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13 泥濘

 拘束衣を着せられた江戸川譲史が、担架に載せられ、廊下を運ばれてゆく。

 身体のみならず、顔さえも目隠しのついたマスクに覆われ、呼吸だけが可能な口枷を嵌められている。

 小さな独房のような部屋に運び込まれた。床も壁も、クッション性の素材で覆われた部屋だ。防音性能も高いのだろう。分厚い扉が閉じられると、途端に外の音がすべて遮断された。つまり、扉についた丸い窓ガラスをラヴクラフトが叩く音や、彼が叫んでいる言葉などが。

「およしなさいな。貴方も保護房に入れられたいの、ドクター・シュリュズベリィ?」

 ソニアが呆れたように言った。

 屈強な兵士たちが数人がかりで抑えようとしているが、ラヴクラフトの筋力はそれを凌駕するようで、部下が苦心しているのを彼女は見かねたようだった。

「ぼくはラヴクラフトだ」

「そう。なら次からはそう呼びましょう」

「ソニア、これは間違ってる。こんなことをする必要はない」

「いいえ、必要よ。彼が発症すれば、《深きもの(ディープワン)》に変異する。私はクルーを守る義務があるのだから」

「《深きもの》がどうしたって? あなたたちはそんなもの恐れてはいないはずだ。あなたの部下はものの二時間ほどで、あの《深きもの》のコロニーを制圧した。このあと魚雷を打ち込んであの岬一帯を破壊するのかな。1927年のインスマスでそうしたようにね!」

 譲史が見たら驚いただろう。彼の前でラヴクラフトがこれほど興奮し、取り乱した様子を見せたことはなかったはずだ。

「じゃあ、彼が変異したら撃ち殺してもいいっていうの? そうではないのでしょ。これは彼自身を守るためでもあるのよ」

 その言葉に、ラヴクラフトはようやく落ち着きを取り戻したように見えた。頬はいまだ上気してほんのり桃色に染まり、きっちりと整髪されていた髪は乱れかかってはいたのではあるが。

 ソニアは続けた。

「冷静になって頂戴。どうして彼にこだわるの? 確かに、彼には謎が多いし、キーになる存在かもしれない。でもそれだけに危険性もあって……それはほかの人間と変わらないわ。『ルルイエの異本』の断片フラグメントを埋め込まれてしまったほかの人間とね」

「そう。彼は――いえ、かれらは被害者です。ぼくはかれらを苦しめたくはないだけです」

「なら私たちがやるべきことはなにか、わかっているはずよね」

 ソニアの手が、ラヴクラフトの頬に触れた。

「あなたの頭脳は、知るべきことをすべて知っている。あなたの眼は、見るべきものをすべて見ることができる。あなたの筋肉は、やるべきことをなすことができる。それがあなた。そうでしょう、ラヴクラフト?」

 苦々しげに、ラヴクラフトは奥歯を噛み締めた。


 熱い。

 強い陽射しに肌を灼かれる不快感に、譲史は目覚める。

 ここはどこだ。俺はいったい。

 生臭い、ひどく厭なにおいが鼻を衝いた。

 身を起こせば、自分がどろどろとした泥濘のなかに横たわっていたことを知る。周囲を見回せば、どこまでも、どこまでも、その泥濘の大地が続いているではないか。

 空から突き刺さるような夏の陽が降り注いでいたが、空の色は灰色に近く、今ひとつ時刻が掴めない。

 喉が渇いた。

 そして、身体のあちこちが痛い。

 なぜ自分はこんなところに。思い出そうとしても、頭に靄がかかったようだった。ただ、ずきり、と頭が痛むと同時に、ひどく恐ろしい目に遭った、という感覚だけがどっと押し寄せてきた。

「うっ……」

 いくつかの映像の断片が、脳裏で弾ける。

 傾いた甲板。悲鳴。波間に投げ出されて――。

「そうか……事故……。まさか、船が沈んだのか……?」

 よろよろと立ち上がる。

 さいわい、骨折などはしていないようだった。

「おおーーーい、誰かーーー」

 ありったけの声で叫んだ。

 だが、その呼びかけは、ただ絶望的なまでに高い空へ霧散してゆくだけだ。

「ウソだろ……」

 あれほどの船が、沈没するというのも信じがたいが、その沈みゆく船から海に投げ出され、無事だったとしたならとんでもない幸運だ。だが、流れ着いた場所が、まさか無人島だったとしたなら。

 こんな泥濘のなかでじわじわ死んでゆくのなら、潔く海の藻屑と消えたほうがましだったかもしれない。

「死んでたまるかよ」

 譲史は、歩き始めた。

 あてなどない。方角さえわからないのだ。それでもただじっとしていることはできず、なにかに突き動かされるように歩き出した。歩けるだけの体力があったのは、さすがに十七の若い肉体ゆえだったろう。

 そう――。

 江戸川譲史は、その夏、十七歳から十八歳になろうとしていた。高校はまだ一学年残っていたが、そこをごまかして夏休みの間をクルーズ船のバイト船員としてあの船に乗り込んだのであった。


 じりじりと陽が照り付け、脂っぽい汗が止まらないのに、空は奇妙に薄暗く、翳っている。

 歩けども、歩けども、続くのは泥濘の地平だ。

 踏み出した足はそのたびに軟らかな泥の地面に沈み込み、ぬるぬるとまとわりつく。泥土の表面では、そこらじゅうに蟹や魚が腹を見せて死んでおり、空気にはそれら海底の生物の死骸が腐りはじめた胸の悪くなる臭いが充満していた。

 数時間――あるいは数日前まで、この泥濘は海の下にあったのだろう。ほかのことは何もわからないが、それだけはわかった。そしてそれが、このうえもなく不穏で、不吉な出来事であるということも。

 泥濘の地は見渡す限り続いている。ただ、そのかなたにぽつんと、なにかの影が浮かんでいることに、譲史は気づいた。気づいてからは、それを目指して歩くことにした。

 そして、どれくらい歩き続けたのだろう。

 渇いた遭難者が見るオアシスの幻影かと見えたその影は、ようやく実体をはっきりとさせはじめた。

 表面は深海の汚泥にまみれ、黒々としていたが、直線で構成されたその形を見れば、人工物としか思えない。黒い泥はぬめぬめとした光沢を帯び、泥土の大地より屹立するさまは、どこか淫らでもあった。

 いったいどのような存在であれば、このような巨大なものを、海底に築き上げることができるのか。

 身の内から起こる震えに汗に濡れた背筋が粟立ったとき、譲史は泥の斜面を滑落していた。

 泥濘の地面は起伏が読みづらい。目の前の建造物に気を取られているうちに、その前にすり鉢状の巨大な窪みがあり、知らず、その淵に立っていたことに気づかなかったのだ。

 さいわい、軟らかな泥はさしたる衝撃をもたらさなかった。そのかわり、窪みの底は、いまだ乾き切らぬ海水を多く含んだ軟泥であった。譲史は、アリジゴクに落ちた虫のように、おのれの身体が泥に沈み始めるのを感じる。

「た、助けてくれーっ」

 譲史は叫んだ。だが、誰もいようはずがない。そうしているうちにも、ずぶずぶと、体は泥に呑まれてゆく。

 どろどろ――ぬめぬめと、斜面を溶けた泥が流れ落ちる。得体のしれぬ深海の節足動物が、泥の中から這い出してきたが、そいつもまた流れ落ちる泥濘に沈んでゆき、彼に今まさに訪れようとしている運命を身をもって暗示した。

 厭だ。こんなところで死ぬのは厭だ。

 汚らしい泥のなかで、魚の死骸と一緒に朽ちていきたくなんかない。

 助けてくれ、誰か、助けてくれ……!

 そのときだった。

 譲史は、彼が滑り落ちてきた斜面の淵に、ひとりの人影が立つのを見た。逆光で、顔は見えない。しかし、男だ。きわめて広い肩幅と、逆三角形の逞しい体躯がわかる。まるでコミックのヒーローだ。

「おおーい!」

 声を限りに叫んだ。そして、彼に向って手を伸ばし、そして……目を見開いた。なんだ……なんだこれは。

 差し伸べたおのれの手が、びっしりと青黒い鱗に覆われている!

 こ、この手はなんだ! 俺は――俺はいったい、どうなって――

 得体の知れない恐怖に、譲史は絶叫した。

 その叫びごと、泥濘は譲史を呑み込む。おぞましい闇が、頭上で閉じられ、空気も奪われたかと思いきや、彼は、自分が呼吸できることに気づく。……当然だ。首元で、エラがぱくぱくと嬉しそうに開いたり閉じたりし、感情を捨て去った丸い魚眼は、深海の暗闇さえ見通して、彼はそこにおのれが還りゆくべき、深遠の世界を幻視した。

 イア! イア・ダゴン・フタグン!

 フングルイ・ムグルウナフ・クトゥルフ……

「しっかり! 気を確かに持って! 私を見て。さあ――」

 力強い声と、腕とが、彼を引き戻した。

「だいじょうぶ。あなたは人間です」

「あ――」

 激しく咳き込み、泥を吐く。

「水があります。これで口でゆすいで。さあ」

「あ、ありがとう」

 水筒から飲まされた水は、まさに甘露だ。

 意識までもが、すっきりと澄み渡ってくる。

 譲史は、その男のたくましい腕のなかにいた。白人のようだが、言葉は完璧な日本語だった。どこか古風な、学者風のいでたちに、目元は濃いサングラスで隠されている。

「危ないところでしたね。……私はラバン・シュリュズベリィというものです」

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