15 危険な旅
ダークスーツの片割れが飛び込んできた。アメフト選手ばりの渾身のタックルで青年を吹き飛ばすと、青年に覆いかぶさり、全体重で抑え込む。そのまま首だけは倉田を振り返り、
「逃げろ! 仲間の車がある!」
と日本語で叫んだ。
男の声に決死の覚悟がにじんでいることを感じ取り、倉田は従う。路地を駆け出したところで背後から悲鳴が聞こえたが、振り返ることはしない。そこに待っていた車の、開いている後部座席へと転がり込んだ。
ドアを閉めることができたのは車が急発進した後のことだ。
ハンドルを握る男は、仲間の運命を悟っているのだろう。ぐっと奥歯を噛み締めたような表情だった。
「われわれは米軍だ」
「米軍!?」
「今回の任務は《禁書捜査局》との共同作戦だった。きみを監視していたのは、護衛の意味もあったのだ。気を悪くしたなら謝る」
「いや、そんな――」
言いながら、なにげなく後方を振り返った倉田は、息を呑んだ。
タトゥーの青年が、およそ人間離れした速度で車を追ってきているのを見たからだ。運転する男はむろん気づいていたのだろう。さらにアクセルを踏み、悲鳴のようなクラクションを狂ったように鳴らしながら、公道を疾駆する。
「しっかり掴まっていてくれ。どこまで逃げられるかわからないが、できるだけのことはする」
どこまで逃げられるかわからない――?
男のあまりに気弱な言葉に、倉田は呆れる。だが男がとんでもない臆病者とは思えなかった。誇り高い米国軍人の、おそらくは相当に優れた工作員であるらしい以上、その言葉は合理的に導かれた結論なのだ。
倉田はもう一度、追ってくるものへ目をやった。
リヤウィンドウの彼方で、その姿は車のスピードが上がるとともに急速に遠ざかってゆく。そのまま引き離せるかと見えたとき、陽炎のように、その輪郭がゆらぎ、にじんでゆくを倉田は見た。そしてまるで溶けるように消え失せて……。
「!」
ドンッ!と重々しい音が、車の天井から聞こえる。
「オレから逃げられるわけねぇーーーっ」
フロントグラスに、逆さまにタトゥーの青年が張り付いていた。
「バカな! どうやって!」
はるか後方に引き離されたはずの青年が、どうして車の屋根の上に飛び乗れたのか。瞬間移動したとしか考えられない。混乱する倉田をよそに、車を運転する米国軍人は、これも予想していたとでもいうか、しごく冷静に急ハンドルを切る。慣性が青年を振り落とし、交差点には悲鳴と怒号とクラクションが錯綜する。
「おいおい……!」
「あれならそう簡単に死にはしない。一般への被害と交通法規の違反については謝罪する」
車は唸りをあげて走る。前方に、首都高速の入り口が近づいていた。
湿った風が空をうねり、雲を吹き流してゆく。
「あまりあれを見ないほうがいい」
シュリュズベリィと名乗った男は、譲史が、泥濘から突き出た構造物を見上げているのに気づくと、そう言って視線を遮るような位置へ移動した。
「あれは何? 建物みたいに見えるけど」
「《黒い石》です。一種のモノリスですが、表面には碑文が刻まれています。原始的な情報媒体ですね。いわば先史時代の『本』ですよ」
「本……? なにが書いてあるんだ?」
「人類が決して知るべきではないことが」
シュリュズベリィの眼鏡は墨のように真っ黒で、その向こうにあるはずの彼の目を見ることはできなかった。
「どういう意味なんだ? っていうか、ここがどこだか知ってるのか。あんた……あの船に乗ってた?」
シュリュズベリィはその問いには答えず、あいまいな微笑を返しただけだった。
「私はあなたがたを助けたいのですよ。あなたの名前は?」
「江戸川……譲史」
「ジョージ。歩けますか? とにかくこの《黒い石》からは離れたほうがいい」
シュリュズベリィは譲史が立つのを助けてくれる。さいわい、譲史に怪我はない。
「ここはどこなの。まさか、外国……?」
明らかに外国人であるシュリュズベリィが救助隊の一員なら、自分は外国まで流されたのか、と思って譲史は尋ねた。
「いいえ、ここは日本の領海です。この島は、恐るべき力によって海底から浮上した。『オーシャン・オニキス号』が座礁したのはそのせいなのです」
ふたりは泥濘の上を歩き始めた。
シュリュズベリィは、行くべき方角がわかっているようなので、譲史は着いてゆくしかない。
「ジョージ。ほかに誰かを見た? 生きている人か、そうでない人も」
「いや……。この島が浮いてきて、船とぶつかったっていうことなのか。そんなことが本当に?」
「あるのですよ」
シュリュズベリィは沈痛な声を言った。
「おかげで、あれを海底から引き上げる必要はなくなりましたけどね。しかしその代償がクルーズ船の沈没とはまったく笑えない。ジョージ。あなたに謝らなくては」
「えっ、どうして」
「この島は、私たちがあの《黒い石》を求めたがゆえに浮上したのかもしれない。いえ、確実にそうでしょう。われわれがあれの所在を知り、この場所へ向かった途端、あれとともにこの海底の大地は隆起した。おそらくはわれわれの手にあれを渡さないために、かれらが――」
彼がふいに言葉を切った。
唇を引き結び、油断なく辺りへ気を配っているようだ。
「なんだ……」
譲史は驚く。いつの間にか、周囲の景色が一変していたのだ。いや――、相変わらずどこまでも続く泥濘の地平であることには違いないから、一変は過言かも知れぬ。しかし、振り返ったところに、あの黒い構造物の姿がないのは明らかにおかしい。
ふたりが話しながら歩いたのはものの数分であって、あれほど大きな物が見えなくなるほど遠ざかることはない。
そして、周囲の地形に、先ほどはなかった起伏が生まれていた。
かれらを取り囲むように、汚泥の丘陵が盛り上がっており、その頂には、あの《黒い石》とはまた違ったなにかの影が立ち上がっていた。幾何学的な直方体だった《黒い石》とは異なる、荒々しく削りだされた石の柱……原始文明の築いた環状列石のようにも、あるいはなにか古代の神殿が崩れ落ちた跡のようにも、それらは見えた。
「まずいな」
シュリュズベリィが小さくひとりごちた。
「空間の繋がりがひずみ始めている。1925年の南太平洋と同じ現象だ」
「えっ、それはどういう――」
「ジョージ。きみは戦闘訓練を受けたことは? あるいは、ケンカは強いかな?」
唐突な問いに、譲史は笑った。
「ケンカならまあまあだと思ってるぜ」
「それは良かった」
わらわらと――
列石の影や、汚泥の丘の向こうから、かれらがすがたをあらわしたので、シュリュズベリィの質問の意図が見えてきた。胸がむかつくような、魚の腐ったようなにおいが漂うなか、ぎこちない歩き方でかれらににじり寄ってきているのは、後足で立ち上がった両生類のような、半魚人めいた怪物の群れだった!
「なんなんだ、こいつら」
「《深きもの》です。かのものたちの眷属のなかでも、ごく下等な存在です。……引き付けて、襲ってきたら身を守ってください。私が包囲を突破しますから、後に続いて走ってこれますか?」
「オーケイ」
ふたりの会話が終わるのを待っていたかのように、どっと押し寄せてくる魚人の群れを、ふたりは背中合わせで迎え撃つ。
譲史の動きは、自負するだけのことはある機敏さだった。十代の肉体は若さがもたらす粗暴さを隅々にまで漲らせ、この場を生き延びることへの渇望を闘志に変えて存分に発揮する。すなわち、その脚が緩慢に近づく魚人を蹴り飛ばしたかと思えば、鉤爪と水掻きのある手が譲史を掴もうとするのをするりと避け、感情のない拳が顔面に埋め込まれる。
それはありあまる体力に任せた手負いの獣のような暴れっぷりだったが、そうできたのは背後に聳えるようにしてある広い背中の存在があったからかもしれない。
「走って!」
合図の声を聞くと、譲史は先に走り出したその背中を追って駆ける。
ふたりはのろのろと追ってくる魚人の群れを引き離し、泥の島の丘陵を駆け上がった。魚人の動きが遅いのがさいわいだったが、足元は極めて走りづらい。泥濘だというだけでなく、盛り上がっていると思った場所が、実は窪んでいた、というような、妙に目の錯覚を誘うような、あるいは、刻一刻と立体が組み換えられていくような不可思議な感覚があるのだ。
「うおっ!」
その罠に足をとられ、譲史がバランスを崩した。
シュリュズベリィが手を掴んでくれなかったら泥の丘を滑り落ちていただろう。
「大丈夫ですか、さあ」
たくましい腕によって引き上げられる。譲史が礼を言おうと口を開いた、そのときだった。
「見つけたぞぉーーーっ」
なにものかの声が、虚空に響いた。
譲史は目を見開く。
その瞬間から、彼は次々に信じられないものを続けさまに見ることとなった。
まず、シュリュズベリィの背後に立ち込めた靄のようなもの。
それが収束して人の姿になるや、シュリュズベリィをがっしりと羽交い絞めにしたこと。
その拍子にシュリュズベリィの黒眼鏡が外れてしまったこと。
譲史は、声をあげた。それは何に対しての驚きであったのかもはやわからない。ただ、それが驚愕すべきことであったのは確かだ。つまり、シュリュズベリィの黒眼鏡の下、本来なら双眸があるべき場所に、ただ何もない穴がぽっかりと開いていたということは。