82.暴食の波濤 ***
「――水魔法秘技・破濤」
重複魔法陣の光は加速度的に強まる。その異常なまでの魔力は、第零師団の暗殺者をも驚愕させた。殺しの道に生きる彼らまでもが本能的に足を止め、思わず本音を零してしまう。
「……これが人間の所業なのか?」
アンヤの口から血が滴った。過度な魔力放出による負荷が体を蝕む。それでも彼女は止まらない。止まることなどできない。
「藻屑と化してくだばりやがれってんだ……!」
苦痛を堪えるように歯を食いしばったとき、口に溜まった血液がどろりと流れ出た。それを拭うこともせず、アンヤはゆっくりと両手を掲げる。重複魔法陣は彼女を中心に据えたまま、急激に膨張した。
アンヤを包み込むように吹き出したのは、間欠泉の如き水柱。それは束の間、巨大な波と化して彼女を軸に同心円状へ広がる。
それはまさに、災害という表現が相応しい。海を知る者でさえも恐怖を覚えるような波が、瞬く間にして大陸を這った。
圧倒的な水流は森を流し、大地を抉り、生ける者どもを屠ってゆく。無論、その現場に居合わせる第零師団は手遅れだった。アンヤから距離を取ろうとも、凄まじい速度で迫り来る波の前には無力。彼女から全方位に広がる巨大な波濤は、辺りの大岩から装甲車まで、その場の何もかもを飲み込んだ。
激流に飲み込まれた第零師団の意識は薄れてゆく。抵抗も虚しく、暗殺者の意識は奥底へと沈んだ。
ギノバス審判院、そこは王都で生じた紛争を解決する裁判が、一挙にして行われる司法の中心地。敷地内に佇む別館には、過去の判例から最新の学説まであらゆる法律文献が完備されている。
ギノバス審判院別館にて。壮麗な内装の中、今日も一人の男が相も変わらず同じ席で腰を下ろす。若かりし頃の裁判長・セントニア=ラウマンである。
そんなところへ、同じ裁判長の証を首から下げたある老人が歩み寄った。
「さすがはラウマン家のご子息。今日も精が出ますな。異例の早さで裁判長の座に抜擢されるわけです」
セントニアは手を止めるとぶっきら棒に応答する。
「……それはどうも。ただ、私ももう三十路。ご子息などと呼ばれるのは、ご勘弁願いたいところです」
「はは、失礼した。それに、読書の邪魔をしてしまって悪かったよ」
老人はセントニアのつれない様子を理解したのか、その場を手早く後にした。その姿が遠く離れた頃合いで、セントニアは一息をつく。ただ開いただけで特に読む気も無い書物を無造作に閉じれば、退屈から逃避するとうに窓の外へ視線を向けた。
「ふざけた世の中です。あれほど物腰柔らかな老紳士もまた、私と同じ。国に操られただけの、人の皮を被っただけの鬼なのですから」
ふと立ち上がれば呪文のように呟き始めた。
「裁判とは何人に対しても公正であるべき場所。理想論とは、机上の空論なのでしょうか」
裁判長たる身分を表すブローチが光に当たり煌めく。男はそれに軽く触れるが、またすぐに手を放り出した。
「……さあ、始めましょうか。もう飽き飽きなんですが」
都外を往く、ある魔力駆動旅客車にて。それへ飛び乗ったユーニが揺られ始めて数時間のこと。運転手が上げた驚嘆の声と共に、車両は急停止した。
うとうとしていたユーニは、その激しい振動に思わず眠気が吹き飛ばされる。ギルド魔導師の職業病だろうか。彼はそれが魔獣の襲来だと推測した。
反射的に車両前方へ視線を送る。しかしそこに魔獣の姿など無かった。ただ広がるのは、魔獣よりも驚くべきもの。
客車へと迫るのは、前方から広大に流れ来る波。目測では脛くらいの波だが、あらゆるものを飲み込んで黒く濁った様相は、誰しもに身の危険を感じさせた。
ユーニは車両内の先頭でその光景に釘付けにされながらも、ある可能性を呟いた。
「……洪水か?」
客車の運転手は真っ向からそれを否定する。
「馬鹿な!? ここ最近はずっと快晴だぞ?」
ユーニはその返答を聞き流し、颯爽と車両から飛び出した。凄まじい流れに足を掬われそうになるが、どうにか踏ん張ってみせる。そしてその水に触れたとき、男は確かに感じ取った。
「……この感じ」
濁ってしまったが、どこか芯に温かさを感じる水。やけに覚えがあった。愛した者と、何度も魔法を競った記憶。そのとき何度も感じた、あの感覚だった。
束の間、体から嫌な汗が噴き出た。これほどの魔法を使うほどの事態が彼女へ降り掛かったとすれば、もう彼は立ち尽くしたままでいられない。その足は、無意識にも波へ逆らう方向へと進んだ。
アンヤの放った決死の魔法が生み出した激流は、大陸各所で観測されることとなる。
その水源に近い場所に位置する、名も無き小さな村。丸太で組まれた物見台に立つ男は、うとうとしながらその見張り番を務めていた。いつもと同じのどかな景色と心地よい風が、男を眠りに落とす、そんな日常のはずだった。
「……おいおい!!」
男の視界に突如として現れたのは、背丈よりもはるかに高い大波。何もかもを吸い込みながらこちらへ近づくそれは、男に死を直感させた。
男は恐怖で凍り付く腕を何とか持ち上げ、物見台に備え着いた鐘を力一杯に鳴らす。小さな村に響く鐘の音。この村においては、侵略又は災害の発生を意味する。
王都ギノバス・検問にて。塀の上から警備を行う騎士は我が目を疑った。
「……水? どうしてこんなところに?」
すかさず冷静さを取り戻せば、塀の麓に立つ騎士へ指示を出す。
「門を閉めろ!! 街が浸水するぞ!!」
「……は、はい!」
騎士たちは困惑しつつも慌ただしく門に集まり、力を合わせ大きな扉を閉ざした。
都外。水源であるアンヤからかなり離れた地点にて。敷設された道を進む貨物車も、同様に冠水の被害を受ける。
「おいおいなんだってんだよ。これじゃダストリンへの納品に遅れちまうよ……」
貨物車の運転手は頭を抱えた。そのまま車両警護のギルド魔導師へ問いかける。
「おい魔導師のあんちゃん、コレも魔法なのか?」
「……わ、分かりかねます。こんなの見たことがありません」
「魔法じゃなけりゃなんだ……悪魔の仕業か?」
「……とにかく一旦退きましょう。これ以上水位が上がれば、我々も危険です」
「……仕方ねぇ。全速力で引き返すぜ」
No.82 ギノバス血統主義思想
ギノバスに生まれた血統を優れたものと考える思想。ギノバスがかつての大陸戦争の事実上の戦勝国である経緯が、思想の根幹として大きな影響を握っている。国の概念が消え去って大陸統一が実現した現在においても、少数ながら熱烈に支持されている。