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18 フランケンシュタインの怪物

「この状態はあまりもたないらしい」

 譲史は言った。

「だから――だからな、ラヴクラフト」

 その瞳の光が急速に鈍り、消えていこうとしている。

「ジョージ、きみはまさか」

()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。それから……必ず生き延びろ。()()()()()()()()()()()()()()()()

 再び眠るように、譲史は意識を失う。くずおれた身体をラヴクラフトはしっかりと抱いた。

「わずかばかりの脳を獲得しただけの霊長類が、この私を愚弄するというのか!」

 翁面から怒りの声が迸った。

「返せ。それは私が私を奉ずるものに与えたものだと――」

 したたるような呪いを込めて吐かれた言葉は、しかし、途中で終わった。

 すっくと立ち上がったラヴクラフトは、どこかに隠し持っていたらしいナイフのようなもので、おのれの掌を切り刻んでいる。

「……」

 その意図するところを量りかねてか、仮面の男は慎重に足を運び、間合いを取る。

 ラヴクラフトの胸に穿たれた穴はすでに癒え、その態度には落ち着きが戻ってきていた。違うのは右目には眼球が生まれており、左目は固く閉じられたままであること。

 彼はおもむろに、その掌を仮面の男へと向けた。

「っ!」

 男がたじろいだ様子を見せた。

 ラヴクラフトの掌は、自らが刻んだ傷からの鮮血で濡れていたが、その傷はひとつの文様をかたどって彫られたものだった。

「《旧神の印》か!」

「《旧神》が善なるもので、《外なる神》が悪だという単純な図式は誤りだ。ぼくの書いた物語を、そう解釈したがるものもいるようだけれど。《旧神》とはひとつの宇宙秩序に過ぎない。だがそれは《外なる神》を存在たらしめているエネルギーを抑制し、消滅させる方向へ向かわせる構造でありシステムだ。それはある種の宇宙の摂理なんだ」

「それは間違いあるまい。だが、そのちっぽけな印ひとつで、私を退散させられると思うのなら、楽観が過ぎるぞ、ラヴクラフト」

「むろんそうだとも。しかし、この《回路》に、無限大ともいえるエネルギーが流れ込んだらどうなるかな」

 ラヴクラフトは、閉じていた左の瞼を、そっと開けた。

 たちまち、黒い光が周囲を照らしだし、そのありえざる色調は、見たものを混乱させずにはおかない不思議な光景をあらしめた。

「《輝くトラペゾヘドロン》を!」

「この結晶体は光を遮断した密閉空間において、外宇宙のエネルギーを無限に取り込むための窓になる。今までその力が、ぼくのこの肉体を動かしていたのだけれど、親切にも、ぼくに心臓を与えてくれたものがいたので、その必要はなくなった。代わりに、ぼくはこの有り余るエネルギーを別のことに使えるというわけだ」

 ラヴクラフトが掌を左目にかざせば、彼の手は黒い炎に包まれて燃え上がる。

「さあ、これがおまえをこの次元から退去させる宇宙の法則……摂理を宿した拳だ」

 ラヴクラフトは駆けた。

 仮面の男が叫ぶ。

「今ここにいる私を倒しても、私はまた別の時空からあらわれることができる。おまえたち人類が、われらに勝利することなどありえないのだぞ! 人類の生はあまりにも短く、われわれには永劫の時がある。『ネクロノミコン』に記された、あの詩篇を知らぬとは言わせんぞ、『永劫なる時の果て、死もまた死せるものなれば――』」

「ぼくが人間としての人生を全うしたあと、ぼくの墓碑銘にはこう刻まれた。『I am Providence』と……!」

 黒く燃え上がる拳が、翁面をまっすぐに打ち据えたとき、それは音を立てて砕け散った。

 仮面の下にあったのは、やはり虚無への穴だった。

 唸りをあげて、周囲の空気と、殴られてよろめいた男自身の身体さえもが吸い込まれてゆく。かすかなフルートの音色だけを残して、仮面の男はあとかたもなく、消滅していた。


 一艇の軍用ボートが、波のうえを奔っている。

 空が明けはじめたところだ。朝焼けのホリゾントに、東京湾岸の高層建築物のシルエットが浮かび上がる。

 東京。その街の名が、ひどく懐かしいような、そんな気持ちが譲史をとらえる。

 だが実際は、彼がラヴクラフトと東京を発ったのは、昨日の朝のことだ。それなのに、ひどく長い旅を終えたような気分だった。

「その後――。島はものの一時間も経たぬうちに再び海底へと沈みました」

 ラヴクラフトが語る物語は、静かに終わろうとしている。

「海中から《黒い石》のサルベージを試みましたが、発見することはできませんでした。できたとしても意味はなかったでしょう。『ルルイエ異本』はそのときすでに、遭難したオーシャン・オニキス号の乗客の無意識下へと埋め込まれていたのですから。救助された人々の記憶洗浄は行いましたが、《禁書》による情報汚染をすべて取り除くことはできません。島本宏志や洲崎香奈のように、後日、しかるべきトリガーによって発症してしまう。あなたにもその危険因子は眠っています、譲史さん」

「……譲史でいい。あのときもそう呼んでたろ」

 譲史はぶっきらぼうに言った。

 米軍兵士が、熱いコーヒーを入れたマグカップを配ってくれた。礼を言って受け取る。ノーデンス号へ連行されるときのヘリの中とはずいぶん待遇が違う、と皮肉を言いたくなったが、それは呑み込んだ。

「しかし俺は記憶を消されて……、おまえはずっと俺を憶えてた。まさか十九年経って、刑事になっていた俺とおまえが会ったのは偶然だっていうのか?」

「運命というべきでしょう。十九年前、仮面の男の襲撃により、ぼくは死に瀕した。あのときのぼくを救えたのは、譲史――あなたしかいかなった。十九年前のあの場にいたのは、ぼくと、十七歳の譲史だけでしたからね。ソニアによって、《イスの偉大なる種族》の技術である時間を超越した《精神交換》の術式が用いられ、現在の譲史の精神が、十九年前の十七歳の譲史の精神とほんの数分間、交換されたのです」

「そして彼の活躍で、十九年前に死ぬはずだったラヴクラフトが救われ、過去が書き換えられたというの?」

 たまりかねたように、ソニアが口を挟んだ。

「ミスター江戸川が十九年前に飛んでラヴクラフトを救うためには、現在の東京でラヴクラフトと出会っている必要がある。それを運命と?」

「ええ。ウロボロスの環が閉じたのですよ」

 信じられない、というように、女性軍人はかぶりを振った。

「十九年前、ぼくは未来から来たあなたに救われたことを理解しましたが、あなたがいつどの未来からやってきたのかはわかりませんでした。今回の任務で来日し、警視庁にアクセスしたとき、関係者リストにあなたの名前を見つけたときのぼくの気持ちが想像できますか?」

 ラヴクラフトの頬が上気して見えたのは、熱いコーヒーのせいだけではないだろう。

「……ラヴクラフト。聞かせてくれ。おまえはいったい何者なんだ」

「ぼくは――H.P.ラヴクラフトです」

 ラヴクラフトは、どこか恥じるように俯き加減に、言った。 

「ぼくは1937年に、一度、死にました」

「……ひいじいさんが作家だと言ったが」

「むろん、それが、ぼく自身です」

「そうか。……だが今さら、それくらいでは驚かんぞ」

 譲史の言葉に、ラヴクラフトはひっそりと微笑する。

「ぼくの脳は、ぼくの記憶、人格とともに、この肉体に移植されました。あるところで、魔術的な方法で保存されていた、この名も知られていない青年の屈強な肉体に。眼球はあらかじめて失われていて、復元はできませんでした。もっとも、霊的視覚を得たので不自由はありませんでした。サングラスは手放せませんでしたが。あと、顔は少し、整えています。それはその……あの当時、こういう顔が流行っていたものですから……」

「アローカラーマン」

 ソニアがぽつりと言った。

「なんだって?」

「シャツの広告よ」

「ラヴクラフトは死去したことになっていたので、ぼくはシュリュズベリィ博士の名前と立場を受け継いで活動を始めたのです。博士は1915年に失踪していましたが、帰還したということにして。……そして、例の結晶体ですが、あれは《輝くトラペゾヘドロン》と呼ばれる異界の物質です。当初は、それを心臓の代わりにして、ぼくは生きていました。今は左目のなかにあります。その経緯はお話したとおりです」

「……」

「……不気味ですよね。とうに死んだはずの人間の脳に、誰かもわからない男の身体。その身体を動かしているのは、異世界の物質。いくら顔は広告のハンサムなモデルだといっても……今のぼくは、ちぐはぐなものを繋ぎ合わせた、フランケンシュタインの怪物のような存在です。ぼくは、ぼくのこの知識と、《輝くトラペゾヘドロン》がもたらすエネルギーとが、合衆国が――いえ、人類が《外なる神》と闘うために必要だという理由だけで、生かされています」

「……想像を超えてるな。《禁書》がどうの、という話だけでもとんでもないことだったのに……。まして俺自身もそこにかかわっていたとなればな……」

 場に沈黙が落ちた。

 そうこうしている間も、かれらを乗せた軍用ボートは東京に近づきつつある。

 ノーデンス号が襲撃を受けるなか、過去からの攻撃により消滅の危機にあるラヴクラフトに請われ、ソニアは拘束していた譲史に時を超える《精神交換》の術式を施した。

 結果、ラヴクラフトは回復し、それとともに役目を終えたのかノーデンス号を襲撃していた存在も忽然と姿を消したのだった。

 かれらの艦は一路、太平洋を日本列島沿いに南下し、未明には東京湾沖へと到着した。

 そこでラヴクラフトと、目覚めた譲史とは解放されることとなった。ソニアと数名の兵士に付き添われ、かれらは軍用ボートでの上陸の途に就いていたのである。

 すでに、夜は明けていた。

 うっすらと朝靄のただよう埠頭へと、ボートは接岸する。芝浦埠頭付近であろうと、譲史は察した。

「おまえに命を救われたことは変わらんよ」

 兵士たちの手を借りて、埠頭に降り立った譲史は、先を行くラヴクラフトの背中に、ぼそりと呟いた。

「えっ」

 ラヴクラフトが振り返ったが、譲史は目をそらした。

「それに、俺は別に、おまえのことを――」

 おずおずと口にした言葉の続きは、しかし、鋭い音に遮られた。

 かれらははっと顔を見合わせる。

 夜明けの東京を、いくつかの銃声が貫いたのだ。

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