11 深淵に棲まうもの
「《人豚》……っていうのよ。知ってた?」
声に振り返ると、そこにひとりの女がいた。
ひっ――、と、真友子が息を呑むのが聞こえた。歳は真友子と同じくらいだ。着ているのは旅館の浴衣のようである。
「中国の皇后が、憎い側室の女のひとの手足を切り落として、目も耳もつぶしてしまって、便所に住まわせたそうよ。それが《人豚》。……真友子は、まだ目も耳もあるから、ずっとましよね」
うたうように言った女の表情は、夢みるような恍惚を浮かべている。
「きみが……香奈ちゃんか。彼女をこんな目に遭わせたのはきみか? 彼女とはどういう関係だ?」
譲史が問う。
「さあ……どういう関係だろう。大学の友達――そう思ってたけど、まえは」
とろんとした目で、香奈が譲史を見る。
「でも真友子はそう思ってなかったんじゃない? わたしはただの引き立て役……」
「違うよぉ……。違うの、香奈、あたし、そんなこと」
真友子の涙声が訴える。
「真友子がどう思おうと、実際、そうだったんだから。わたしがどう感じてたかなんて、真友子にはわからないことだったんだから。でも……本当は……たしかに違ってたんだけどね」
くくく、と香奈は笑った。
「そうよ……本当は違ったの。だから……だから、こうしてやったのよ。今の真友子は、ただの《人豚》。もう人間じゃない。だって、わたしは……わたしは選ばれたんだもの……!」
狂ったような哄笑が、香奈から迸った。
「そうよ、わたしは選ばれた! いいえ、ずっと前からだったの。最初から、選ばれていたのはわたしだったの。ずっとずっと小さいころに、わたしは分け与えられていたんだもの。だからここへ呼ばれてきた。ここで、わたしは本当のわたしになったの。ここがわたしの王国。わたしはこの国の女王。だから真友子なんて《人豚》にしてやったの。わたしはここでたくさん子どもを産んで……いつか、海の底へ還っていく……。すてきでしょう? なんて、すばらしい……。いあ! いあ! いあ・だごん・ふたぐん……!」
譲史は、その隙を見逃さなかった。
香奈にとびかかると、取り押さえたのだ。
「俺は警視庁の江戸川だ。おまえを逮捕する。千村真友子への傷害容疑だッ!」
香奈はやすやすと組み敷かれたが、悲鳴ひとつあげることはなかった。
そして、余裕さえ浮かべた表情で譲史を見上げる。虚を突かれたのは譲史のほうだ。
「いいわよ」
香奈は囁いた。その瞳が艶やかに潤んでいる。乱れた浴衣の裾から、袷から、ぞっとするほど白い肌があらわになる。それは異様ななまめかしさを感じさせると同時に、なにか本能的な嫌悪感を呼び起こすものだった。
「あなたも呼ばれてきたのね。そう……あなたも、わたしと同じ……分け与えられていた……」
小さく尖った舌が、唇を湿らせる。
譲史は、おのれのなかに、あまりにも場違いに突き上げてくる劣情を感じた。それに戸惑う間もなく、あっさりと態勢は逆転され、次の瞬間、地面に押し倒されているのは譲史のほうであった。
香奈の爪が、ワイシャツの生地ごしに譲史の筋肉のラインをたどり、シャツの前ボタンに指をかける。
譲史は、自分のなかに相反するふたつの感覚のせめぎ合いを感じた。ひとつは、急速に脳を痺れさせてゆく激しい興奮。もうひとつは、だめだ、それに身を任せるな、という本能的な警告だ。香奈の手がシャツの下に滑り込み、素肌に直接触れたとき、鳴り響く警報が勝った。
譲史は、生白く、ぬめぬめとした、得体の知れない軟体生物におのれが啖われようとしていることを知った。異様な生臭ささに嗅覚が腐り落ちそうだ。爆発的な恐怖と厭わしさに、譲史は香奈を突き飛ばすと、その場を逃れようとまろぶ。
「待って! 行かないで!」
千村真友子の悲鳴が、かろうじて、譲史を引き留めた。
動物的な恐怖と、刑事としての使命感に引き裂かれる痛みを感じながら、振り返った譲史の視界に、のろのろと起き上がる香奈の姿が飛び込んできた。
その眼は丸く見開かれ、しかし、なんら人間的な感情を宿してはいなかった。どろりと濁ったそれはまさしく魚類のものだ。くわッ――、と開かれた口には、尖った細かい歯列が並ぶ。その口から、ケェーーーッと怪鳥のような声が迸った。
それが合図か、あるいは指揮であったのだろうか。
水音が、地下の空間に反響してゆく。
海水のプールが白く泡立ち、黒い水面を割っていくつもの影が浮かび上がってきた。
それらは人のかたちをしているが、決して人ではありえなかった。
濡れた肌はびっしりと鱗に覆われ、丸い魚眼には何の感情も読み取ることはできず、しかし、明らかな敵意を持ってこちらへ押し寄せんとしていることがなぜか理解できた。ぱくぱくと牙だらけの口が開閉し、首元には鰓のような器官がある。海底よりあらわれた、それは魚人の一群だった――!
その少し前――。
海に面した庭を行くラヴクラフトは、岬の断崖に沿って降りてゆく階段があるのを見つけていた。
階段は、断崖の途中にある踊り場のような展望場へと下っているようだ。そこからさらに階段を経て、岬の麓に降りてゆけるらしい。
「お客様」
展望場まで降りたところで、声をかけられる。
岩陰にたたずんでいたのは、紺色の和服に身を包んだ女である。
「本日はようこそ『ふだらく楼』へ。女将でございます」
「こんにちは。すてきな旅館ですね」
愛想よく、ラヴクラフトは応える。
「日本語がお上手ですこと」
「ありがとう。……ところで、ここへ誰か来ませんでしたか?」
ラヴクラフトはあたりを見回す。展望場にあるのは簡単なベンチだけで、柵から向こうを覗き込んでみても、見える範囲に人影はない。
「いいえ。本日のお泊りは、お客様方だけですので」
「そうですか」
海のほうを眺めるラヴクラフトの背中へ、女将はそっと忍び寄る。
彼女が動くより、しかし、ラヴクラフトのほうが速かった。腕を捻りあげられ女将が悲鳴をあげる。その手から、ねじ曲がった奇妙な形のナイフが落ちる。
「ただのナイフならよかった。なまじ魔力を与えられている品物だったから、ぼくの眼はごまかせないんですよ。ぼくのこの眼は、ね」
空いているほうの手で、とんとん、と眼帯をつつく。
「は、はなして」
「そういうわけにはいかないのです。率直に質問しますが『ルルイエ異本』を所持していますか?」
「あれはもう……誰の手にも触れられない」
「ということは、やはり……、あっ」
女将の、掴まれていないほうの手が、ラヴクラフの顔をはたいた。その拍子に、偶然か、それともそれが狙いだったのか、彼女の爪はラヴクラフトの眼帯をむしり取っていた。
女将の目が見開かれる。
「そんな……、まさか……!」
「しまっ――」
ラヴクラフトは奪われた眼帯をひったくり返したが、遅かった。
あらわになった彼の眼窩から発せられたのは、いつかの夜と同じく、ありえざる黒い光だった。闇が質量を持ったかのごとき暗黒の光線を、正対していた女将は真正面から浴びることとなった。
「ソレハ、カガヤ――」
言いも果てず彼女の言葉もまた黒に呑み込まれた。
ラヴクラフトが眼帯で目を覆うことができたのは、その一瞬後のことであり、そのときはすでに、女将の全身は黒い炎に包まれ、火柱と化していたのだ。
「バ、バカナァァア!」
闇そのものにその身を灼かれ、死の舞踏に身をよじりながら、女は叫んだ。
「ナゼ……ナゼ……ソレハ、人類ノ手ニアッテハナラヌ……オマエハイッタイ……」
言えたのは、それだけだった。
女将であったものは、ぼろぼろと、真っ黒な消し炭となって崩れ去ってゆく。黒い炎も彼女を焼き尽くしたことで消えたが、あとにはなんともいえない嫌な臭いが残る。
ラヴクラフトは苦々しい表情で、消し炭を見下ろした。
「……早すぎます」
そして、そう言ったが、その言葉は、背後に立つ別の人物へと向けたものだった。
「先ほどあなたの姿を見たときは、見間違いであってほしいと願いましたが、そうではなかったようですね。なぜですか? ぼくの知らせを待つという予定だったはずです」
「そうも言っていられなくなったのよ」
そこにいたのは、ひとりの女だった。
複雑に編み込んでまとめたブロンドが華やかで、セレブリティめいた豪奢さを感じさせる美女といえたが、彼女の魅力的な肢体を包んでいるのは、肩章のついた士官制服であった。
「東京に『仮面の男』が潜伏しているという情報がもたらされたわ」
「それは想定内です」
「だったらあなたは東京に戻るべきね。ここは私たちに任せて」
「しかし、ソニア」
「議論をするつもりはないの。それによくって? ぐずぐずしていると彼が危険よ。そう、あなたの夫がね」




