22 東京で一番のアイスクリーム
鋼の悍馬が東京を駆ける。
街は、死に絶えたわけではなかったことを、鉄馬の背に乗る二人は知った。
そこかしこで火の手があがり、打ち壊された店もあった。魚人や猿人の群れも何度か見かけたし、空飛ぶ蛇の怪獣ほどではないにせよ、なにかあやしい影が飛ぶ姿もあった。
一方で、消防車や救急車のサイレンも耳にしたし、警官や、有志の勇気ある人々が、異形のものどもに立ち向かったり、互いに助け合う姿もそこにはあったのだ。
報道機関のものと思われるヘリも飛んでいるようだ。
深夜から未明にかけて起こった数多の惨劇や悲劇を、大勢の人々が団結してそれに抗い、乗り越えようとしている。
譲史は、加勢に加わりたい気持ちを抑えて、鉄馬を駆る相棒に掴まる腕に力を込めた。
タンデムの終着地は、繁華街の外れにある一画だ。
夜に華やぐ場所ほど、朝には白けたような空虚さが漂う。路上にはゴミが散乱し、そのうえに無数のカラスが舞い降りてきて、飽食の残滓をついばんでいる。
そのなかへラヴクラフトと譲史が連れ立って足を踏み入れれば、カラスたちがいっせいに飛び立ち、道を開けてくれた。
「この不吉な鳥は『Nevermore』と鳴く」
ラヴクラフトは諳んじた。
「Nevermore――二度とない。この先へ進めば、二度と戻れないかもしれないのですよ」
まだそんなことを云っているのか、といわんばかりの胡乱な目つきで、譲史はラヴクラフトを見上げる。
電線の上へと退避したカラスの群れもまた、黒い眼でかれらをじっと見つめていた。
「別に。死にたいわけじゃあないが、おまえと違って俺は世界中にファンがいたりしやしない。妻子だっているわけじゃあないしな」
「作家のラヴクラフトは1937年に死んでいます」
「今のおまえもVIPなんだろ。こちとら警部補。兵隊のひとりだよ」
「命の価値に優劣はありません」
「大した人間愛だな。じゃあ言わせてもらうが、そういうおまえからは『任務のため』以外に生きてる感じがしないんだよな。そんなやつに命を大事にしろって言われても説得力がないぜ」
「譲史はぼくのことを何も知らないんです」
口をとがらせる。
「まあ、三日ほど前に会ったばかりだしな。いや、十九年前に会ってはいるのか」
がしがしと、譲史は頭を掻いた。
「あー……、わかったよ、ラヴクラフト。俺はおまえの指示に従うし、自分の命を最優先する。それでいいか?」
「最低限、そうしていただきます」
「決まりだ。その代わり、俺からも注文をつけさせてもらう。俺はおまえに命を預ける以上、おまえを心から信用したい。俺に生きろという以上、おまえ自身も、任務じゃなく自分の人生を生きてくれ」
「あなたは何を言ってるんです、こんなときに」
「おまえ、なんか、好きなもんとかある?」
「はい?」
目をしばたいた。
「好きな食いもんとかさ。なんかあるだろ」
「……。アイスクリーム……とか……?」
「よし。じゃあ、終わったら、東京で一番のアイスクリームを食わせてやる。せっかく来たんだ。東京観光もしてけよ」
「譲史……」
「約束だ。……だから俺は死なんよ。おまえもな。さあ、そうと決まれば、世界を救うヒーローになろうぜ」
うらぶれた雑居ビルの前に着いた。
そこが情報にあった住所である。一階の奥に、その堅牢なドアがあり、金属製の銘板に店名が刻まれていた。
「ここです」
ふたりは目を見交わし、頷き合った。
ラヴクラフトは、ゆっくりとそのドアを開ける。
低い、地鳴りとも、詠唱の声ともつかぬ音が、異様に冷たい湿った空気とともに流れ出してきた。
それはまるで、数百年間、鎖されていた封印の扉が開かれたかのようだ。
鉄扉の先は、地下へとくだる螺旋階段だった。
ふたりは、慎重に階段へと足を踏み出す。壁も階段も、石を彫り出してつくられたものであり、大勢の人間が、何年も何年も上り下りをしていたように、段鼻は踏み減らされている。壁には等間隔に窪みがあって、なかでは蝋燭の火が揺れていた。
しかし、明るさはまったく不足していたので、ふたりは用意していた懐中電灯で先行きを照らす。それでも、闇そのものが粘性をもっているように、暗いという印象が晴れはしない。
それはあまりに陰鬱な下降だった。
冥府へ至る道行のように、地下からはときおり、ぞっとするほどに冷たい風が昇ってきた。その風は皮膚にまとわりつくようにじめじめとしていて、ひどく黴臭かった。
螺旋はどこまでも続き、終わりがないかのようだった。
東京の繁華街の地下に、このような石造りの階段があること自体、不可解である。譲史の頭にそんな想念が浮かんだのを、ラヴクラフトが読み取ったように、彼は言った。
「わかっていたことですが、罠だと思います。ここはすでに東京ではないでしょう」
「あの島みたいに……?」
「ええ。別の時空間と接続された可能性が高いです」
永遠に終わらぬのではないかと思えた階段は、しかし、徐々にその幅を広げてゆき、やがて、ふいに開けて、かれらのまえに広大な地下空間の眺望を示してみせたのである。
ごおおお――、と、低い唸りが、巨大な地底の空洞に反響している。
それは、その先は深い闇に沈み、全貌を見渡すことのできぬ空間を風が吹き抜ける音であり、地の底を黒々とした水が滔々と流れゆく音であり、それらが絡み合って生まれた二重奏なのであった。
地下水流に洗われていない地面は、はるか原始の時代からそうであったのではないかと思えるような、異様に繁茂した菌類に覆われている。
そして、黒い奔流を割って盛り上がる中州のような島のうえでは、驚くべき光景が繰り広げられていた。
間欠泉のように、地下空間のさらに底から、空洞の天井に届かんばかりに巨大な火柱が噴出していたのだ。
その炎は異様な緑色をしており、菌類に覆われた地底の岩肌を地獄めいた様相に照らしだしている。
これほどの巨大な火が燃えていれば、その熱を感じてしかるべきであったが、その炎からは一切の暖かみが感じられることはなく、むしろ、冷たさをともなっていた。
炎は断続的に噴き上がり、踊るように揺らめいている。
地の底で、誰にも知られることなく、この冷たい炎は、何百年いや、もしかすると何千年も観客のいない踊りを無為に続けてきたのではないか――そんなことを思わせる、奇妙にして神秘的なありさまだった。
「なんだあれ」
ここまで黙々と下り続けていたふたりにも、驚異的な光景を前に失われていた言葉が戻ってきたようだった。
「そうか……ここはキングスポートの……。ということは」
ラヴクラフトがなにかに思い当たったように呟く。
それが合図であったとでもいうように。
菌類の茂みのなかから、大勢の人影が立ち上がり、緑の炎が踊り狂う中州へ向けて、黒い水の流れる岸辺へと集まり始めた。これほど大勢の人がいて、今までその気配が微塵も感じられなかったのは不気味なことだった。人影はいずれもフードつきのローブのようなものを着ているように見え、その様子は太古の時代の異教の儀式を思わせる。
「譲史」
ラヴクラフトは相棒の名を呼ぶと、足早に階段を駆け下り始める。譲史は慌ててそれに従った。
「あらかじめ言っておきますと、あの連中は人間ではないので遠慮はいりません。射殺して問題ありませんし、万一、あのなかに人間がいても、ぼくの権限であなたは罪に問われません」
「いきなりなんだ。つまりやつらを撃てってことか!?」
「ぼくを援護してもらいます。あの先頭のひとりが本を持っているのが見えますか?」
岸辺にもっとも近いところにいる人影が、緑の炎に捧げるように、大きく分厚い書物をおしいただくのが見えた。
「あれこそ《最も忌まわしき十二の書》のなかで最悪最凶の一冊、『ネクロノミコン』です。あれを回収しなくては!」
螺旋階段の終わりが見えてくると、ラヴクラフトは階段の端から、まだ数メートルはある地面へとひらりと飛び降りてしまった。
「そこにいて、退路を確保しておいてください!」
ラヴクラフトの言葉が、後を追って跳びかけた譲史をとどまらせた。
「お、おい」
「譲史!」
菌類を踏み分けながら、ラヴクラフトは一度だけ振り返り、高らかに叫ぶのだった。
「『東京で一番のアイスクリーム』……約束ですよ!」




