59.再出発
夜が明ければ日は昇り、また新しい朝が始まる。朗らかな朝日は貴族街を優しく照らすが、それでもアダマンスティア家に訪れた朝は、決して平穏と呼べたものではない。
ダイトは目を覚ますと、普段のように自室を後にした。広い廊下を通り抜けて、寝ぼけたまま居間を覗く。何気なくその空間に入るのを躊躇ったのは、視線の先に漂う重苦しい雰囲気を、幼いながらに感じ取ったから。
先日から体調を崩しているはずの母。ゴートを始めとした、数名の使用人たち。顔ぶれを見たところ、父の死後から公務の代理へと駆り出されている面々が大体を占める。そういえば毎朝欠かさず廊下を清掃する使用人も、今日だけは不在だった。静寂の廊下は、語らずとも少年に由々しきの事態を伝えていたのだ。
オリハはダイトの影に気が付く。彼女は頬笑んで声を掛けたが、それが取り繕ったものであると見抜くのは容易い。
「……ダイト、おはよう」
「……お、おはようございます……」
「昨晩はよく、眠れたかしら?」
「えっと、うん、眠れたかな」
「そっか。なら、良かった」
うわべだけの会話に、温かみはない。それはきっと、オリハが追い詰められていたから。それでも彼女は、本題を切り出さなければならなかった。
「――ダイト……ごめんね。このお屋敷とは、今日でお別れよ。使用人の皆さんとも」
「……は?」
「ごめんね。ごめん」
「お、お母様……どういうこと?」
思いもよらぬ母の一言に、ダイトは混乱する。ただし狼狽えるのは、使用人の者たちも同じであった。
ゴートはオリハを案じる。
「オリハ様、しかしそれでは……!」
「いいの、ゴート。私はこの選択が正しいと信じている。もしこの先どうなっても、後悔はしないわ」
そしてオリハは、使用人に向けた視線を再びダイトの元へと落とす。
「ダイト、よく聞いてね。私たちはこの瞬間から、貴族という地位を捨てるの。だからもうここには住めない。使用人の皆さんとも、さようならよ」
時は昨晩に遡る。ダイトが寝静まった頃、居間には昼間公務に駆り出た使用人らとオリハがテーブルを囲んだ。
ゴートはテーブルへ手紙を差し出す。それは定例議会の帰り際、黒コートの男が寄越したものだった。
「……オリハ様。こ、こちらを」
刻まれた文字は、先の事件の犯行声明。そして、更なる報復の宣言。
コール=アダマンスティア氏の不幸に痛み入る。次なる不幸を畏れるのならば、ただちにその身分及び私有財産を放棄すること。
昼間は屋敷にいた使用人らは、その横暴な内容へ怒りを露わにする。
「ふざけるな……こんな真似が許されてたまるか!」
「オリハ様、これは明らかな脅迫文です。騎士に通報し、立件してもらうべきでしょう」
熱を帯びる使用人に対し、オリハは冷静だった。
「……それは出来ない」
「オリハ様! どうして!?」
「確かにこの手紙の送り主は、保守派貴族で間違いないでしょう。彼らは保身の為なら、手段を選ばない。騎士の買収であろうと、人殺しの依頼であろうと」
ゴートは粛々と付け加える。
「この文書を我々へ手渡した男も、恐らくは魔導師崩れの暗殺稼業かと。護衛係の使用人曰く、奴が立ち去る際に見せた魔法の練度は、相当なもの。この場に居る手練れであっても、太刀打ち出来ませぬ」
「――な、ならこちらも魔導師を雇っては……?」
ゴートは、若い使用人の提案を一蹴した。
「なりません。ギルド魔導師に保守派どもの息がかかっていれば、一巻の終わりです」
訪れた沈黙は、手詰まりを暗喩した。それでもオリハは、凜として言葉を紡ぐ。
「……家主たる私が決めなければならないことです。明日の朝、全てをお話します。だから、考える時間が欲しい」
使用人たちはやるせなさから、自然と視線を落とした。ただしゴートだけは、その重たな空気を取っ払った。彼には、オリハの使用人たる自らのすべきことが分かっていたから。
「……使用人の者は皆部屋を出ろ。今すぐにだ」
筆頭使用人の一声に、使用人の者たちは躊躇いつつも居間から立ち去り始める。そして忽ちにして、居間はゴートのオリハの二人のみになった。
「……ゴート、ありがとう」
「主に尽くす。使用人の務めであります」
そして最後に、ゴートが部屋を退く。いまだ風邪が治らぬオリハは、その部屋にたった一人残された。
「……コール、安心して。あの子は私が守るから」
最愛の息子を守る為。オリハは、全てを捨てる選択を選んだ。
ダイトの頬を涙が伝う。それは地位の喪失による虚脱感などではない。父の築き上げてきた全てが失われるという事実に、酷く心が痛んだから。
絶望の淵に立たされ、ダイトは心境を吐露する。無理もないことであった。
「お父様もいなくっちゃったのに、お屋敷も無くなって。それに使用人さんたちも――」
「ダイト、違うわ」
窮地に立たされてもなお温かみを失わないオリハの声が、少年のに渦巻く混沌を祓う。彼女には、ダイトの心情が全て見て取れた。
「失ってなんかない。私が生きて、あなたが生きてる。生きている限り、私たちの記憶からあの人が消えることはない
オリハはダイトに顔を近付け、優しい語気のまま続けた。
「きっとこれからは、生活の全てが変わってしまう。それでも、お母さんに任せてみてくれないかな?」
ダイトは黙り込む。オリハはその頭を撫でてやった。
「……ごめんね。こんなこと言っても、私なんかじゃ不安だよね」
強き母の選択は、脅迫への服従。しかしそれは、諦観ではない。愛する子を守るという、一人の母としての挑戦。
オリハはゴートら使用人に向き直ると、そのまま頭を下げた。
「……私はあなたたちを、解雇しなきゃいけない。本当にごめんなさい」
ゴートはオリハに手を差し出す。
「奥様、あなたは悪くない。どうか坊ちゃんを、よろしくお願いいたします」
オリハは頭を上げると、差し出された手と握手を交わした。やるせなさを噛みしめながらも、ただ真っ直ぐに感謝を述べる。
「ゴート……ありがとう。あなたには本当に長いことお世話になったわ」
手を解くと、ゴートは数歩背後に下がった。使用人たちはその老人の後ろに整列する。彼らの顔には、微かな笑顔が浮かんでいた。ゴートが頭を下げれば、背後の使用人たちもそれに続く。
「長きに渡るご愛顧、深く感謝申し上げます。使用人一同、お二人の平穏を、心より祈っております」
使用人たちの整然とした一礼は、場を圧巻する。オリハは泣きじゃくるダイトの頭に手を置いた。
「ダイト、お礼はちゃんと言わなきゃね」
少年はそのくしゃくしゃの顔を上げる。堂々と述べたのは、心からの謝意。
大粒の涙に、使用人らも思わず誘われる。ゴートは溜まった涙を隠しながら応じた。
「……坊ちゃん、どうかお元気で」
壮絶な転機。それでも二人の新たなる営みは、すぐに始まる。
強き親子は、一変した生活の始まる住居へと辿り着いた。もといた貴族街からはずいぶんと離れた土地に佇む、年季の入った小さな家だが、幸い近くには王都一の商店街・ピリック通りがある。
「――さ、これで一通り引っ越しは完了。あとは私が、お仕事を探さなきゃね」
「あ、あのお母様。僕にも、できるお仕事とか……ないかな?」
治安の優れない街や辺鄙な村であればまだしも、この王都に一〇歳の少年の務め先はない。それでもオリハはダイトの優しさが嬉しかった。
「ふふ。ダイトはそのまま、お利口にしていてくれればいいの」
オリハは最後の荷物を置くと立ち上がる。
「さ、せっかく近所に王都で一番大きな商店街があるのよ。いろいろと見て回りましょうか」
母はダイトへ手を差し伸べた。
No.59 貴族街
王都・ギノバスに中心部に位置する、貴族階級の人々が住む豪華な邸宅が集まった地域。リベリア宮殿を取り囲むように分布し、騎士団本部などの拠点も同地域に設置されている。




