16 時の追跡者
鳴りっぱなしのクラクション。
煩いな、と他人事のように思ってから、それがいつから鳴っていたのか思い出せないことに気づき……、そもそも今がどこで、自分が誰なのか――砕け散っていた見当識が、パズルのピースをバラバラにした動画を逆回しにするように倉田の中に戻ってきた。
「!」
途端に、「追われている」という恐怖と焦燥も甦り、身じろぎしようとしたが、身体中の痛みがそうはさせてくれず、食いしばった歯の隙間から呻き声だけが漏れる。
米軍人は、エアバッグに突っ伏して意識を失っているようだ。フロントウィンドウを蜘蛛の巣のようなひび割れが覆い、白煙が漂っている。
抜け落ちたまま戻らないピースもあったが、なにがあったのかは容易にわかる。記憶にあるのは、首都高を法定速度をはるかに凌駕するスピードで逃げる車と、数秒置きに車の間近に転移しては引き離されを繰り返すタトゥーの青年の不敵な笑みだった。
その状況下でどれくらい走ったのだったか。
がしゃん、とガラスが割れる音がして、自身の首根っこが掴まれるのを、倉田は感じた。
恐ろしく強い力が、乱暴に倉田を車の外へと引きずり出す。
「や、やめろ」
抵抗しつつ、叫んだつもりだったが、思った以上にかすれた弱々しい声しか出なかった。
アスファルトの上に仰向けに投げ出された倉田の視界に、太陽を背にした影がぬうっと覆いかぶさってきた。
逆光がつくる影のなかで、しかし、その眼は爛々としている。輝いているのが青年の目か、彼の肉体に巣食うタトゥーの獣の眼かはわからなかった。いずれにせよ、荒々しく興奮した吐息が耳につき、すんすんと匂いを嗅ぐ様子もあった。
「この匂いだ。……おまえのなかを通らせてもらう」
そう言って、そいつは――組み敷いた倉田に、自身の唇を重ねた。
そこから、ずるりとなにかが入り込んでくる――!
倉田刑事の記憶は逆再生していった。
首都高速のチェイス。路地裏での遭遇。尾行を撒こうとしたこと。洲崎香奈の隣人との会話。部屋での捜査。
逆行する記憶のなかに、自分自身の意識ではない何者かがいて、ともに時を遡っているという、異常な感覚があった。
自分の意識が自分の制御下になく、強引に引きずられるようにして回想を強いられている。
警視庁の倉庫で資料と格闘している自分の姿を、倉田は俯瞰で眺めた。廊下の向こうで、アラブ人執事から書類束を渡されているのも見た。譲史を乗せた救急車が走っていくのを心配げに見送る背中や、島本宏志を追って二人で工事現場へ足早に駆け込んでいくところもだ。
そして、あの朝――。
倉田のなかにいる何者かが、残忍な喜悦に色めき立つのがわかった。まぎれもなくそれは、獲物を見つけた猟犬の歓喜だった。
激しく咳き込んでいる譲史へ、倉田が声をかける。
「だいじょうぶですか? なんかへんな咳ですよ」
「なんでもない。指紋の照合を急がせろ。包丁についてたやつと……旦那のが一致するか。それと夫婦以外の指紋がないか……」
ふと言葉を切り、譲史はあらぬ方向へ目をやった。
(だめだ、見るな!)
倉田は叫んだ。
声は出ない。意識のうえでだけだ。それでも届くことを祈って叫んだ。だが届くはずもなかったのだ、この時点の倉田に、今現在の倉田の声は聞こえない。だからすでにそうであったように、そのときの倉田は譲史の視線を追って、それを見た。
殺人現場を封鎖するテープの向こう、野次馬の群れを割って乗りつけられたリムジンから降りてきた人物――譲史と倉田が初めて見た、ハワード・フィリップス・ラヴクラフトの姿を。
ごふっ、と血を吐く。その瞬間、衝撃に倉田の全身がびくりと痙攣した。空が……いや、視界が赤い。目のなかの毛細血管が破裂して出血しているのだろう。耳からも鼻からも血が流れ出していた。
救急隊が走ってきて、倉田の様子を確認すると、何事かを叫んでいる。
時を駆ける猟犬の踏み台となった倉田の肉体と精神は、常人が耐えられるはずもない衝撃に傷つき、死に瀕していたのだった。
ほんのつかのまでも、あの猟犬を意識のなかに宿したことで、倉田はすべてを理解していた。
狙いは最初からラヴクラフトだったのだ。
だからラヴクラフトと接触した人物である倉田を追い、その記憶を遡行して、今はラヴクラフトの時間軸へと飛び移った。
薄れてゆく意識のなかで、倉田はラヴクラフトがあの猟犬の追跡から逃げられることを祈ることしかできないのだった。
そして、十九年前――。
「見つけたぞぉーーーっ」
歓喜の雄たけびとともに、猟犬はラヴクラフトを――いや、この時代はシュリュズベリィと名乗っていた男を背後から羽交い絞めにした。
一緒にいた少年――十七歳の譲史が声をあげて、腰を抜かしたようだった。
ラヴクラフトは、不意は打たれはしたが、その力は強かった。強引に腕を振りほどくと、背負い投げの要領で猟犬を投げ飛ばす。
そして素早く落ちたサングラスを拾い上げた。両目がなく眼窩にぽっかりと穴が開いているだけなのに、視覚にはまったく支障がないようだ。
「驚かせてすみません、ジョージ。この目のことですが――」
言いかけて、ラヴクラフトは、はっと口をつぐんだ。
「……」
つい先ほどまで、汚泥に沈みかけた危難から助けられたゆえの感謝にやわらいでいた譲史のおもてが、別人のようにこわばっているのを、ラヴクラフトは見る。
黒眼鏡に映り込む譲史の表情には、異形なるものへの戦慄と嫌悪が含まれていた。あんたは何者だ。人間じゃないのか。言葉はなくとも、表情は雄弁だった。
一度は互いに背中を預けて戦い、死線をくぐった信頼も、消え失せてしまったようだ。
「ジョージ。やはり、あなたに謝らなくてはいけないようですね」
ラヴクラフトは言った。返事はないが、彼は続ける。
「すでに、人類が経験すべきでないような経験をたくさんさせてしまった。むろんこの島から脱出した後は記憶洗浄を行う予定でしたが、その前にあなたの神経が参ってしまうかもしれない。しばらく眠ってもらったほうがいいでしょう」
ラヴクラフトは大股に距離を詰めると、譲史は上ずった声を出した。
「おい、よせ……俺に近づくな」
譲史が逃げようとするより早く、彼の両の手は譲史の側頭部を挟み込むように押さえ付け、一瞬の沈黙の後、意識を失った譲史の身体がくずおれるのを、胸のなかに抱きとめていた。
「よかった」
眠る譲史に言い聞かせるように、ラヴクラフトは言った。
「あなたが私をはっきり拒んでくれて。また私は間違うところだった。かつて、私のこの異形にも構わず、私と行動をともにし、私の仕事に協力してくれた若者たち……アンドルー、エイベル、クレイボーン、ネイルランド、そしてホーヴァス。かれらの人生を狂わせてしまったのは私だ。あなたも同じ目に遭わせるところだった、ジョージ。あの時にかれらに比べても、あなたはずっと若い。さあ、眠りなさい。起きたときには……悪い夢はぜんぶ終わっているよ」
譲史をやさしく地面に横たえると、ラヴクラフトは立ち上がり、そいつへと向き直った。
「……で――。どうしてここに《ティンダロスの猟犬》がいるのかな。この島は『ルルイエ異本』の力によって浮上した、おそらくはディープワンの海底コロニーの一部だ。つまり《夢みるもの》の領域。《猟犬》はかれらの眷属ではないのだし……むろん《猟犬》というからには、誰かがおまえをけしかけて私を追わせたということになるが」
黒眼鏡のため表情は読みにくいが、ラヴクラフトのおもては厳しく引き締まり、声は硬かった。
「まさか、おまえなのか……《無貌なるもの》」
ニイィッ――、と、猟犬の顔に笑みが浮かんだ。
恐ろしいことが起こった。
その笑みをかたどるように、青年の顔の輪郭に沿う縁取りのような傷が、彼の皮膚のうえに走ったのだ。内側から皮膚が裂けるようにしてできた傷から鮮血があふれだすも、表情は文字通り貼り付いたように、そのままそこにあった。
そして、その笑顔はぴくりとも動かないまま、青年の顔が、ずるりと剥がれ落ちたのだ。
顔を切り取られ、剥がされたような格好だ。本来ならば、そこには皮膚組織を奪われたあとの、筋肉組織や剥き出しの鼻腔、歯茎と歯列、眼球といったものが無残に露出するはずだったが、そうはならなかった。
剥がれ落ちた顔が足元の泥に落ちたあとの、青年の顔は、真っ暗な穴だった!
ごぉぉおおお――、と、風が唸る。
空気が、その穴に吸い込まれているのだ。
ありうべからざることに、顔に開いた穴の向こうは、青年の頭部の容量をはるかに超える空間が広がっている。その彼方に、かすかな星の瞬きが見えはしなかっただろうか。宇宙だ。この穴は、漆黒の宇宙空間へと繋がる開口部だ。ゆえに真空の宇宙へ空気が吸い出されていっているのだ。
その音に混じって、宇宙空間の向こうから、陰鬱なフルートの音色が聴こえたような気がした、そのとき。
おお、見よ。
その穴の縁に、内側からあらわれた指がかかった。その指が穴をぐい、と広げると、綻びのような宇宙への開口部は広さを増し、そのものがこちら側にやってこれるだけの幅になる。ぴかぴかの革靴を履いた足が、すらりと伸ばされ、汚泥の大地に降り立った。
仕立ての良いスーツを着込んだ男が、そこにいる。
顔面を失って絶命した青年の遺骸が、どしゃりと崩れるのには頓着せず、男は足元に落ちていた、先ほど青年から剥がれ落ちたものを拾うと、おのれの顔へとあてがった。
すなわち、その――《翁面》を。