20 異形の夜明け
そして再び、早朝の埠頭。
譲史たちが駆け付けたとき、すでにその制服警官は絶命していた。
波止場のコンクリートのうえを、あふれ出た血が流れてゆく。警官が携帯していた拳銃も、そのものたちに抗うには不十分だったようだ。感情のない丸い魚眼が、譲史たちを振り返る。
数人の――いや、数匹、と言うべきなのだろうか、警官を襲ったと思われる一団は、青黒い鱗をぬめぬめと朝日に光らせ、カッと裂けたような口にびっしりと細かい牙を生やしていた。周囲にただよう生臭いにおい。それらが、譲史があの旅館の地下で遭遇した魚人と同種の存在であることは明らかだった。
「殲滅せよ!」
号令を発したのは、ソニアである。
譲史があっと言う間もなく、軍人たちは上官の命に従い、機械のような正確さとスピードで銃を構え、魚人の一団に銃撃を浴びせていた。
警官の命を奪ったとおぼしき魚人たちは、なんの反応もすることができないまま、銃撃のシャワーになぎ倒され、ものの数秒で一掃された。
「なぜここに《深きもの》が? まさか……」
ラヴクラフトが魚人たちのもとへ近づいてゆく。魚人の血も赤いようだ。おかげで周辺は無残な血の海である。だが、ラヴクラフトに一歩遅れて近づいた譲史は、刑事として嗅ぎなれた血の匂いよりももっと強い、磯臭さを感じたのだった。
「いや、そのまさかだぞ、ラヴクラフト」
譲史が呻くように言った。
「これは、こいつらは……」
魚人たちは服を着ていた。
そのこと自体、たちの悪いパロディじみた悪夢だったが、それが、いかにもこの港湾地区の倉庫街にふさわしい作業服であることが、譲史にそれ以上の言葉を継げなくさせている。続きはラヴクラフトが口にした。
「海から上がって来たわけではない……ここにいた人間が変異したということですね」
そして誰かが通報し、警官がやって来たのだろう。
「なぜだ……! 人間が怪物に変異するのは《禁書》に触れたからじゃあないのか? まさかこいつらもオーシャン・オニキス号の乗員だった、ってわけじゃあないよな?」
「むろんそうではないでしょう。だがなんらかの方法で情報汚染を受けたのには間違いなく……」
ラヴクラフトの思案に、ソニアが割り込んできた。
「私たちはノーデンス号に戻るわ。あなたにも帰艦してほしいところだけれど」
「いえ、ソニア。ぼくらは少しこのあたりを調べてみます。なにかが起こっています」
「では状況がわかったら連絡を」
手短に言うと、軍人たちはきびきびした動きで撤退してゆく。
それを見送る間に、譲史は警官の銃とホルスターを取って、自分のベルトに装着した。
「あいつら容赦なかったな。こいつらが人間だってわかってたと思うんだが」
「それが任務ですからね」
ラヴクラフトはあっさりと評した。譲史は無言で、自身の顎を撫でている。
近くに、エンジンをかけたままのパトカーが放置されていた。
「警視庁捜査一課の江戸川だ」
譲史は無線に話しかけたが、応答はなく、雑音が返ってくるばかりだった。
「妙だな。しかたない。こいつで警視庁へ行くぞ」
譲史がハンドルを握り、助手席にラヴクラフトが巨躯をもぐりこませた。
パトカーは、薄明の街へと走り出してゆく。
うっすらと朝靄のようなものがかかり、遠景は霞んで見えた。街灯や信号の光がぼんやりと灯っているが、車はほかに一台も走っていない。そして大きな通りに出ても、人の姿はまったく見えないのだ。時刻を考慮にしたにしても、異様であった。
「異世界にでも来ちまったか? 俺たち、間違いなく東京に上陸したんだよな?」
言いながら、譲史は道路標示に目をやり、現在地が予想どおり品川付近であることを確認する。このまま海岸通りから首都高に入れば、十五分程度で警視庁へ着くはずだ。
「異空間に入った様子はないですね。ですが現実だとすれば……いっそうまずいです」
助手席のラヴクラフトがおもてを引き締める。
「ぼくたちは《禁書》の存在を公には秘匿していますが、かれらもまた、おおっぴらには姿をあらわしてこなかった。それが、そうでなくなったのだとしたら――」
そのときだ。
ふっ、と周囲がわずかに暗くなった。あたかも、車がなにかの屋根の下に入って、光が遮られたとでもいうように。
「譲史、避けて!」
ラヴクラフトが大声をあげて、助手席から強引にハンドルを奪い、右へ切らせた。
タイヤがスリップして悲鳴をあげる。
「なにっ!?」
間一髪、上空より落下してきたものが道路上で大破し、耳をつんざく破壊音とともに一帯に粉塵をまき散らした。
「く、車が……!」
降ってきたのは自動車だ。
ぐしゃぐしゃにつぶれてスクラップ同然ではあったが、間違いなく乗用車である。それが突如、空から落下してきて、すんでで譲史たちのパトカーがおしつぶされるところだったのだ。
ラヴクラフトは助手席側の窓から上を見上げて、厳しい顔つきになった。
「《忌まわしき狩人》……! こんなものが堂々と東京の空を飛ぶようになるとは」
「上になにかヤバイのがいるのか」
恐ろしく巨大な翼が立てているとおぼしきはばたきの音がした。今まで嗅いだことのないような悪臭を感じて、譲史はそこにいるものを見なくて済めばいいのに、と祈った。
「譲史、どこか屋根のあるところへ入れますか? 捕まらないようジグザグに走ってください。できるだけ急いで!」
「勝手なことばかり言いやがって!」
悪態をつきながらもアクセルを踏み込む。
「あそこに入る、しっかり掴まっとけ!」
行く手に見えたのはオフィスビルの地下駐車場への入り口だ。
ドリフト走行で車の向きを変えると、ダイブするように地下へと突入する。
咆哮を地下空間に反響させながら、地下駐車場の入り口にあらわれた巨大な顔が、何重にもなった歯列のある顎を開くのを、譲史はフロントミラー越しに見てしまった。
「想像の十倍でかいぞ! 何なんだあの怪獣は!」
「スピードを落とさないで! まだ追ってきます!」
ラヴクラフトの言葉どおり、そいつは鎌首を駐車場内へのねじ込んでくる。蛇のように細長い身体の生き物なのだ。ただその胴体の直径は地下駐車場の入り口にもぐりこめるギリギリのサイズであったから、ふたりが車を降りて建物の階段室に逃げ込むだけの余裕はあったのだった。
「それでどうするんだ。あいつは中まで入ってこれなくても、外に居座られたら俺たちも雪隠詰めだぞ」
階段を駆け上がりながら、譲史が声を張り上げる。
「ソニアに連絡をとりましょう」
「軍隊を呼ぶのか、この東京の街中に!?」
「やむをえません。このままでは東京市民にも被害が出ます」
「もうむちゃくちゃだな、おい……って!?」
急にラヴクラフトが立ち止まったので、譲史は壁のようなその背中に鼻をぶつける。
「急に止まるな……、なに……?」
駐車場から階段を上がると、そこはビルのエントランスホールだった。
受付のフロントがあり、来客を待たせるソファーセットがある。
もう少し時間が経てば、出社してきたオフィスワーカーたちが、新聞やテイクアウトのコーヒー片手にこのフロアを抜けてエレベーターに吸い込まれてゆくだろう。
だが今、ここにいるのは……異様に矮小な体躯の一団だった。
一見して猿のような印象がある。
しかし、粗末ながらも服のようなものを纏っていた。ぼろ布のようなそれが、よく見ればワイシャツやスラックスの慣れの果てであることの意味を、深く考えたくない、と譲史は思った。
あの作業服の魚人たちと同じように、かれらが、もとはごく普通のオフィスワーカーたちだったなどとは思いたくなかったのだ。
しかし、上陸して以来、あの不幸な警官をのぞいて、まともな東京市民の姿を見ていない。まさか、東京中の市民という市民が、一夜にして異形へと姿を変えたなどということがあるだろうか。想像するだけでも気が変になりそうだった。
連中は、手足が長く、揃って禿頭だ。
そして人よりもはるかに猿に近い顔つきに、あきらかな敵意を浮かべて、かれらの集いにあらわれた二人の闖入者――すなわち譲史とラヴクラフトをねめつけていた。
猿人たちは十人、いや十匹はいたのだろうか。
エントランスホールの中央に輪をつくり、その中央に、デスクや椅子やパソコンといった品々をでたらめに積み上げた塚のようなものをつくりあげていた。そしてその塚の上では、警備員と思われる制服を着た男性がひとり、恐怖に目を見開いたまま絶命しているのだった。