1 江戸川譲史の憂鬱な朝
目を覚ますと、もがいていたのは湿気を含んだ万年床の中だった。
寝間着がわりのTシャツが汗で貼りつき、ひどく不快だ。
むくり、と半身を起こす。朝だというのに気温はすでに過酷な暑さに達しており、エアコン代を惜しんで窓を開けていた部屋の空気は蒸し蒸しとしていた。
ワンテンポ遅れて鳴り始めた目覚ましアラームが、怠い身体を容赦なく鞭打つ。さあ、とっとと起きな。労働の時間だ。
江戸川譲史は、飲みさしのウィスキーグラスやつまみの残りが入ったままのレジ袋に並んで枕元に転がしてあった充電器から加熱式タバコを取り出すと、起き抜けの一服を深々と吸い込んだ。ふう――、と吐き出したニコチンをたっぷり含んだ呼気は、安普請のワンルームの壁や天井に沁み込んでゆく。
のろのろと布団から這い出したところで、譲史は、激しい咳に身を折った。
足をもつれさせながら洗面所へ走り、洗面ボウルにしがみつくようにして、咳だか嘔吐だかわからない喚きをあげた。ぽたぽたと、洗面ボウルに鮮血がしたたる。
ぜえぜえと喘ぎながら、顔を起こせば、鏡の中から土気色の肌をした髭面の男が、暗い眼をしてこちらを睨んでいた。
削げたような頬と鷲鼻、奥まった目は、良く言えば精悍だったが、目の下の濃い隈や、荒れた唇からただよう若者から中年に差し掛かかった男特有の倦んだような匂いが、野犬のような近づき難さを発していた。
蛇口を捻り、水が喀血のしるしを流し去れば、なにごともなかったように、譲史はその水で顔を洗い、ぼさぼさの髪をなでつけた。
髭は剃りもせず、シャツを脱ぎ捨てたとき、電話が鳴る。
「……江戸川だ」
スマートフォンを耳にあてる。
「そうか。すぐに行く」
短く、応えた。
素肌のまま、くたびれたワイシャツに袖を通す。慣れた手つきで――しかし面倒そうにネクタイを結び、手早く身支度を整えてゆく。そうすれば、いくぶん、見られた様子になるのは、顔の造作そのものは整っているということなのであろう。
ジャケットをひっつかみ、玄関へ向かいながら、その胸ポケットにあるものを確かめる。
警部補 江戸川譲史
そう記された黒革の警察手帳だけが、譲史がまっとうな社会の一員であることをわからせてくれる身分証だった。
いつにも増して憂鬱な朝である。
厭な夢を見たこともあるが、前の日の記憶が、現場に直行するその間にも、譲史に重くのしかかってきていた。
昨晩は、部屋に帰るなり、酒を呷って寝てしまった。深く考えたくなかったのだ。しかし、譲史のような庶民は一生を酔っ払ったままいるわけにはいかない。一晩のささやかな眠りさえ彼に安息を与えてはくれず、悪夢をもって報い、無情に素面の朝がやってきた。
「肺がんですね」
医師は目も合わさずに告げた。
しん、と診察室が静まり返り、室温が下がったような錯覚があったが、実際にはそのあいだも、看護師たちが忙しそうに働く音で、病院は喧しかった。
シャウカステンに貼られたレントゲン。その肺に浮かぶどの影が、不吉な病のものであるのか、いくら目を凝らしても、医学の知識をもたぬ譲史にはわからなかった。
医師の説明は続いていたが、耳には入ってこない。ショックだとか、悲しいとかではなく、突然に、すべてのことに興味が持てなくなった、という感じだった。
驚きはなかった。十代の頃から、タバコ代がいちばんかさむ毎日だったのだ。二十歳を迎えるまでに補導されなかったことが譲史の人生における最大の幸運と言ってもいい。そうでなければ警官になどなれなかったのだから。
診察室の丸椅子に座る譲史の背中を、眺めるもうひとりの譲史がいる。
医師の話では手術はしないらしい。それは、もう手術をしてもムダだ、という意味なのだろう。
やれやれ、ここで終わりか。
面白くもない人生だった。妻子もなく、毎日が仕事漬け。しかもその仕事ときたら、わざわざ下水の中へ入っていってドブネズミを捕まえるようなものなのだ。むろん、ドブネズミが一匹減れば、そのぶん世界は美しく清潔なものになる。しかしドブネズミは無数におり、譲史自身には下水の臭いが沁み込んでゆく。
こんなはずではなかった、とも思うが、すでに三十年をとうに超えて生きてきた路だ。四十路を目前にした今、そのような感慨自体が青臭い。
「お疲れ様です!」
現場に着いた譲史を敬礼で迎えてくれたのは倉田真斗だ。捜査一課一年生の後輩である。
捜査一課の猛者たちはみな強面だが、倉田は対照的なベビーフェイスだった。婦警に人気があるので、先輩刑事たちはやっかみ半分に、あんなやつに刑事が勤まるかと言っていたものだが、なかなかどうして気骨のある若者だったし、体育会系らしい素直さで、今では可愛がられてもいる。捜査一課に来る前は機動隊で鍛えられており、空手の有段者でもあるという。
「江戸川さん、昨日、だいじょうぶだったんですか。病院だったんスよね」
「ああ。休んで悪かったな。検査の結果を聞きに行っただけだ。……お前のほうこそ、顔色悪ぃぞ」
「いやぁ……現場が……ひどくて」
さすがの空手家・倉田も、辟易した様子なのを見ると、相当に悲惨な事件のようだ。
そこは、何の変哲もない住宅街である。
かろうじて二十三区内だが、このあたりはだいぶ家賃も安いはずだ。すでに野次馬やマスコミが集まり始めているのを後目に、譲史はその戸建てへと足を踏み入れた。
じっとりと濃い血の匂いが、鼻をつく。もう慣れっこになってしまった死の匂い。それにかすかに混じる……なんだ、この匂いは……?
「朝、玄関のドアが開けっぱなしになっているのを見て、おかしいと思った近所の人が発見しました。かわいそうに、第一発見者の奥さんは倒れられてしまったので、今病院です」
「……」
玄関からまっすぐ入ったところに、すぐリビングがある。
午前の明るい陽射しが差し込む、居心地のよさそうな部屋だ。しゃれたソファーに、ガラステーブル。小ぎれいで、片付いている。棚のうえに写真立てがあったのを、譲史は手に取る。結婚式の写真のようだ。幸福そうな若い男女の姿を眺め、その片方が、横たわっているのへ目を落とした。
「この家の主婦、島本亜矢、二十九歳と思われます」
倉田が手帳を繰りながら言った。
「旦那は」
「島本宏志、三十三歳。姿がなく、連絡もつきませんので、ただいま手配中です」
リビングの隣はダイニングキッチンになっている。テーブルのうえに、ふたりぶんの朝食が並んでいるのを譲史は見た。
「発見はいつだ」
「今朝8時40分頃ですね」
朝食を支度し、だがそれを食べることなく妻が殺され、夫は消えた。
譲史は床に片膝をつき、うずくまるようにして検分していた鑑識に並ぶ。
「死亡推定時刻は7時頃だろうね」
五十代と見える鑑識はベテランだ。譲史の質問を待たずに必要なことを教えてくれた。
「死因は扼死。爪から皮膚片を採取した」
手で首を絞めて殺され、その際、抵抗して犯人の手を掻きむしったということだ。皮膚片を分析すれば有力な証拠になる。
「ということは、これは死んだ後にか」
「そうなるねぇ」
譲史と鑑識は、死した若妻が仰向けに横たわる、血の海をしみじみと見渡した。その血はまだ乾いてさえいない。
「あれはこの家のものか」
床に転がっている包丁――証拠品を示す番号標識が傍に置かれている――を譲史は指した。
「そのようですね」
と、これは倉田刑事。
「扼殺したあと、包丁で腹を裂いたのか」
宙をにらんだまま絶命している被害者の下腹部は、無残に切り開かれ、内臓がはみ出ている。惨殺とはまさにこのことだが、生きながら切られたのでないのはせめてもの慰みだった。
「あっ」
ふいに、倉田が声をあげた。
「すいません、大事なことを言い忘れていました」
「なんだ」
「亜矢さんは、妊娠中だったと」
譲史は鑑識を振り返った。彼は頷く。あまりにも陰惨な出来事をまえに、むしろ笑いしかないというような表情で、彼は言うのだった。
「胎児は見あたらない」
「なん――だと」
譲史は呻いた。
犯人は、妊婦の腹を裂いて胎児を取り出し、持ち去ったというのか。