8 いざない
山道はうねりながら登っており、道路の両側は鬱蒼とした木立に閉ざされている。
洲崎香奈が千村真友子とともに乗ったタクシーのほかは、一台の後続車も対向車もなかった。
「けっこう登るんだね。海の傍だって聞いてたけど」
ぽつり、と真友子が言った。
「岬の上に建ってるみたいだよ。きっと海がきれいに見えるんじゃないかな。水平線に沈む夕日とか」
香奈は努めて明るく言った。真友子が機嫌を損ねているのではないかと思ったからだ。
旅行に誘ったのは香奈のほうである。
いつもは真友子がリードしてあちこち連れ回されている――というより、連れ出してもらっている。引っ込み思案な香奈は大学でも友人が少なく、いちばん親しいのは同じ高校出身の真友子だった。真友子のほうは社交的で、たくさんのサークルを掛け持ちしているし、バイトもしていれば、彼氏だっている。それなのに、自分と付き合ってくれるのは香奈にとってこのうえなくありがたいことだったし、だから、真友子にだけは嫌われたくない、という思いが香奈にはあった。
「まだかかるんですか?」
真友子は運転手に話しかけたが、運転席からはぼそぼそとよく聞き取れないいらえがあっただけだった。
勘弁してよ、と香奈は思う。
このタクシーははずれだった。いや、そもそも、この旅行自体がはずれかもしれないという不安に、香奈はいたたまれない気持ちなのだ。真友子をがっかりさせてしまったら、そのときは香奈が「はずれ」ということになる。
偶然、ネットで宿を見つけたとき、なぜだかむしょうに惹かれ、魅力的に感じた。聞いたこともない温泉地だったが、東京からは意外と近そうだったので、これは穴場というやつかもしれない、と思ったのだ。
老舗の古い旅館が、昨年、建て替えをしてリニューアルオープンしたという触れ込みも響いた。すべての部屋から海が見え、温泉かけ流しの部屋風呂があるという。むろん、海の幸も楽しめる。それでいて、リニューアル記念のキャンペーン価格だというのだ。
興奮して真友子に教えたら、よさそうだね、と言ってくれたことが香奈を有頂天にさせた。人気者の真友子と二人で旅行に行って――SNSに画像でもあげたら、きっとみんな羨ましがるだろうし、香奈の存在感も増すはずだった。「素敵な宿だったよ。香奈が見つけてくれたの」。真友子が大学でそう話すさまを想像するだけで、香奈は誇らしい気持ちになった。
しかし、ローカル線の乗り継ぎに乗り継ぎを重ねる旅が、思いのほか時間がかかるうちに、だんだんと真友子の口数が少なくなり、香奈はしまった、と思い始めた。
ようやく到着した駅はさびれていて、駅前にさえほとんど商店の類もないか、あっても看板だけで何年も前に閉店した様子だったのだ。
そこは、死んだ観光地だった。
どうりで名前も聞いたことがないはずだ。ガイドブックが出版されていなかったのも頷ける。
かつては多少は賑わったのかもしれない、その残光がかすかに見てとれるほど、いっそうものさびしく、時の流れと人心の移ろいの残酷さが身に沁みた。
そして、タクシーだ。
じりじりと照り付ける夏の陽のしたで、一時間に一本もないようなバスを待てるはずもなく、駅前の赤錆まみれの看板に書いてあった番号に電話をした。やっと来た車には、いかにもくたびた様子の初老の運転手が操っていた。やたら目が離れ、唇の薄い、なんだか魚のような顔つきの男で、言葉はひどく聞き取りづらい。
そう、魚――。駅を降りてから、妙に磯臭いのも気にかかることだった。海沿いの町だから当然といえばそうなのだが、青い海に白い砂浜――というよりは、曇天の下にうねる灰色の波間や、打ち上げられたまま腐り果ててゆく得体の知れない魚の死骸といったものが思う浮かぶような、どこか厭な臭いなのである。
ふいに、木々が途切れ、ぱっと視界が開けた。
「あ」
真友子が小さく声をあげる。香奈は息を呑んだ。
前方に、旅館のすがたが見えたのだ。日本建築の趣を残しながらもモダンなデザインの建築が岬のうえに、崖に沿うように築かれている。着くのが遅くなったので、やや日が傾きがちな空の下で、ぽつぽつと照明が灯りはじめた様子は、どこか幽玄な美しさを持っていた。
タクシーがファサードに滑り込むと、番頭風の男が迎えにあらわれた。
「へえ……」
真友子が、悪くない、といった様子であたりを見まわしたので、香奈は内心ガッツポーズをつくる。キャリーバッグを引きながら、番頭に案内されてフロントへ。エントランスの看板には、しゃれた書体で宿の名が記されていた。
ふだらく楼
番頭は中年だったが、あの不愛想なタクシー運転手に似た魚顔だったことには少し驚いた。このあたりによくある風貌なのだろうか。田舎だから、遠い親戚だったりするのかもしれない。
「左様でございますか、東京から。ええ、ええ、最近は東京からもお客様はよう来られます。インターネットで取り上げてくださる方もおられますのでね。ご夕食は七時でよろしかったですか。お部屋までお持ちいたしますので、それまで、お風呂でもお楽しみくださいませね。当館はこの岬の地下深くの源泉からお湯を汲み上げてございます。それはもう、お肌がつるつるになると――」
フロントで手続きを済ませ部屋まで案内されている途中、番頭はべらべらと喋りとおしだったが、香奈はあまり耳に入ってこなかった。
足元は厚い絨毯。シックな廊下がどこまでも続き、点々と和モダンなブラケットライトが灯る様子は、秘密の隠れ家めいて好もしく、すっかり心を奪われていたのだ。
と、その先から、しずしずとやってきた人物に、香奈は目を見開く。
「ようこそいらっしゃいました、ふだらく楼へ。女将でございます」
すれ違いさまに、頭を下げてそう挨拶したのは、美しい和服の女だった。
紺碧の小紋に白地の帯をいかにも慣れたふうにあわせている。控えめに結われた髪は、しかし、濡れたように艶やかで、肌は驚くほど白かった。
女将の切れ長の目は黒目がちで、井戸の底を覗き込んだように潤んで見える。その目が、じっと香奈を見つめ、にィッ――、と笑ったようだった。
(えっ)
それは、お客に向けた笑顔というよりは、香奈にだけ、なにか含みをもって投げかけられたいかがわしさを感じさせるものだったように思え、白皙と対照的な異様に紅い唇の印象が、香奈の脳裏に焼き付く。
今のはいったいなんだろう。謎をかけられた子どものように、香奈はその意味を掴みあぐねて文字通り立ちすくみ、先を行く真友子に呼ばれてやっと我に返るのだった。
「なんか暗いね」
部屋に案内され、一息ついたあと、真友子がそう言い出したことで、また雲行きはあやしくなった。
「あっ、明かりつけようね」
「そういうことじゃなくてさ」
部屋はいわゆる和洋室で、食事などができる畳敷のスペースがありながら、ほかはフローリングでベッドが置かれている。インテリアのセンスも悪くないと香奈は思ったが、真友子は地味で暗い雰囲気だと言いたいようだった。
部屋風呂に入ってみよう、と話になったが、またも期待は裏切られる。
かけ流しのはずのお湯はやけに生ぬるく、温泉成分なのだろうが、ぬめぬめとした感触がするのが、なぜだが厭わしいのだ。そして、どういうわけか、お湯にもかすかに磯臭さが感じられ、そうなると、浴室の一面がガラス張りで海が見渡せるのもかえって嫌な気持ちにさせた。
岩肌に海藻とフジツボが貼りつき、フナムシの這いまわる潮だまりに浸かっているような気がしてくるのだ。
そのあと、運ばれてきた夕食も、思ったほど美味には感じられなかった。
尾頭付きの船盛は豪勢だったが、真友子は魚の目が不気味だと言ってほとんど手をつけず、そう言われると、香奈ひとりで食べるわけにもいかなかったし、実際、味もさほど素晴らしいものではなかったのだ。
食事が終わると、気まずい沈黙の時間が訪れた。
「……露天風呂あるんだよ。行ってみる?」
「うーん。なんか眠くなってきちゃったな。いいよ、香奈行ってきたら?」
「でも」
「いいの。あたし、ちょっと寝ようかな」
「そんなぁ。……真友子、ごめん。わたし……こんなつもりじゃ」
「ええ? なに謝ってんの? ホント眠いだけだって。いいから露天風呂行ってきな。帰りに自販機でお酒買ってきてよ。そんで部屋でお喋りしよ?」
そう言われて、かろうじて泣き出さずにすんだが、真友子に気を遣われている、と思うと、心が痛んだ。
仕方なく、一人で露天風呂へと向かう。
廊下は暗く、静かだった。
(そういえば、ほかのお客さん見ないな……)
時刻はまだ宵の口だと思ったが、客室から盛れるテレビの音や、宴会の声が聞こえてこないと、まるで真夜中のようだ。
客どころか、従業員の姿も見あたらない。
そして、案内板に沿って歩いていたはずなのに、いつのまにか迷ってしまったようだ。
建物が岬の地形に合わせて建てられているためか、廊下の曲がり方が不規則で、床も水平ではないようだった。そのせいか、距離感や平衡感覚を狂わされるような気がする。
「あ――」
出会いがしらに、女将とぶつかりそうになって、香奈は足を止めた。
なまめかしい紅い唇が、またあの謎めいた笑みを浮かべる。
「あ、あの……、わたし、迷っちゃって。露天風呂ってどっちですか?」
「いらっしゃい」
女将は、香奈の手をとった。つめたい手だった。
「えっ、あ、あの」
「ほんとうによく来てくれたわ」
女将は香奈をそっと抱き寄せた。
「あなたをずっと待っていたの」
耳朶をくすぐるような囁き声は、麝香のように蠱惑的に香奈の脳内に沁みわたり、彼女の意識を蕩かしていった。