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12 赤き馬よ、きたれ

 魚人は声をもたないのだろうか。かれらはまったくの無言であり、それがまた不気味であった。だから、地下の空間に聞こえるのは、水音と、譲史が発する怒号だけだ。

「野郎!」

 警察柔道で鍛えた投げ技が決まって、魚人の一体を譲史は背負い投げたが、連中ときたら悲鳴ひとつあげはしないし、仲間がやられたからといって怒る素振りもない。ただ命じられた――のだろうか?――ままに、譲史に迫ってくるだけだ。それも、いやに緩慢な動作でだ。しかし、こいつらは決して諦めないだろうという気がする。どこまでも、どこまでも追ってきそうだった。

 とても全員を相手どれる数ではない。何体かを投げたり蹴ったり殴ったりして道を開けると、譲史は走った。かわいそうだが、千村真友子は彼女自身の運にすがってもらうしかない。うまくいけば、後で助けられるだろう。

 譲史はもと来た道を一目散に駆ける。

 今度は登り坂なので苦しいが、いつぞやの工事現場の追跡劇に比べれば、呼吸が楽であるように感じた。やはり、肺がんが治癒したからだろうか?

 なんとか切り抜けねば。

 しかし、その思いは無残に打ち砕かれる。前方から、旅館の法被を来た男たちの一団がやってきたのだ。

 全員が魚顔の男たちだ。

 絶体絶命!

 だが、譲史が躊躇したのはほんの一瞬のこと。獅子のような雄たけびとともに、彼は魚顔の男たちに向かってゆく。あまりの気迫に怯んだ男の顔面へ右ストレートをぶちこみ、ノックアウトする。

 得体の知れない魚人と、まだしも人間である連中となら、後者のほうがましだと判断したのだ。数のうえでも旅館の男たちのほうが少ないし、ここを突破すれば地上へ出られる。また、戦ううえでもこの狭い通路のほうが有利だろう。

 咆哮とともに、次の相手の法被の襟を掴み、頭突きを喰らわす。鼻血を噴く男の腹に膝蹴りをぶちこみ、身を折った男の後頭部を殴りつけて、蹴り倒した。

 鬼神のような猛攻に、男たちは完全に腰が引けている。好機だ。このまま圧し抜けてしまえば……と思ったそのとき、ぐい、と襟を掴まれて引き戻される。

 魚人たちが追いついてきたのだ。

 首根っこを掴まれてバランスを崩した譲史へ、魚人たちの水掻きのある手が次々と伸びてくる。

「俺に触るな!」

 空気を震わすほどの大音声で恫喝したが、やつらには通じないようだった。

 冷たい海水に濡れたぬるぬるする手が、譲史の身体のあちこちを掴んでひっぱってゆく。

 旅館の男たちは形勢有利と見て盛り返し、譲史の脚を掴んで担ぎ上げた。神輿のように持ち上げられた格好になった譲史は死に物狂いで暴れ、じたばたさせた足で、幾人かの男の脳天にかかと落としを喰らわせたものの、多勢に無勢で、そのまま地下空間へと運ばれていってしまう。

「放せ! この野郎! おまえら全員、逮捕してやる! 俺は警察だぞ!」

 わめきながら、この期に及んで頼れるものが、自分は警察官だという権威しかないということに、譲史は失望する。

(ここで死ぬのか。この魚の化け物どもの手にかかって)

 死ぬのが怖い、というよりも、悔しさが大きかった。

 もっと強くありたかった。こんなやつらに負けないくらいに。

 まだ走馬灯とやらは訪れない。代わりに、思い出されるのは、いつかの大きな背中だ。

(ラヴクラフトなら勝てたか? ……勝てたかもしれない)

 ふっ――、と、場違いな笑みに頬が緩んだような錯覚があった。実際にはその間も、口は罵詈雑言を発し続けていたのだが。

(俺はあいつより筋肉が足りなかったか? もっと鍛えておくべきだったな)

 冗談のようなことを考えた。死をまえに、頭がおかしくなっているのかもしれない、と譲史は思った。

 そのときだ。

 轟音と衝撃――そして、光。

 冷たく硬い岩場のうえに、投げ出され、痛みに呻いた。

 突然の光が目を刺して、よくものが見えない。

 ただ、バラバラバラ……という音が――ヘリだ、これはヘリのプロペラ音だ。

 いくつもの水音。光のなかに無数の影が降ってくる。周囲が煙だらけなのは、粉塵のせいだった。地下空間の壁が粉砕され、そこから陽光が差し込んできている。そして大勢の人間も、また。

 驟雨のような足音が押し寄せてきて、譲史の横を通り過ぎてゆく。

 そして、激しい銃声があちこちで弾けるのが聞こえた。

(なんだ……!?)

 状況が呑み込めないでいるところへ、

「Freeze!」

 と声がかかった。

 兵士だ。迷彩服の兵士が譲史に自動小銃の銃口を突きつけている。

 反射的に、地面に膝立ちのまま手をあげる。

 別の兵士が譲史の肩を地面に押し付けながら、腕を後ろ手に回し、拘束する。荒っぽい仕打ちに悲鳴が漏れる。

「譲史さん! ……彼は被害者だ、乱暴な真似は許しませんよ!」

 その声が聞こえたとき、譲史は自分でも予想しなかった感情があふれ出るのを感じた。別れてから一時間経ったかどうかというくらいなのに、ひどく懐かしく聞こえる声。

 兵士が押さえつける力に抗い、必死に顔を上げる。近づいてくる大きな影。逆光で顔がよく見えない。でも、その表情がなぜかわかるような気がした。病院の屋上で見せたような、旅館の部屋で見せたような、体格に似合わぬ、あの恥ずかしそうな、困ったような顔だろう。

「譲史さん、大丈夫ですか」

「これを見て大丈夫なわけがあるか。遅ぇんだよ、来るのが」

 せいいっぱい強がって、笑ってみせる。そうしなければいけないような気がしたからだ。


 ヘリに乗せられても、手錠が解かれることはなかった。

 譲史は汗と砂埃にまみれ、あちこちにできた擦り傷の血こそ乾いていたが、打撲の痕は色が変わり、服も髪もくしゃくしゃなままだ。

 機中にはラヴクラフトも一緒だが、こわもての兵士たちは、彼に対しても、一定の敬意は払いつつ、その指示に従うことはないようだった。ということは、この軍人たちはラヴクラフトの組織とは関係ないか、少なくとも彼の指揮下にはないということだ。

「さすがにこれは外交問題になるんじゃあねぇか」

 譲史は言ったが、誰も何も答えなかった。

「もしもし、日本語わからない? キャンユースピークジャパニーズ?」

「Shut up」

 兵士のひとりがぴしゃりと言った。

「すみません、譲史さん。行き違いがあるようです。かれらはぼくたちの敵ではない。必ずわからせますから、少しだけ辛抱してください」

「少しだけってどれくらい?」

「ぼくたちはこれから、かれらの指揮官と会います」

「こいつら米軍か? 俺は米軍基地に連行されるってのか?」

「基地ではありません。窓の外を見て、譲史さん」

 言われるままにのぞいたヘリの窓から見えたものに、譲史は驚きの声をあげた。

「な、なんだ――あれは……!」

 それは灰色の海に浮かぶ巨大な鉄の塊だ。

「アメリカ海軍特務艦隊所属――バージニア級原子力潜水艦、《ノーデンス》。今回の任務のために、大統領が派遣した米国が公表していない戦力です」

「おいおいおいおい、日本の領海内だろうがよ、原潜っておま……。戦争でも始めようっていうのか」

「譲史さん。ぼくたちの相手には、これでも十分な戦力とは言えないのですよ」

 譲史は目を閉じた。

 この壮大なドッキリが早く終わってくれることを心から祈りながら。


「そこまで説明してくれたなら話は早いわ。ようこそ、ミスター・エドガワ。私が《ノーデンス》の艦長、ソニア・グリーン特務大佐です」

 女性軍人は、ティーカップとソーサーを手に、譲史とラヴクラフトに面会した。

 そこは彼女の執務室らしい。大きな海図を背に、ソニアと名乗った女は優雅にティーカップに口をつけた。

「そして、彼が副艦長の、ダレン中佐」

 長身の男性軍人が、ソニアの後ろにうっそりと控えていた。ソニアは、彼を紹介すると、手にしたカップの中身を、その顔めがけてぶちまけた。

 相当、熱かったはずだが、中佐は微動だにしない。

「紅茶を煮出す温度は摂氏95度きっかりとすること。それから茶葉はインド産に限って頂戴」

 カップとソーサーを押し付けると、男性軍人はそれを手に下がった。

 さて、とソニアは譲史たちに向き直り、にっこりと微笑んで話を続ける。

「ミスター。あなたのご両親はご健在かしら?」

「は? 何の話だ?」

「ソニア。()()()は今はやめてください」

「なぜ? 私たちは、まさに、()()()()()()()()()()彼を呼んだのよ?」

「おい、どういう意味だ」

「ミスター・エドガワ。あなたは」

「ソニア、やめてください」

 ラヴクラフトが遮ろうとするのを構わず、ソニアは言った。

「あなたは『ルルイエ異本』の情報汚染を受けている可能性が高い。《禁書》の情報汚染が、特定のトリガーで発症することはご存じよね? 『ルルイエ異本』の発症トリガーは『自身のルーツに思いを馳せる』こと」

「待てよ。俺は《禁書》なんてもの、読んだことなんかないぞ」

「《禁書》は本の形をしているとは限らないのよ」

「なんだと?」

「ソニア。もうやめて」

「お黙りなさい、ラヴクラフト。彼のカルテを見たでしょ? 彼がなんらかの《禁書》の影響を受けていることは確実よ。でなければひと晩でガンが治ったりする?」

「なに……」

 ぎくり、とした。

「思い出せるかしら、ミスター・エドガワ。あなたは、このラヴクラフトとも、そのとき、会っているはずよ。海底から隆起したあの忌まわしい地でね。そのときの彼は、ドクター・シュリュズベリィと名乗っていたのだけれど――」

 誰かが、叫んでいた。

 その声が、自分の声だと気づくまでどれくらいの時間を要しただろう。

 ラヴクラフトが、譲史を助け起こし、なにか叫んでいるのを、彼は他人事のように眺めていた。意識が肉体から遊離してしまったようだ。

 助けてくれーっ、と叫ぶ声。

 全身が、どろどろとした泥濘に沈んでゆく記憶。

 そうだ、あのときの記憶だ。

 滑り落ちてきた斜面の淵に、ひとりの人影が立つのを見た。逆光で、顔は見えない。しかし、男だ。きわめて広い肩幅と、逆三角形の逞しい体躯が見て取れる。まるでコミックのヒーローだ。

 なんだ、そうか。あれは、ラヴクラフトだったのか。

 俺はあのときも、この男に助けられていた。

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