幕間 未読メールが1件あります
ストレッチャーが騒がしい音を立てて廊下を運ばれてゆくのを、北村医師は見送った。
今日は救急が多いな、と、ぼんやり考える。先ほどまで会議に出ていたのだが、その間も、廊下をバタバタ通り過ぎる看護師の足音をよく耳にしたし、会議に出席中の医師たちが幾人も呼び出されていたのだった。
病院とはいつも忙しいものだが、それでも波はある。その波が一度に集中する「魔の日」のようなものがあるとすれば、それが今日だったのだろう。そういえば――と、北村が思い出したのは、夕方頃、救急に運び込まれた若い刑事のことだ。
たしか名前を倉田といった。北村はつい数日まえに、彼を見かけているのだが、それは例の江戸川譲史が喀血して倒れたといって搬送されてきたあと、関係者として容態を聞きにきたのが彼だったのだ。
その倉田刑事自身が運ばれてきたというのだから奇妙なめぐり合わせだ。
交通事故ということだったのだが、直接、事故によって負った外傷は軽い打撲くらいで、どういうわけか脳炎を発症していた。現在、集中治療室で治療中だ。
江戸川刑事があんなにすぐ退院していかなければ、先輩後輩の刑事ふたりが仲良く入院するはめになっていただろう。
倉田刑事の症状は謎だったが、それにもまして不思議なのは、やはり江戸川刑事のがんが消失――としか言えない――したことだった。
給湯室に寄って濃いコーヒーを淹れると、カップを片手に北村は部屋へ戻った。
慌ただしく働いている救急スタッフには悪いが、こちらも外来の後に続いた長い会議で疲れているのだ。少し一息入れても罰はあたるまい。
PCの前に座り、思い出したついでに、江戸川譲史のカルテをもう一度開いてみた。
できれば彼に協力してもらって、再度、徹底的に検査を行い、この症例を論文にできないだろうか、と北村は思った。
コーヒーを啜りながら、江戸川譲史の、あの日の検査結果を入念に見直してゆく。
その間も、部屋の外からは看護師たちの行き交う足音と、ストレッチャーのキャスターの音がひっきりなしに聞こえていた。
そのときだった。
北村は新着メールの通知に気づく。
習慣的な、流れるような動きでメールアプリを開く。
届いたばかりのメールを開けば、その文章が目に飛び込んできた。
しかし、数ヶ月前。確かに、彼の前の窓は壊れていませんでしたが、自然は多くの奇妙なトリックをしました。私はお金と私が求めたロープの薬を使い果たしました。みんなひどく辛かったです。彼の顔の表情は、不明瞭な筋肉の収縮によって簡単に引き起こされる種類のものであり、彼が見ているものとは無関係である可能性があります。もう苦しみに耐えられない。思い出すと、道を歩いている人は皆、真っ青で浮かない顔、何かの前触れ、未来をささやきました。
宛名も挨拶も何もなく、改行すらない文字の連なり――いや、塊とでも言うべきものだった。
なんだ、これは?
そのときになって、北村はそのメールに件名も差出人も表示されていなかったことに気づく。スパムメールの類だろうか。
マウスホイールを指で転がし、文面をスクロールさせてゆく。
説明のつかない■■■■たちがアドバイスに耳を貸さなかったので、私はこの発言を強いられました。あなたのモルヒネ中毒があなたの体とあなたの心を弱めたと思い込まないでください。暗い雲の中で■■■■の源を爆撃した悪夢と恐怖、私はニュースの印象を受けました。
流れてゆく文章は、ただ意味不明というだけでなく、次第に、でたらめさが増してゆく。
こ縺薙屋螻九裏部屋窓から下陬城汚れた兜縺りに身を投げてください。私が与える警告が無※縺上もしれな隕壹∴思うのはさらに気が進まな◆蠎そもそも→諤昴っきり覚えて繝ァ繝せん。注意深蠢ォ膚?究吶、■■■■の死らァが落雷また悟ォュ放電によって引き起こされた函縺阪※神経学ョであると??般k縺薙信念に反対することを躊諢乗キァるでしょ繧九〒縺励私繧我ク今夜瑚誠髮も??きて蜿榊ッセせん
なんだ、やっぱりスパムじゃないか。
そう判断して、北村は削除をクリックしたつもりだったが、その指はマウスホイールを転がし続けていた。
それは本物と見なされ、やぶらぐるとらぐむ、この乱雑な走りを読んで完全に理解するのは難しいですが、肯定的な話ではありません。いあ、ふたぐるいいい、あい、あい、なぜ私が忘却と死を望んでいるのかがぁやえいい、るるあ、うぇいああい、わかります。それは、幻覚の現在、幻覚の現在でしいあぁ、ふたぐん、ふたぐぬるるいぇあおむ、た。
文字の塊がモニターを流れていく。そのスピードが次第に速くなる。
なすたふる、ああい、えあぎぶすすぐるむ、あい、ふたぐらん、はすばはあるとむ、いあ、だごん、ぎぎあぼほほむ、らぼばぁい、るるいぃ、ふるぶるぎぃ、にぐらとろぱえん、あいい、なふたぐるる、いいい、あい、あい、はりえべへすぺしゅるぅうるするる、くるうる。
バタバタバタ――
看護師たちの駆ける足音。マウスホイールをカリカリと転がす音。ストレッチャーのキャスターの音。うるさい。今、集中しているんだ。論文を……今日は救急が多い……江戸川譲史のカルテ……赤血球に核が――ありえない、しかし、数ヶ月前。確かに、彼の前の窓は壊れていませんでしたが、自然は多くの奇妙なトリックをしました。ふんぐるい、むぐるうなふ、くとぅるふ、るるいえ……
凄まじい音と、誰かの悲鳴で、北村は我に返った。
悲鳴をあげたのは看護師のようだ。
北村医師は、目の前の、彼のパソコンの液晶モニターが粉々になっているのに気づく。
あれ、俺はいま、何をやっていたんだっけ。
ぼんやりと頭を巡らせると、執事服を着たアラブ系外国人が部屋の入口に立っているのが目に入る。彼には見覚えがある。退院した江戸川譲史を連れていった巨漢の外国人と一緒にいた人物だ。
アラブ系の執事の手には拳銃があり、銃口からは硝煙が立ち上っている。
モニターを破壊したのは彼のようだ。
まだ、頭の芯が痺れたような奇妙な感覚があったが、なぜか、自分は彼に救われたのだ、という気がしているのだった。