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17 仮面の男

「ラヴクラフト。いや、今はシュリュズベリィと名乗っているのだったかな。いくつもの顔と名を使い分けるのは、もしや私を真似たのかね?」

 翁面はくくく、と笑った。

「ランドルフ・カーター、ヘンリー・アーミティッジ、ロバート・ブレイク……いったいどれがきみの変名で、どれが本当に別人なのか、私にはもうわからない。じっさい区別がつかないのだ。きみたちが、足元を這い回る蟻の一匹一匹を見分け得ぬようにね」

 面のため、男の顔はわからない。

 だが流れ出す声はひどく老獪で、すべてを心得ているといった自信と余裕に満ち満ちていたので、まさしく翁の面のとおり、かれを年古りた神のように思わせた。

 一方で、そこに老いたものの弱々しさは微塵もなかった。スーツに包まれた背筋はぴんと伸び、力が漲っている。

「おまえと話すつもりはない」

 ラヴクラフトは冷たく言った。

「どのような姿をとろうと、おまえはわれわれとコミュニケートできる存在ではないのだから。おまえはいわばこの宇宙に起こる天災であって、そこに人格はない。そのように見えたとしても、それはわれわれの認識が、われわれの文化において、おまえというインターフェイスを解釈した結果に過ぎない。それこそがおまえの《仮面》の正体だと、私たちは結論づけている」

「話すつもりはないと言いながらよく喋る口だ」

 声は、真後ろから聞こえた。

 弾かれたように振り返ると、すぐそこに仮面の男は立っていた。

「きみの講義を聴くために来たのではないのだよ、シュリュズベリィ博士」

 どすん、と強く、思い衝撃。

「な――」

 深い場所で、ごきり、と不吉な音がしたのは、肋骨が折れ砕かれたのだろう。

 シャツが、見る見るうちに真っ赤に染まってゆく。

 ラヴクラフトは、仮面の男の手首から先が、おのれの左胸に埋まっているのを呆然と見下した。

 とてつもない力が、一瞬にして、ラヴクラフトの尋常でなく分厚い胸板を突き破ったのだ。

「わたしの仮面が人類の認識が生み出す幻想に過ぎないというのなら、人類の思考自体、脳内の化学物質の作用に過ぎないではないか。特にきみはな、シュリュズベリィ――あるいはラヴクラフト」

 仮面の男が、手を引き抜くと、ラヴクラフトの鋼鉄のような筋肉にやすやすと開けられた穴から、大量の鮮血が噴出した。

 がくり、とラヴクラフトが膝をつく。

「これは返してもらう。きみの心臓……いや、《輝くトラペゾヘドロン》」

 男の手のなかには、奇妙な多面体の結晶が血まみれで輝いていた。

 それ自体は黒く艶やかな鉱物であるようだったが、内側で暗い炎が燃えているように、あるいは、拍動するかのように明滅している。あたかもそれは、ラヴクラフトの胸からえぐり出された心臓が脈打つかのようだった。


「ラヴクラフト!」

 ソニア・グリーンが驚いて振り返った。

 ラヴクラフトは床に倒れ、苦しげに呻いている。

 駆け寄ろうとしたとき、ソニアは、ラヴクラフトの姿が一瞬、透き通ったのを見て息を呑んだ。

「まさか、攻撃されている……!? この、人類が持ちうる最高強度の呪術的防護を施したノーデンス号の中で!」

 続いて彼女を驚かせたのは、まさにそのノーデンス号そのものが激しく振動したことだった。警報が艦内に鳴り響く。

「艦長。我が艦は攻撃を受けております」

 ダレン中佐が飛び込んできた。厳めしい副官の顔は引き締まってはいたが、それでも焦りを見てとることができた。

「敵は」

「詳細は不明ですが、数秒前までソナーには何の反応もなかったことは確かです。反応があらわれたときには囲まれておりました」

「映像で確認して」

「すぐにそうしましたが、見た士官が発狂いたしました。ソナーを頼りに、魚雷で応戦しております」

「……ぼくだ……」

 苦しい声に、軍人たちは振り返った。

「牽制か、陽動に過ぎない……狙いは……ぼくだから」

「この男を艦外に排出してはいかがでしょうか、大佐」

 ソニアはダレンをきっと睨みつけた。

「それで我が艦が助かったとしても、彼を失うことは人類が《外なる神》との戦いに敗北することに近づくわ。ラヴクラフト、何が起こっているというの」

「ぼくの存在そのものが……消されれようとして……過去から……」

 途切れ途切れに話す間にも、ラヴクラフトの姿は古い写真のように色褪せ、下手な合成画像のように透けたり戻ったりを繰り返している。

「ソニア」

 名を呼ばれ、女性軍人はラヴクラフトの傍へ寄った。

 その軍服の端を、必死に絞り出したかのような力で、ラヴクラフトの手がしっかりと握ったのだ。

「頼む。切り札は……彼だけなんだ」

 はっ、と、ソニアは目を見開いた。


 ゆっくりと、ラヴクラフトの胸が上下している。

 そこに無残な傷口が開き、あとからあとから血があふれているのにだ。

 だが泥の上に仰向けに倒れ、空を見るその顔は蒼白である。眼窩はもとより虚ろな空洞だったが、瞳があったとしても焦点は定まっていなかっただろう。

「まだ生きているのか。……この《輝くトラペゾヘドロン》との霊的接続が続いているのだな。体内から取り出されてなお、この結晶はきみの心臓として機能しているというわけだ。だが、その肉体を動かし続けてきたこの結晶がもたらすエネルギーは、人類に与えられてよいものではないのだよ」

 翁面の下から漏れる声は落ち着いていたが、確かに怒りをにじませてもいる。

「さよう、これは私の力だ。《輝くトラペゾヘドロン》は、私を崇拝するものたちのために私が与えた端末なのだからね。きみは先ほど、ずいぶんと私を侮辱していたが、その私から盗んだ力で今日までながらえていたのだ」

 男の手のなかでもてあそばれている多面体は、複雑に光を反射している。

「ふむ。そうだな。殺すつもりではあったが、生かしておくのも一興か」

 声に、じっとりとした悪意が加わる。

「力を奪われ、ただの弱き人間として、残りの生を生きるというのはどうだね、ラヴクラフト。もはや私はおろか、下等な奉仕種族にすら対抗できぬ人間として、だ」

 男の指先が、空中に複雑な文様を描く。

 ぐにゃり、と空間が歪んだような気配があった。

「すべての生命はウボ=サスラより出でた。人類も、あの原初の存在の残滓を遺伝情報のなかにとどめているのだ。すなわち、ショゴスと同質のもの」

 漆黒の粘液質のものが、虚空から染み出し、ラヴクラフトの胸の傷口へとしたたり落ちた。

「……っ!」

 彼の身体が激しく痙攣する。

「そら、きさまに心臓をやろう。弱々しく脈打ち、いずれ止まってしまう哀れな臓器を」

 傷口は塞がっていった。そのとき、閉じてゆく傷の中から、不吉な声のようなものが漏れ聞こえたようだ。テケリ・リ!テケリ・リ!――と聞こえたそれは、すぐに、鼓動の音にまぎれてしまう。

「あ、ああ……!」

 ラヴクラフトから苦痛の叫びが迸る。

「次は眼をやろう。光の反射でしかものを見ることができぬ愚鈍な器官だ。まずは右」

 テケリ・リ!テケリ・リ!という音――あるいは声――とともに、ラヴクラフトの右の眼窩の中で黒い粘液がぐつぐつと泡立ち、一瞬の後に、それは通常の眼球のかたちになった。澄んだ湖水のような碧眼である。

「ぐうっ……!」

 ラヴクラフトは顔をしかめた。その様子を翁面が笑った。

「眩しかろう。自分の目で世界を見たのは何年ぶりだ? さて、最後は左の――」

 仮面の男の左手が、面をめがけて飛び込んできた拳をがっしりと掴んだ。

「ほう」

 柔和な翁のかんばせを睨みつける強い眼光を、面の下から漏れだす邪悪な気配が嘲る。

「徒手空拳でこの私に挑もうとは、人類史に残る勇気だ。讃えられてあれ」

 譲史だった。

 その拳に相当な力がこもっていたことは譲史の腕の筋肉の張りからわかるが、それをやすやすと受け止めた男の手はびくとも揺るいでいなかった。そして。

 男が手を押し出すと、譲史の身体が宙を舞った。

「ジョージ!」

 ラヴクラフトが身を起そうともがく、狙ったように、譲史の身体はその血まみれの胸のなかへと落ちてきた。

「……っ」

 譲史が苦痛に喘ぐ。

「畜生、肋骨をやられた。()()()()()()()()()……こいつは治ったあとも冬には痛むんだ」

「……ジョージ?」

「ラヴクラフト」

 振り返った譲史の目に、きわめて深い光を宿しているのをラヴクラフトは見た。それはすべてを理解したものの、穏やかさと確かさを持っていた。

「なに!」

 翁面が狼狽した声をあげる。

 男の手は空っぽだ。

 多面体の結晶――《輝くトラペゾヘドロン》は奪われていた。

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