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19 パンデミック

 それは、ラヴクラフトたちが港に上陸する前の夜――ノーデンス号がまだ日本列島の太平洋側沿岸を航行中のことである。

 ひとりの女性が、仕事帰りというには遅い時刻に、疲れた足取りで自宅マンションへたどり着いたところだ。

 名前を出せば誰もが知るような大企業で彼女は働いている。その一線で活躍する彼女の仕事は激務だった。ひどい残業でくたくたに疲れ切り、自室のある階でエレベーターから降りた彼女は、廊下の向こうに一人の男が立っている姿をみとめた。

 思わず、足を止める。

 オートロックのマンションだから、向こうも住人であろうとは思うが、この時刻に男性と一対一になると、たとえそれがマンションの廊下ですれ違うだけであってもどきりとするものだ。

 そして、不気味なことに男は廊下を歩いてくるのではなく、そこにただ立ち尽くしているのである。

 スーツ姿の中年男性だった。住人だと思うが見かけたことがあっただろうか。軽く会釈だけして、足早に通り過ぎてしまおう。そう思って、彼女が歩き出そうとしたとき、男はよろよろと、ゾンビ映画の動く死者のような足取りで彼女へ向かってきた。

 男の血走ったような目が彼女を見ている。その唇がなにか言いたげに開かれて……。

 女性は思わず身をすくませたが、伸ばされた男の手が彼女に届くことはなく、そのまま男はうつぶせに倒れた。

 そして彼女は見た。

 男のスーツの背中が破れて、噴出した血が中空を昇ってゆくのを。

 血しぶきがあたりを汚すことはなかった。まるで見えないホースのなかを吸い上げられるように血が宙を駆け――、目には見えないが確かにそこにいて男の血を吸い上げているものの姿を、そいつが吸った血が描き出してゆく。ごぼごぼと、血を吸い出す音なのか、それとも嗤い声なのか、どちらとも言えない音がマンションの廊下に響くなか、女性の悲鳴が真夜中を貫いた。

 その悲鳴は、しかし、この夜、都内各所で放たれた、いくつもの、恐怖の嚆矢のひとつに過ぎなかったのだ――。


 別の時刻、別の場所。

 先ほどの女性よりは早い時刻にだが、やはり仕事を終えた男性が、帰宅してきたところだ。

 我が家は明るかったが、妙に静かだ、と男性は感じた。

 それは、いつもならわっと駆け寄ってきてくれる小さい息子と犬の姿がないからだった。

 リビングでテレビにでも夢中になっているのだろうか?

 男性が、しかし、リビングのテレビもついておらず、そこに息子も犬もいないことを見たあと、ネクタイをほどきながらダイニングをのぞけば、キッチンに向かっている妻の背中だけがある。

「あれっ、タカシは?」

「いるわよ」

 トントントン……とリズミカルな包丁の音。うまそうな匂いが漂っているなか、背中だけで妻は返事をした。

「リビングにはいないけど? それにハッピーもいないみたいだ」

「そこにいるじゃない」

 愛犬の名をあげると、妻はそう言ったのだ。

「そこって……」

 足元にでもいるのかと、ダイニングテーブルの下をのぞきこんだが、人なつっこいミニチュアダックスの姿はどこにもない。

「おい、からかってるなら――」

 いい加減むっとして、口を開きけて止まった。

 ダイニングテーブルの上には、妻が準備している夕食が並んでいる。妻は料理上手だ。毎日、幾皿もの手の込んだ料理が並ぶ。しかし、これはなんだろう。大皿の、野菜のうえに盛りつけられている、この不格好な肉塊のようなもの、この――、この剥がし残された毛皮の毛色は、これは……。

 男性は凍り付いた。

 コンロにかけられている大鍋の縁から飛び出しているものに気づいてしまったのだ。まるで助けを求めて、しかしそれが得られぬまま、絶望を掴みとったようなかたちの、その小さな手――。

 脳が理解を拒み、頭が真っ白になった。

「あなた」

 妻が、そこに立っている。

 エプロンを血まみれにして、脂ぎった包丁を片手に。

「おかえりなさい。すぐ夕食にするわね」

 その顔に貼り付いたような笑みを割って、ひとつの大きな、異形のあぎとがめりめりと開かれていくのを男は呆然と見つめている。


 いったいいくつの絶叫が、その夜、東京の街を騒がせたのだろうか。

 救急車とパトカーのサイレンが、ひっきりなしに行き交い、まるで人々が寝静まるのを許さないかのようだった。

 悲鳴と怒号、誰かが争うような物音――真夜中を過ぎても去ることのない騒然とした気配に目覚めた人々は、言い知れぬ不安と同衾しながら、眠れぬ夜を過ごしていた。

 どこかで犬が狂ったように吠えている。

 消防車が通り過ぎてゆく。

 交通事故とおぼしき破壊音。

 そして……新着メールの通知音ともに、暗闇のなかでスマートフォンの画面が灯った。

 なにか不吉な知らせではあるまいか、と胸騒ぎとともにメールを確認した人々は、差出人不明の、よくわからない文字の羅列からなるメールを目にする。

 そのメールの文字を見つめているうちに、人々の意識はゆっくりと溶け崩れ、気が遠くなってゆき――。

 そしてまたひとつ、恐怖の叫びが夜を脅かす。


「いったい、なんだっていうんだ!」

 男の表情は戦慄のそれであったけれども、声にはどこか弾んだような調子もあった。それはかれらマスコミ人の性というものであっただろう。世間を騒がす出来事があれば、それが派手であればあるだけ、かれらにとっての飯の種であるからだ。たとえそれが、当事者にとってはどれほどの悲劇であったとしても。

 報道局はパニックと言ってよかった。

 むろんテレビの現場は、ある意味で、常にパニック状態なのだが、その夜ばかりは、文字通り狂っているとしか言えない状況だったのだ。

 次々に、事件や事故のニュースが飛び込んできた。

 しかもそのどれもが、あまりにも常軌を逸したような、年に一度あるかないかというような代物だったのである。

 刃物を持った男が道行く人を切りつけたとか、一家のあるじが家族を人質にわけのわからないことを叫びながら家に立てこもったとか、若者の集団が車で商店に突っ込んだとかいうような、通常ならニュース速報が出るような事件さえ、その夜はまだ穏当で、平凡なものに分類された。

「母親が子どもと飼い犬をバラして料理しちまっただと……!? なんてこった、こいつぁ、トップニュースを差し替えにゃならんな……いや待て、やっぱりこの団地の住人がワンフロア全員飛び降り自殺したっていうほうが……おい、この公園の池にネッシーが出たっていうのは何なんだ?」

 報道局のプロデューサーを務める男は、届けられるニュースのなかに、いよいよ通報者の幻覚としか思えないようなものが混じり始めたことに、呆れたような声を出す。

「原始人の群れが野良猫を焼き殺しただの、タワマンの高層階の窓からどでかい顔が部屋をのぞきこんでいて住人が発狂しただの……。冗談じゃないぞ、まったく。この書類、ドラマ制作部の資料が紛れ込んでんじゃないのか。おい!」

 あまりの荒唐無稽さに、書類を届けたスタッフに理不尽な怒りを向けて顔をあげたプロデューサーは、ふと、異様なことに気が付く。

 二十四時間、眠ることのない報道フロアだ。

 つねに煌々と灯りがつき、その下で、スタッフたちが忙しそうに走り回っているのが常である。各地の中継や、世界の株価、気象情報、現在放送中の番組……そういったものが映し出されているモニターがずらりとならび、電話が鳴りやむことはない。

 それがどうしたことか。

 スタッフたちは、全員、それぞれの机でじっとモニターを見つめているか、立っているものは自分のスマホを手に持って見つめたまま立ち尽くしている。

 全員、無言だ。ありえないような沈黙が報道フロアを包み、誰もとらない電話の呼び出し音だけが空しく鳴り響いている。

「おい……」

 異様な気配に呑まれたように、プロデューサーもまた黙り込む。

 近くのスタッフの肩を叩こうと立ち上がったとき、彼はモニターのなかに、それを見た。

 色彩だ。

 鈍い銀色の輝きのようにも、極彩色が混じったマーブル模様にも見える、不思議な色彩。それが、黴のコロニーの成長を早回しするようにモニターに広がってゆく。それはすべてのモニターに同時に起こっていた。

 スタッフたちは、その色彩を一心に見つめていたのであり……その瞳に映った色彩が、涙のように目からあふれ、皮膚へと零れ落ちてゆくのを男は見た。

「うえッ!」

 途端に、恐ろしい悪臭を感じて、男はのけぞった。今まで嗅いだことがないような異様なにおいだ。こみあげてくる嘔吐に耐えきれず、男は夕食を床にぶちまけたが、そのなかに同じ色彩が混じっているのを見て、悲鳴をあげた。

「な、なんだこれ……うげぇええ」

 身体の中が熱い。悪臭は自分の中から漂ってくる。

 男はフロアの出口へと這っていった。

 すべてのモニターが同じ色彩に染まり、そこからあふれ出た色がデスクや、椅子や、電話やパソコンを浸蝕してゆく。

 やっとのことで廊下に這い出し、向こうからやってくる人影に助けを求めて手を伸ばした。その手の皮膚にも、じわじわと色彩が広がりつつある。

 コツン、コツンと――、足音を響かせてこちらへ来るのは、確か日曜の朝に放送されている子ども向けの特撮番組のヒーロー『仮面ナイト』だった。

「た、助け……」

 『仮面ナイト』は、立ち止まり、全身を色彩に覆われた男を見下ろす。

 くくく――、と含み笑いが、その仮面の下から漏れた。

 特撮ヒーローはゆっくりと、その仮面を脱ぐ。その下にあったのは、人間の頭部ではない。ぽっかりと切り取られたように開く、空間の穴だった……!

 穴の向こうに見えた漆黒の宇宙空間から、陰鬱なフルートの音色が流れ出すなか、報道フロアの中では、テレビ局のスタッフがすべて、おぞましい異界の色の染め上げられて死に絶えていた。

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