プロローグ
怪奇小説を選んだのはそれが何より自分の好みに合うからでした――私の中の最も強く最も永続的な願望、即ちいますぐ、時間・空間・自然法則という忌々しい制限を一時停止させあるいは打破する奇妙な幻想を見たいという願望に。
――H.P.ラヴクラフト「怪奇小説の執筆についての覚書」
じりじりと陽が照り付け、脂っぽい汗が止まらないのに、空は奇妙に薄暗く、翳っている。
歩けども、歩けども、続くのは泥濘の地平だ。
踏み出した足はそのたびに軟らかな泥の地面に沈み込み、ぬるぬるとまとわりつく。泥土の表面では、そこらじゅうに蟹や魚が腹を見せて死んでおり、空気にはそれら海底の生物の死骸が腐りはじめた胸の悪くなる臭いが充満していた。
数時間――あるいは数日前まで、この泥濘は海の下にあったのだろう。ほかのことは何もわからないが、それだけはわかった。そしてそれが、このうえもなく不穏で、不吉な出来事であるということも。
泥濘の地は見渡す限り続いている。ただ、そのかなたにぽつんと、なにかの影が浮かんでいた。彼はそれを目指して何時間も……もしかしたら何日も、歩き続けているのだ。
渇いた遭難者が見るオアシスの幻影かと見えたその影は、しかし、次第に実体をはっきりとさせはじめた。
表面は深海の汚泥にまみれ、黒々としていたが、直線で構成されたその形を見れば、人工物としか思えない。黒い泥はぬめぬめとした光沢を帯び、泥土の大地より屹立するさまは、どこか淫らでもあった。
いったいどのような存在であれば、このような巨大なものを、海底に築き上げることができるのか。
身の内から起こる震えに汗に濡れた背筋が粟立ったとき、彼は泥の斜面を滑落していた。
泥濘の地面は起伏が読みづらい。目の前の建造物に気を取られているうちに、その前にすり鉢状の巨大な窪みがあり、知らず、その淵に立っていたことに気づかなかったのだ。
さいわい、軟らかな泥はさしたる衝撃をもたらさなかった。そのかわり、窪みの底は、いまだ乾き切らぬ海水を多く含んだ軟泥であった。彼は、アリジゴクに落ちた虫のように、おのれの身体が泥に沈み始めるのを感じる。
助けてくれーっ、と、彼は叫ぶ。
だが、誰もいようはずがない。そうしているうちにも、ずぶずぶと、体は泥に呑まれてゆく。
どろどろ――ぬめぬめと、斜面を溶けた泥が流れ落ちる。得体のしれぬ深海の節足動物が、泥の中から這い出してきたが、そいつもまた流れ落ちる泥濘に沈んでゆき、彼に今まさに訪れようとしている運命を身をもって暗示した。
厭だ。こんなところで死ぬのは厭だ。
汚らしい泥のなかで、魚の死骸と一緒に朽ちていきたくなんかない。
助けてくれ、誰か、助けてくれ……!
そのときだった。
彼は、彼が滑り落ちてきた斜面の淵に、ひとりの人影が立つのを見た。逆光で、顔は見えない。しかし、男だ。きわめて広い肩幅と、逆三角形の逞しい体躯が見て取れる。まるでコミックのヒーローだ。
おおーい。
声を限りに叫んだ。そして、彼に向って手を伸ばし、そして……