14 猟犬
「『ふだらく楼』……ここへ行ったのか」
パソコンの画面に映る画像は、岬に建つ和モダンな温泉旅館のそれだ。倉田刑事は手帳に旅館の名と連絡先を書く。
洲崎香奈の両親は、彼女の不在の住まいへの立ち入りを許してくれた。捜査一課の刑事が直々に調べてくれるというのだから、両親にとっては願ってもないことだったのだ。ぎりぎり東京都内といったあたりの、学生向けマンションが香奈の下宿だった。
それでもそこは一人娘のことなので、家賃は両親からの仕送りで賄われており、みすぼらしい部屋ではなかった。建物もオートロックだ。
倉田は、比較的よく片付いた、しかし若い女性にしてはあまり飾り気のない部屋をあらためたが、今のところ不審なものは見つけられていない。
収穫は、彼女のパソコンの履歴のなかにあった。旅行予約サイトを通じて彼女がとった予約の確認メールを見つけたのだ。香奈が消息を絶った日、二名で、某県の旅館を予約していた。ともに行方不明の友人・千村真友子にメールを送った形跡もあった。
まずはこの旅館にふたりが泊まったのかどうか調べてみよう。そう心に決めて、倉田は部屋を後にする。
マンションの廊下に出たところで、隣の部屋のドアから、若い女性がこちらをうかがっていることに倉田は気づいた。
「あ――。待って。警察のものです」
慌てて首をひっこめようとするのを呼び止め、警察手帳を提示する。
「警察の人?」
「お隣の洲崎さん、知ってる?」
「彼女、どうかしたんですか?」
「ちょっとね。同じ大学?」
「そうだけど……べつに友達とかじゃないです」
「そう。普段、どんな感じだったかな。最近、変わったこととか」
「よく知らない。誰か遊びにきたりとか、あんまりなかったと思う。……でも夜中に、うるさくて、ちょっと……」
「へえ。音楽かけたりとか?」
両親の話や、写真の感じからは、洲崎香奈は大人しそうな雰囲気だった。迷惑行為をするようなタイプではなさそうだったが、と思いながら、倉田は聞いた。
「そういうのじゃなくて……。ゴミ出しとかのルールはきちんとしてました。ただ……、よく、真夜中に、うなされてて」
「えっ……?」
「最初は遊びに来た友達とケンカしてるのかと思って、一回、注意させてもらったんだけど、彼女すごく申し訳なさそうに、自分はよく悪い夢を見てうなされることがあるから、って。それなら彼女のせいじゃないし、あんまり強くも言えなくて。でもこのマンション、案外、壁が薄いからよく聞こえちゃって」
「ええと……うなされて、寝言を言うってこと?」
「言うっていうか、叫ぶって感じ。『助けて、沈んじゃう。海のなかに連れてかれちゃう。海のかみさまが、わたしたちを呼んでる』とか、そんなようなこと」
「……」
なにか冷たいものを胸の奥に詰め込まれたような心持ちになって、倉田は唇を引き結んだ。隣人は、香奈のうわごとの件がだいぶ気になっていたようで、ひとしきりそのことを倉田に訴えると、それ以上のことは何も知らないと言ってドアを閉じてしまうのだった。
(『助けて、沈んじゃう。海のなかに連れてかれちゃう。海のかみさまが、わたしたちを呼んでる』)
倉田は、例のリストに彼女の名があったことを反芻する。
香奈はわずか2歳のとき、家族とともに乗船したクルーズ船の座礁事故に巻き込まれ、九死に一生を得ているのだ。幼心に負ったトラウマが今も彼女を悪夢で苛んでいるのだろうか。
豪華客船『オーシャン・オニキス号』は、十九年前の夏、某県沖を航行中、座礁して沈没した。
しかし、状況から座礁事故とみられたものの、船の航路上に座礁するような場所はなかったのだ。ただ、その時刻、海底地震が観測されているため、なんらかの急激な地殻変動が起こり、海底の一部が隆起したのではないかという仮説が唱えられた。
(そういえば……『ふだらく楼』は、『オーシャン・オニキス号』の事故現場の近くじゃあないか……?)
ふと、倉田は思った。
当時2歳の香奈に、どれほど事故の記憶があったかは定かではない。トラウマでうなされはするが、具体的な記憶はなかったのかもしれない。そうでなければ、同じ県の海沿いの旅館になどへ旅行に行くだろうか。
そんなことを考えながら、マンションを出た倉田を、少し離れた場所からゆっくりと追う車があった。
しかし倉田が車の通れない建物の間の裏路地に入ってしまうと、車からダークスーツの体格のいい男がふたり降りてきた。レイバンをかけた白人の二人組だ。かれらは徒歩で倉田が消えた路へ踏み入るも、すぐさま足を止めた。
建物の狭間からのぞく曇天の下、配管と室外機に覆われた断崖に挟まれた峡谷のような路地だった。そこには、業務用のダストボックスと、積み上げられたビールケースの山を従えるようにして、仁王立ちの倉田刑事がかれらを待ち受けていたのだ。
「おっと、さすがに銃はなしだ。アーユー・オーケイ?」
男たちが反射的に懐に手を差し入れるのを見て、倉田は両のてのひらをかれらに見せる。
「俺が警視庁を出たところから尾行してたな? これで少しは日本の警察を見直してもらえるといいけど。あんたたちはFBI? それとも米国大使館? まさかCIAってことはないよな?」
男たちは何も答えない。
空気に緊張が満ちる。それはほんの数秒であったのだろうが、倉田刑事にとっては非常に長い数秒だった。余裕ぶったのは完全に虚勢だったし、勇み足が過ぎたかと後悔が首をもたげた。そのときだ。重苦しい空気を破ったのは、倉田でもダークスーツの男たちでもなかった。
「見ぃーーつけたっ」
レイバンを通してさえ、男たちが戸惑うのが感じられた。
声に振り向いた倉田は、裏路地の奥をふさいでいる金網のフェンス越しに、そこに立つひとりの青年をみとめる。
年齢は大学生くらいか。快活そうな顔つきだったが、そこに浮かぶにやにや笑いは、なにかしら邪悪なものを孕んでいる。髪は艶々としたオールバックだ。
「間違いない。この匂いだ。この匂いをたどってアイツを見つけろって俺は言われたんだ。これで褒めてもらえるぞ」
嬉しくてたまらない、というように、青年は笑った。
なにかが異様だった。
青年の言動や態度もおかしいが、スーツの男たちが緊張している様子なのも不可解だった。男たちは明らかに特殊な訓練を受けた工作員か戦闘員といった身のこなしだったし、この青年を恐れる必要などないはずなのだが……。
倉田の疑問に頓着することもなく、青年は引き裂くように自身のシャツの前をはだけた。その下は素肌で、鍛えた筋肉質の身体があらわになった。倉田は、そこに、狼のような獣を描いたタトゥーが刻まれているのを見る。
……いや、なにかがおかしい。
それは、青年の肌の上に描かれているのはタトゥーであるはずだったが、しかし、その獣が牙を剥き、ぎょろりとした眼でこちらを睨んだのは何故だ。
タトゥーが、動いている!
まるで生きているように、肉体に刻み込まれているはずの図案が息づき、くわッとあぎとを開いたのだ。
ダークスーツの男たちが一糸乱れぬ訓練されたものの動きで銃を構えた。
「お、おい……!」
倉田は狼狽えた。ここは日本だ。動くタトゥーは異常だが、武器を持ってもいない民間人を撃たせるわけにはいかない。だが。
「Duck!」
倉田へ向けてそう言ったのがせめてもの情けだ。容赦なく、銃口が火を噴けば、倉田もおのれを守って身を屈めるしかない。銃声が路地裏に響く。
「Noooo!!」
一拍置いて、聞こえたのは二人組の片割れの悲痛な叫び声だ。
倉田が息を呑む。
倒れた男を、相棒が抱き起している。レイバンがどこかへ行って、ブルーグレイの瞳が空を睨んでいた。ぱくぱくと、その口が、なにかを訴えようとして、しかし、声は出なかった。
男の、喉元には……いや、喉だけでなく、肩にも、胸にも、てのひらにも――身体のあちこちに、穴が開いている。それは傷ではない。血は一滴も流れていないのだ。ただ、穴が――マンガのチーズのように、ぽっかりと円筒形に、服ごと男の身体がくりぬかれたようにして穴が穿たれている。
「ジャマすんなよなー」
青年が倉田のすぐ傍に立っている。
銃撃を浴びたのは青年のほうのはずだった。しかし見たところまったくの無傷で彼はそこにいる。さらに不気味なことに倉田は気づく。
青年は、金網のフェンスの向こう側にいたはずなのに、今はフェンスのこちら側にいる。金網に破れた箇所は一切ないのに、だ。
「俺はおまえらには用がない。匂いを追いかけろって言われているんだ。おまえらは匂いがしねーもんな。あの匂いがするのは……こっちのヤツだ」
青年が倉田を見据えた。その半裸のうえで、獣のタトゥーが残忍な愉悦にべろり、と舌なめずりをする。その舌は異様に長く、先端が針のように尖っている。
「匂うぞ。あのポマードの匂いが……」