50.平穏の終焉
時は一六年前に遡る。王都・ギノバスから少し離れた、とある盆地にて。広大な自然の中にそっと佇む集落は、その名をシラブレ村といった。
村は木材で組まれた手製の柵に囲まれているものの、魔獣の存在を鑑みるなら、それは心もとない。木造の家屋が点在しただけの前時代的な光景は、王都とかけ離れた町並みだった。そしてそんな村の外れには、村の中でも一際大きな平屋と、それよりも少しだけ小さな母屋が佇む。家主の名は、ツィーク=エクスグニル。
エクスグニル家、それは小さくとも由緒正しき剣術の流派を継ぐ家系の名。一本の大剣を扱うことを流派の最も大きな特徴とし、村の男たちは戦士になるべくして、多くの者がこれを修めた。それは騎士の駐在しないこの村において、戦士は魔獣を討伐することの出来る唯一の存在であるために、名誉な称号とされたからだろう。
快い晴れの昼下がり。エクスグニル家の母屋と繋がった平屋建ての道場では、今日も戦士たちが己の技を磨く。そしてそんな屈強な男たちに混ざるのは、二つの小さな影。その二人は道場の隅で、身の丈に合わない大きな竹刀を懸命に打ち合う。
竹で造られた模造品の大剣が、乾いた音を立てた。一撃に吹き飛ばされて座り込んだのは、華奢な体の少女。金色の髪に碧色の瞳、それは幼き日のツィーニア=エクスグニル。
「うぅ……」
そのまま泣き出しそうな彼女の前に仁王立ちするのは、ブロニア=エクスグニル。ツィーニアの、実の弟。
勝負が決したところで、彼らは恒例通りお手伝いの分担を決め始める。その日最後の打ち合いの勝者に優先権が生じるのが、二人の約束であった。
「――姉貴! 今日も俺の勝ちだ!! てことで今日も、俺が井戸の水汲み。姉貴が母様の書庫整理の手伝いな!」
「ブ……ブロニアはいつも水汲み選ぶけど、絶対に水汲みのが大変だよ……?」
尻餅をついたままのツィーニアが目を擦りながら見上げる頃、既にブロニアの姿はそこに無い。
「……あれ? もう……居ない……の」
ブロニアは颯爽と水汲み場へと赴いていた。一人ぼっちになってしまったツィーニアは、そこでふらふらと立ち上がる。両手で二本の大剣を拾い上げるとそれを道場の隅に片付け、そのままひっそりと道場を後にした。
その日の晩こと。道場運営を終えたエクスグニル家の食卓には、温かな時間が流れる。母・ブローナが作った夕食を家族全員で頬張るのは、かけがえの無い幸福に他ならないだろう。
「――母様! 今日、井戸からずっと走って戻ったんだ! 凄いでしょ!」
ブローナは無邪気な少年の姿に頬が緩む。
「ブロニアは強い子ね。でもツィーニアだって、とっても凄いのよ。今日は何冊も本を直してくれたの」
「へぇ、姉貴って器用なんだなぁ」
ツィーニアは少しだけ恥ずかしそうに微笑んだ。剣技では敵わない弟に、少しだけ姉としての威厳を見せつけることが出来ただろうか。
そのとき父・ツィークは、ふとあることを思い出して語り始める。
「……そうだ母さ。、実は今朝、通信魔法具から連絡があってね。うちの流派を取材したいって人が王都に居るらしいんだ。なんでも、わざわざシラブレ村まで足を運ぶって話で――」
「あら、珍しい。こんな不便なとこまで来る人がいるなんて」
「日時は五日後。応対、お願い出来るかい?」
「ええ、勿論よ。王都から人が来るとなると、少し緊張しちゃうわね」
物珍しい出来事の匂いを嗅ぎつけたブロニアは、スプーンを片手に立ち上がった。
「俺も取材されたい! いいよね!?」
そんな爛漫な息子を、ツィークは優しくなだめる。
「誰を取材するかは、相手方の決めることだ。もしブロニアが流派で皆伝にまでなれば、いつか取材されるかもな」
「なら俺、カイデンになる!!」
「そうかそうか。なあその為に、毎日修行しなきゃな」
あまりにも華麗に言いくるめられるブロニアを見て、ブローナは優しく微笑んだ。
運命の日。そして約束の日。ツィーニアとブロニアは屈強な男たちと共に、いつも通りの道場で研鑽に励む。大剣が激しくぶつかり合う音は、その日も鳴り止まない。
ツィーニアの威勢良い声が飛んだ。普段は弟に負けてばかりの彼女だったが、どうも今日だけはブロニアへ剣先が届く。それもそのはず、彼は打ち合いの途中にも関わらず、急に呆然となって立ち尽くしたのだから。
ブロニアは大剣を手からするりと零し、ただ遠くを見つめる。ツィーニアは握った大剣を引いて、弟へ尋ねた。
「あのさ……なんで急に棒立ちしてるの?」
「……忘れてた」
「え……?」
「忘れてた! 今日は取材が来る日じゃんか! 俺、こっそり見てくる!!」
そしてブロニアは、節操も無く走りだす。ただツィーニアは、そんな彼の腕を掴んだ。
「だ、駄目だよ! 父様と母様に言われてるでしょ。今日の午前中は母屋に戻らず、道場に居なさいって……!」
「大丈夫だよ! だってバレないように、こっそり見に行くから! 姉貴も行こうよ!」
ブロニアはツィーニアの腕を掴みかえすと、そのまま走って道場の出口へ向かう。
「ちょ、ちょっと! 怒られちゃうよ!」
そのまま二人は大剣をその場に散らかしたまま、道場を飛び出した。
そんな騒がしい姉弟を目撃した門下生の男たちは、ふと大剣を降ろして言葉を交わす。
「――あれ? あの二人どこ行くんだ?」
「家に戻るんじゃねーの」
「今日は取材がどうとか言ってたじゃねーか。勝手に行っちゃマズいだろ……」
「まあまあ。どうせすぐつまみ出されるさ」
ブロニアはツィーニアの腕を引き、見慣れた渡り廊下を颯爽と駆け抜ける。ただその最中でも、気弱な彼女は親の言いつけを守るべく、必死に弟を説得した。
「ねえってば! 戻ろうよ……」
「へへ。大丈夫大丈夫。もし怒られるときは、姉貴も巻き添えだ!」
そして姉の抵抗も虚しく、二人はそのまま母屋の玄関へと辿り着く。ブロニアはそこでようやく彼女の腕を放すと、そのまま扉をこっそりと開いて中の様子を窺った。きっと父親は、王都から訪れた記者をいつもテーブルへと案内し、そこでのんびりと言葉を交わしている。母様の煎れた美味しい茶を片手に、楽しい時間が流れている。幼いながらにも、彼は妙に詳しい情景を頭の中に浮かべた。
しかしそれは、無情にも打ち砕かれる。
「――ったく、商品はどこにいるってんだ!」
「――そう焦るなパド。この家の裏には道場がある。どうせそっちに居るんだろーよ」
見慣れた家の中を徘徊するのは、記者とは程遠い見た目をした、三人の黒服の男。そして足元へ転がる、愛しき両親の無惨な亡骸。頸を落とされた父と、胸を裂かれた母。
無論、その地獄を垣間見た少年は、束の間に恐怖へ墜落する。そして開けたままの扉から不意に手を放し、物音を立ててしまったのは、まさに最悪の出来事だった。その音を聞いた不審な男たちは、言うまでも無くのブロニアの方向へ注意を向けたのだから。
「……なあフォッジさんよぉ」
「ああ。客みてーだ」
若き日のパド=アントオルスは真っ先に扉へと歩み寄り、それを勢いよく叩き開けた。扉の向こうには、腰を抜かして動けないツィーニア。そして震えた足を必死に抑えて立ち尽くする、ブロニア。
ブロニアはパドを目前で見上げる。ただしその男の視線が手前の少年に向けられることはなく、それは間も無くして後方の少女へと差し向けられた。
「金髪に碧い眼……こいつかぁ。フォッジさん! 商品が居ましたぜ!!」
「……よし、さっさと縛れ。そいつ連れて、こんな村出ちまうぞ」
そしてパドは立ち塞がるブロニアを容赦なく蹴り飛ばすと、ツィーニアの両腕を掴んで地面へと押さえ付ける。ツィーニアはあたふたと抵抗するが、華奢な少女が巨漢に力で勝ることなど不可能であった。
「……パド、売り物に傷つけんなよ」
フォッジはそれとなくパドに忠告する。パドは適当な返事をしながらも、その乱暴さを緩めることはなかった。
ただそのとき、少年の暗い声が三人の男の耳へと飛び込む。彼らの眼中に無かった少年は、異様な威圧感を纏って呟いた。
「……や……めろ……!」
口から血を垂らした少年は、俯いたままパドの元へと近寄る。パドはその少年を一瞥しながらも、そのまま平然と自分の前を通り過ぎてしまう少年に、どこか違和感を覚えた。
「なんだぁ?」
気の抜ける声を零すパドは、特に少年の奇行を警戒することもなく、むしろその少年が何をしでかすのか楽しむように観察する。背を向けて母屋に入っていく少年へ奇襲を仕掛けなかったのもまた、その子供が警戒に値しないと判断したからであった。
そしてフォッジもまた、その少年の様子をただ見下ろす。男もまた、特に動き出そうとはしなかった。
そして大胆不敵に母屋へ押し入ったブロニアは、居間に飾られた父の魔法大剣を迷わず手に取る。少年は幼くとも、戦士であった。
ここでようやくマフィアの男が、懐から魔法銃を抜く。
「――おいガキ、無駄な事は考えるんじゃねーぞ」
ただしその忠告は、少年へ響かない。少年の心からはもう、既に大切な何かが外れていたから。
男が銃口を向けるのを待たずして、パドはその剣を振るった。その刹那の一撃は、男の胴体を容易く切り離す。パドとフォッジはその少年に目を向けたのは、肉塊と化した男が床へと墜落する音が鳴ったときであった。
「……殺してやる……お前ら全員……殺してやる……!!」
残る二人の敵を前にした少年は、たった一人の人間を殺めた罪深さを痛感する間も無く、血と涙に塗れた顔で咆哮する。それはもはや、決して子供が見せてはならない狂気。ただその狂気を前にして、フォッジは口角を上げた。まるで、稀な宝でも掘り起こしたかのように。
No.50 パド=アントオルス2
王都マフィアがマジケルの生産を事業化する以前は、本部へと在任していた。かつてはフォッジの直属の部下であり、頻繁に彼と行動を共にする。若い頃から血の気の多いパドであったが、フォッジには比較的従順だった。