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9 旅人

「ようこそ、ふだらく楼へ――」

 出迎えにあらわれた揉み手の番頭は、タクシーを降りてきた客の姿にたじろいだように見えた。それも無理からぬことである。客は身長2メートルはあろうかという巨漢の外国人だったのだ。しかも、片目を眼帯で覆っている。

 連れはごく平均的な体格の日本人男性だったが、やけに目つきが鋭い。

 外国人のほうは明るいベージュのサファリジャケットに中折れ帽を合わせた、古い映画に出てくるような旅装だったが、日本人のほうはありあわせのシャツとジャケットといった装いである。

「江戸川様――でございますね、二名様でご予約承ってございます」

 番頭がフロントで差し出した宿帳に、外国人はさらさらと英語で署名をした。

「素敵なホテルだ。素晴らしい宿をリザーヴしてくれたね、ハニー」

 そして、そう言いながら、傍らの日本人の肩を抱く。

 番頭の魚眼めいた目がぐるぐるするのへ、隻眼の巨漢はウィンクして、言うのだった。

「新婚旅行で来たんです」


 それはその日の午前中のこと――。

 乗客もまばらなローカル線のボックス席に向かい合って掛け、譲史とラヴクラフトは列車に揺られていた。

「島本家からぼくの探している《禁書》は見つかりませんでした。島本宏志がいつどこで《禁書》と接触したのかを調べる必要があります」

「そいつを見つけ出して回収するのがおまえの任務なんだな」

「優先的には。やむをえなければ破壊します。できれば、の話ですが」

「できれば、ってどういうことだ? 本なんだろ?」

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 ラヴクラフトの言葉は相変わらず謎めいていたが、彼が駅弁を開けて食べ始めたので、その真意を質す機会を譲史は逸した。

「で? 何かあてはあるのか」

「子どもが変異していた以上、妊娠前に情報汚染があったことは間違いありません」

「島本が《禁書》の影響を受けた後に……女房が妊娠したから、子どもにも影響があったということか!」

「そのとおりです。情報汚染が遺伝的に伝播するとは限らないのですが、不幸にも『ルルイエ異本』はその傾向が強いのです」

「接触が女房の妊娠前ということは、最低でも10ヵ月以上前ということだな」

「ある程度、目星はついています」

「今、俺たちが向かっている場所?」

「ご明察。『ふだらく楼』という温泉旅館なのですが……昨年、建て替え工事が行われていまして。その工事を担当したのが島本宏志です。ひと月ほど現地に泊まり込んで現場を指揮したそうです。勝手ながら譲史さんのお名前で宿に予約を入れさせてもらっています」

 譲史はため息をついた。

 今さらこの程度のことで驚いたり腹を立てたりしていては、この男の捜査の協力などできないのだろう。

「潜入捜査、ってわけだな」

「ええ。ぼくたちは旅行者のふりをして旅館を調べなくてはなりません」

「ふり、ったってなぁ。この歳の男がふたりで温泉旅行に行くかね。潜入捜査のわりにはちょっと目立ちすぎるんじゃあないのか。田舎なんだろ。外国人も目立つだろうしな」

「なるほど。おっしゃるとおりですね」

 譲史は皮肉を言ったにすぎないつもりだったが、ラヴクラフトは箸を止めて、考え込んだふうだった。譲史はかまわず、駅で買ったコーヒーを飲み始めたのだが――

「ではこうしましょう。ぼくと譲史さんはアメリカで結婚した」

 ラヴクラフトのその言葉にコーヒーをすべて噴き出す。

「ぼくは夫――譲史さんのことですよ?――の故国へ新婚旅行に行くことを提案した。これなら自然ですよね」

 ラヴクラフトは天使のように笑った。


 そのような提案は全力で却下すべきだったのだ。譲史は「ふだらく楼」の廊下を案内されながら、心底、後悔していた。先ほどから番頭がちらちらとこちらを見てくるのも嫌だったし、ラヴクラフトが腰に手を回してくるのも不快だった。

 なぜ同意してしまったのだろう。ラヴクラフトのアイデアは設定としては自然かもしれないが、目立たないという意味では本末転倒なのだ。そもそも、身長2メートルの隻眼の大男であるラヴクラフトが、目立たないなどということは、どうやっても不可能なのである。

「どうぞ、ごゆっくり」

 番頭がそう言い残して(声音に含みがあるように感じたのは気のせいだろうと思いたい)出ていくなり、譲史はラヴクラフトに食ってかかろうとしたが、彼は予期していたようにするりと譲史の脇をすり抜けて、畳に腰を下ろした。

「疲れたでしょう、譲史さん。お茶を淹れましょう」

「できるのか? 執事も連れてきたらよかったんじゃねぇのか」

 スーツケースを投げ出し、譲史はベッドに寝転がった。部屋は和洋室だったのはさいわいだった。ベッドもむろんツインである。畳に布団を敷かれて――気を利かせて枕を並べられでもしたら憤死ものだ。

「アヴドゥルには東京でやってもらうことがあるのです。別の仕事を頼んであります」

 ラヴクラフトは言った。譲史が執事のことを言ったので、そう答えたのだ。どうも譲史の皮肉はうまく伝わらないようだ。

「……っ!」

 ラヴクラフトが聞いたこともない声を出したので譲史は身を起こす。

「すいません、お湯をこぼしただけです」

「なんだよ、やっぱりできないんじゃあないか」

 譲史は見かねて、ラヴクラフトから急須と茶筒を奪う。

「本で読んだことはあったので、できると思ったのですが」

「本だけじゃな」

「……少し、はしゃぎすぎています」

「あ?」

 譲史は、ラヴクラフトがうつむくのを見た。恥じているようだった。

「なにもかも、ぼくには初めてのことで。本では知っているのですが」

「……」

 譲史はなにか言いかけて、しかし口をつぐんだ。

 急須に湯を注ぎながら、視線だけを周囲に巡らせる。

「ハワード」

「えっ」

 ラヴクラフトがはっとして顔を上げた。譲史が彼をファーストネームで呼んだのは、それが初めてのことだった。

 あっと思う間もなく、譲史の腕がラヴクラフトを抱き寄せている。といっても、体格差のためにどちらかといえば譲史がすがりついたような格好だ。譲史はラヴクラフトに頬を寄せ――彼のアフターシェーブローションの匂いが確認できる距離で、低く囁いた。

「この部屋、見張られているぞ」

 ラヴクラフトの太い腕が、譲史を抱き返す。

「隠しカメラですか?」

「床の間の花瓶だ」

 畳敷きのスペースに接した壁の一面が床の間となっており、それらしい掛け軸が飾られていた。そのまえに置かれた花瓶の、活けられた花のなかに、ごく小さなカメラが仕込まれているのを、譲史は見てとったのだった。

「盗聴もされているかもしれませんね」

「この部屋を出よう」

「マイハニー」

 ラヴクラフトは周囲に聞こえるような声で言った。

「お楽しみはとっておいて、散歩にでも出かけない?」

「そうだな。いいアイデアだ」

 そそくさと部屋を抜け出す。

 しかしカメラの眼が部屋だけとは限らず、どこから見られているかわからないのだ。急によそよそしくするのもおかしいし、かといって、べたべたするのもどうか、というところで、付かず離れずの距離を保つ。

「街まで行くか?」

 譲史は言った。

「そうしたいけど、アシがいるでしょう? ……車で来ればよかったな」

 ラヴクラフトは答えた。本音のようだ。

「宿の車でもいいんじゃないか。俺たちふたりなら」

 運転手とこちらで、一対二なら、何かあってもなんとかなる。

 不自然なことを口走っていないか、緊張感のある会話をしながら、廊下を行く。片側は庭に面し、掃き出し窓になっている。低い生垣の向こうには海が見渡せた。

 ふいに、ラヴクラフトが足を止めた。

「……どうした」

 譲史が振り返ると、ラヴクラフトは窓の外を見つめながら、低く何事かをつぶやいた。譲史が訊き返す間もなく彼は、

「譲史さん。先にロビーへ行っていてください」

「あぁ? けど――」

「ちょっと気になることがあるので、確かめてきます。譲史さんは……ぼくが遅ければ先に街へ」

「なんだって?」

 有無を言わさず、ラヴクラフトは、庭への掃き出し窓を開けると、そこから出て行ってしまった。

「あっ、おい」

 背中にかけられる言葉もなく、譲史の耳には、先ほどのラヴクラフトが呟きが甦ってくる。彼は確かにこう云ったのだ。「早すぎる」と――。

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