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10 深淵の水際

 譲史は唇を引き結び、しばらくそこに突っ立っていたが、やがて、大股に廊下を歩み始めた。ほどなく、ロビーが見えてきたが、そこにワイシャツの上に法被を羽織った従業員たちが二、三人、たむろしているのが目に入り、譲史は慎重に歩みの速度を落とす。

 かれらがひそひそと何を話しているのかは聞き取れないが、意味ありげな視線をこちらに寄越したのは見てとれた。

 刑事のカンとでもいうべきか、嫌な予感がする。

「……」

 ロビーの手前にある、申し訳程度の土産物を並べただけの売店へ、さも最初からそれが目的だったといわんばかりに、譲史は足を踏み入れた。

 どうでもいい饅頭か何かの箱を手に取りながら、さりげなくロビーを見れば、従業員たちが慌てて目をそらしたようだ。

 その顔つきが、奇妙に似通っていることに、譲史は気づいた。

 目の間が離れ、鼻は低く、口は大きいが唇は薄い。エラが張った顎に、秀でた額、といった様相は、なにか魚を思わせたが、その特徴が、先ほど出迎えてくれた番頭を含めた従業員全員に共通しているのは、不気味なことだった。土地の顔、ということなのだろうか。田舎だから、血が濃いのかもしれない。

 譲史は売店を出て、もときた廊下を戻り始めた。

(ぼくが遅ければ先に街へ)

 ラヴクラフトがそう云っていたが――

(バカを言え。みそ扱いしやがって)

 うんざりだ、と譲史は思った。

 ラヴクラフトはとにかく秘密主義が過ぎる。最初からそうだった。

 米国政府の機密にかかわる任務で動いているのだとしても、その任務に譲史たち日本の警察も協力させられているのだ。それなのに、ラヴクラフトはいつも核心となることは何もこちらに知らせようとせず、協力しろと云うわりには肝心なところから譲史たちを遠ざけようとしているように感じられる。

(実のところを言うと、こういうことにあまり慣れていなくて。こういうことというのは、つまり……誰かと仲良くしたいという、そういう意味なのですが)

 はにかんだような、表情を思い出す。

(少し、はしゃぎすぎています。なにもかも、ぼくには初めてのことで。本では知っているのですが)

 ラヴクラフトという男の、素顔を、ほんの少し垣間見ることができた、と思ったのだ。

 それだけのことで、距離が縮まったように、譲史には思えていたのだが。

 しかしそれは譲史がそう思い込んだだけで、向こうにしてみれば、こちらはただの、任務の間のいち協力者にすぎなかったのだろう。

 道に迷ったような素振りで、来たときとは異なる角を曲がる。従業員が譲史の後を追ってきているのには気づいていた。

(俺だって刑事だ)

 叩き上げの誇りもある。それなりの修羅場だって、何度もくぐってきたのだ。

 ラヴクラフトは、その特殊な任務を遂げられるのは自分だけで、譲史たちはあくまで助手と思っているようだが、日本の警察が優秀だということを思い知らせてやりたかった。

 それに、そうしたことを抜きにしても、この旅館は、どこかしら怪しい。

 従業員の態度も変だし、そもそも部屋に隠しカメラがあるのが異常だ。なんらかの犯罪が関係している可能性が――隠しカメラがすでに違法であるわけだが――あるぞと譲史は思った。

 廊下を曲がった瞬間、歩調を速め、手近な襖を開けて中に滑り込んだ。

 しばし、そこで息を殺していると、譲史を見失ったのに焦った足音がぱたぱたと廊下を駆けてゆき、遠ざかっていった。

 そこは、薄暗い部屋だった。

 客室ではないようだ。

 奥の襖をそっと開けると、続きの間も似たような和室である。簡素な、最低限の家具があるところを見れば、従業員の控室か女将の私室といったところだろうか。

 ふと、鴨居のうえに、遺影がずらりと並んでいることに気づき、譲史はぎくりとした。

 白黒の写真のなかから、幾人もの男女の目が譲史を――忍び込んだ探偵を曲者とばかりにねめつけていたのだ。

 代々の女将や支配人たちなのだろうか。

 男は、みな、あの魚を思わせる風貌であるところを見れば、土地のものには違いなく、おそらくは血縁なのだろう。代々、ひとつの一族が経営してきた旅館なのかもしれない。

 一方、女は、魚じみた特徴はなく、誰も美しかった。

 さらに次の間へ。

 そこは板張りの部屋で、物置のように家具が詰め込まれている。

 だが床に埃の積もっていないのを見て、使われている部屋だと譲史は看破する。

 果たして、部屋の奥には、下り階段があった。ここは一階であるから、地下へ続く階段ということだ。

 のぞきこむと、磯の匂いがする湿った風が吹いてきている。

 譲史は、意を決して、階段を下っていった。板張りの階段を降り切ると、なんとそこから足元は剥き出しの岩場になっていた。譲史はこの旅館が岬のうえに建っていたことを思い出す。ならばここは岬の中の、いわば地下洞窟とでもいうべき場所なのだろう。

(こいつはいよいよ怪奇小説じみてきたな)

 建物の地下に穴を掘ったのか、もともとあった洞窟へ降りる道をつくったのかはわからない。しかし、点々とランプが吊るしてあり、火が灯っている以上、なんらかの目的に使用されているのだ。

 そのなかを譲史は進む。道は下っているようだ。潮の匂いがどんどんきつくなり、波の音さえ聞こえる。

 やがて開けた場所に出る。

 そこは天上の高い大きな空間だった。

 天井に近い岩肌の一角が口を開けていて日の光が差し込み、暗い水たまりに反射している。その光がゆらゆら揺れているのは、水が波立っているからだ。水は海に続いているのだろう。

 空間はおおまかには円形で、半分以上は海水と思しきプールで占められており、弧を描く水辺を囲むように岩壁が取り囲んでいる。岩壁には無数の穴が口を開けており、そのひとつが譲史がやってきた通路であった。

 譲史は岩壁に沿って探検の歩みを続ける。

 いちばん近い窪みには、無造作にさまざまなものが棄てられているようだ。

 それがスーツケースや衣服といった、人の身の回りの品であることが、なにか不吉なものを感じさせ、譲史は眉根を寄せる。

 いちばん上の、まだ新しい旅行鞄を手にとってみる。

 なかに財布を見つけると、刑事の本能のように中をあらためた。


  千村真友子


 若い女性の運転免許証だった。譲史はスマホで免許証を撮影した。そのまま東京に送って照会をかけたいところだったが、電波が届いていないらしい。

 壁に沿って進んだ譲史は、息を呑む。

 そこにあったのは、岩の窪みに木材が縦横に差し渡された……明らかに「牢」と呼べるものだったからだ。

 嫌なものがこみ上げてきた。

 まさか、そうあってほしくない、と思いながら、牢のなかの暗がりをのぞきこむ。なかは板張りになっているようだ。つまり座敷牢である。そこには薄汚い布団が敷かれており、薄いぼろぼろの掛け布団から、ひとりの女性が顔をのぞかせていた。

 光のない目が、譲史を見る。

「……」

「おい。きみは……千村真友子だな」

「……だれ……」

「俺は江戸川。警視庁捜査一課の――警察だよ」

「けい――さつ」

 無表情だった娘のやつれた顔に、あふれるように感情が戻ってきた。それは、喜びと、安堵と、恐怖とがないまぜになった情緒の濁流だった。

「あ、あたし……、た、たすけ……っ」

「しっ、静かに! 助けてやるから、な!」

 そのまま彼女が叫びだしそうだったので、譲史は慌てて制した。その岩牢の、戸口のすぐ傍には岩肌に金具が打たれており、そこには実に無造作に鍵が吊るされていたのだ。それは、この場所が、部外者に警戒する必要もないほど、この牢を設えたものたちの管理下にあることを意味していた。

 鍵を開けて、牢のなかに踏み入りながら、どうやってここを逃げ出せばいいか、譲史は思考を巡らせていた。元来た道をたどれば旅館に戻ることになる。この女性を監禁したのが旅館の連中なら……。

「いつからここに?」

「わから……ない……」

「一人なのか?」

「香奈と来たの」

「その子も捕まっているのか?」

「ち、ちがっ……」

 千村真友子の顔が、恐怖に引きつるのを、譲史は見た。

「お願い、助けて。ここから出たい。あいつらが来る」

「わかったら落ち着いて、さあ、起き上がれ――」

 ぐうっ――、と、譲史は呻いた。

 不潔な掛け布団を剥いだ譲史が見たのは、千村真友子の四肢が、血の染みた包帯を固く巻き付けられた二の腕と太股の半ばで終わっており、その先が失われている無残な姿だったのだ。

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