが、彼を押しとどめようと相対する。ラヴクラフトが見事なパンチをそいつに決めると、フードの人影はまるで塵になったようにぼろぼろと崩れてゆくではないか。なるほど、「連中は人間ではない」ようだ。譲史は得心して、銃を構える。
とはいえ、ここからでは射程ギリギリだし、ラヴクラフトを誤射するおそれがあってむやみに撃つのは難しい。それに、ラヴクラフトは襲い来るものたちを次々に殴り倒していて、加勢の必要はなさそうなのだ。
譲史は、地下水の流れの向こう岸で燃える炎へと目をやった。
いったいあれは何なのだろう。
地の底から噴き上がる、緑色の冷たい火柱。
譲史は、そのなかに、炎そのものとは違う、ゆらめく影のようなものを見る。
それは、ゆっくりと、火の中から歩み出そうとする――人だ。炎のなかに誰かいる。
譲史は声をあげてラヴクラフトに警告しようとした。
そのとき。
「……!」
地下空間を望む石造りの螺旋階段は、鉄製のそれに変わっていた。
がらんとした何もないフロアと、それを囲むように配置されたソファーのあるボックス席だ。奥には簡単なステージのようなものがあり、その反対側にはバーカウンターがあった。
「ここ、は……」
周囲を見回すが、誰もいない。
緑の炎はおろか、それに祈っていた一団も、ラヴクラフトもどこにいないのだ。
「ラヴクラフト!」
譲史は声を張り上げた。
応えるものはいない。上を見上げると、高い天井に、いくつもの舞台用照明が吊られている。中央には、安っぽいミラーボールも。
コツ、コツ、と――。
足音が近づいてきた。譲史は銃口を、そいつがやってくる闇の方へと向ける。
ゆっくりと、歩み出てきたのは、やたらごてごてとした装飾のついた甲冑めいたコスチュームだ。子どものいない譲史が、それがテレビで放送されている特撮ヒーローだと気づいたかどうか。『仮面ナイト』の名くらいは知っていたかもしれないが。
「そこで止まれ」
そいつは足を止めたが、それが譲史の命令に従ったからだ、というふうでもなかった。
仮面の下から漏れた低い笑い声には、はっきりと、嘲りの色があったからだ。
「おまえは誰だ」
「わたしが誰か。それはいかにも人間的な問いだな。自分自身が《誰か》であり、相手もまた《誰か》だと思っている。それぞれが、異なる人格であり、唯一無二のものであると信じて。あまつさえ、そのことに意味が」
「ぐだぐだうるせぇんだよ。名前を答えたくないならいい。だが、ラヴクラフトをどうしたのかは答えてもらうぞ」
「ラヴクラフト。……そう、その名前はわたしにとっても意味がある。きみたち人類の個体名のなかで、唯一、意味があると言ってもいい名だ。……最初の質問から答えよう。わたしは、きみたちが《無貌なるもの》と呼んでいるものだ。あるいは《這いよる混沌》《魂にして使者》《闇に棲むもの》……好きなように呼びたまえ。二つ目の質問だが、彼は少しのあいだ、外してもらっている。少々、遠い場所へね」
『仮面ナイト』はおどけた仕草で両のてのひらを見せた。
「目的は?」
「むろん、きみと話したかったからだ。わたしたちの共通の友人である彼――ハワード・フィリップス・ラヴクラフトについて」
「要点を言え」
譲史の眼光は油断なく相手を射抜いたまま、その銃口もぴたりと狙いを定めたままだ。だが『仮面ナイト』はそんなことに何の頓着もしていないようだった。
「彼は……非常に特別な存在だ。きみたちホモ・サピエンスの歴史は、わたしにしてみればとても短いが、そのあいだに実に多くの個体が生まれては死んでいった。そのなかに、ときおりあらわれる特別な個体……それらのなかには、わたしの干渉によってそうなったものも少なくはない。わたしに、きみたちがいう意味での人格はないのだが、きみたちの認識レベルにおいては……わたしは『非常にふざけた性格』であるようなので、わたしの振る舞いは、きみたちにそう認識される結果を招いてしまうのだよ」
「要点を言えと言ったはずだ」
「待ちたまえ。きみたちに理解できるように情報のレベルを落として伝えなくてはならないのだ。わたしが伝えたいことをそのままきみに伝えてしまうと、きみという個体の情報まで書き換えてしまう。そう……それこそ、きみたちが、何と言ったかな――おお、そうだ、《禁書》と呼んでいるものではないかね。いや、これは脱線だな。とにかく、だ」
『仮面ナイト』は、自らの話に没頭しながら学生に講義する教授のように、コツコツとダンスフロアを歩き始めた。譲史の銃口がそれを追う。
「彼はとびきりユニークな個体だ。はじめ、わたしにはそこまでのつもりはなく……ほんのちょっとした『調整』をしたにすぎなかったし、その程度の干渉はそれまでに何度も行ってきた。しかし、さまざまな偶然の結果……きみたち人類が、本来手にするべきではなかった知識と技術とが、彼のもとに集約され、それがためにわたしがまたも干渉せざるをえなくなり……結果、わたしでさえ予期せぬ因果の集束が起きてしまった」
講義の声はだんだんと熱を帯びていった。
「決定的だったのは《輝くトラペゾヘドロン》だ。わたしの端末。わたしの『非常にふざけた性格』が、人類にあれを渡したらどうなるかというアイデアを試さずにはいられなかった。だがそれが彼の手に渡ると――それもあのような形でだ――そこまで思い至らなかったのは、わたしのミスだと、きみたちは認識するだろう。実際のところ、わたしに人格はないので、また、わたしたちは時空を超越しているのだから、非線形な時間のなかで、それもあらかじめ用意されていた事象なのかもしれないのだが」
特撮ヒーローの姿をした教授は、譲史を振り向き、自身へ銃を向ける狙撃手に対して、いよいよ結論を述べようとしている。
「彼は、《輝くトラペゾヘドロン》によってわたしと繋がり、人類にとっての、ある種の特異点になってしまったのだ。すなわちルーシュチャ方程式の解だよ。これが何を意味しているか、きみにわかるかね」
『仮面ナイト』がつかつかと歩み寄ってくる。
「おい、それ以上俺に近づくな!」
譲史が警告を発するが、その歩みが止まることはなかった。
銃声が、フロアに反響する。一発、二発。銃弾は至近距離で『仮面ナイト』に命中したが、そよ風ほどの影響も相手に与えなかった。
ずい、と仮面が近づいてきて、譲史の視界いっぱいに広がったような錯覚があった。
「ラヴクラフトは、いずれ人類を滅ぼす。だからきみが殺せ」
その声を、譲史は一笑に付すことができなかった。
(ラヴクラフトは、いずれ人類を滅ぼす)
なにを言っているのか、まるでわからない――、と、譲史は感じたが、同時に、足元が崩れてゆくような絶望の途方もない深さも感じていた。
仮面の下から発せられた声は、圧倒的な質量を持って譲史の聴覚から侵入し、その意識を満たしてゆく。まるで意志あるもののように、それが神経系を駆け巡り、身体の内側を這い回られている感覚があった。
(だからきみが殺せ)
言葉が、譲史の脳内を反響し、万華鏡のように反射に反射を重ねて広がってゆく。
きみが殺せ。殺せ。殺せ。きみが。ラヴクラフトを。きみが。殺せ。殺せ。ラヴクラフトを。殺せ。殺せ。殺せ――。
がくり、と譲史は床に膝をついた。
「俺が……ラヴクラフトを……殺す――のか……?」
「そうだ。きみが殺すのだ。彼を殺して、世界を救え」
「世界……を」
「きみは世界を救うヒーローになりたいはずだ」
『仮面ナイト』は、おもむろに、その仮面を脱いでみせた。
その下にあらわれた漆黒の闇へとつながる虚ろな穴に、周囲の空間がぐにゃりと歪みながら吸い込まれてゆく。
クラブのフロアも、照明も、ソファーも、バーカウンターもすべてが消え失せた。
今や、真っ暗な何もない空間に顔のない『仮面ナイト』と譲史だけがぽっかりと浮かぶように存在している。
「さあ、ヒーローになりたまえ」
そして『仮面ナイト』は、おのれの仮面を譲史にそっとかぶせる。
その構図は、法王より王冠を授けられる、若き皇帝の戴冠式のような厳かさであったが、それを祝福するものは遥か彼方より到来する単調なフルートの音と、人ならざるものの下卑た嗤い声だけだった。
譲史の視界は仮面に閉ざされ、まったき闇が彼を包みこむ――。




