202.幸と不幸、表と裏。 *
二人の出会いから数ヶ月後。世に溢れた出会いに過ぎない二人の邂逅は、その意を改めることとなる。始まりは、決して幸せと呼べぬ苟且の愛から。
「……嘘」
鈴と薔薇に勤務するレティア=トレヴィリナは、ここ長らく続いていた体調不良の原因を知った。紛れない、悪阻。彼女はいつ知れず、その身に子を宿したのだった。
このような仕事をしているが為に、相手の正体は知れない。ただそれでも、彼女は真っ先に身の危険を覚えた。子を孕んだ娼婦は、商売道具になれない。娼館の支配人へこの件が知れたなら、きっと彼女は職を追われるだろう。あるいは、子の方が無かったことにされるだろうか。
どこ知れぬ男ともうけた子か分からずとも、それを易々と忌避することは出来なかった。ゆえにレティアは決意する。この子の、母になろう。
季節は冬。地下街には冷気が流れ込み、地上よりも厳しい肌寒さが人々を襲う頃。その日の出勤を待たずして、レティアは娼館からの逃亡を目論んだ。
寮の隅で転がった上着は薄く、防寒には心もとないが、それを着ずして外には出られない。レティアはその布を纏い、闇雲に寮の自室から飛び出す。
しかしながら、彼女はそこで全て手遅れだったことを知った。廊下に立つのは、支配人・テクタ=ズグセル。禿げた頭と垂れ落ちた頬が醜い中年の男は、名門貴族ズグセル家の血を引く権力者だった。
「――今頃になって子を孕んだことへ気付いたのか。まったく学の無い娘とは虚しいことよ」
連日の体調不良から稼ぎが低迷していた事実は、テクタが先手を打つのに十分な根拠であった。それに男は長くして娼館の経営へ携わっているからこそ、この手の出来事は初めてでない。男は商売道具にならなくなった女の行動を全て見越し、この廊下へと赴いた。
テクタは両脇に守衛を連れているのをいいことに、飄々と口数を増やす。
「鈴と薔薇は、質に拘った商売だ。そこに傷物を置いておくわけにはいかないねぇ」
「だがレティア=トレヴィリナ、お前はウチで最も名の立つ売り物だ。だからこそ、多少の融通なら効かせてやれんこともない。傷物として棚から捨てられるか、傷を隠して棚に残るか」
レティアは俯く。本来なら男から勘付かれぬうちに、颯爽と店から逃げ出すつもりでいたが、彼女は観念するようにして答えを選んだ。
「このお店を、辞めようと思います」
テクタはその回答に対し、特段驚く様子も見せないで呟く。
「……そうかそうか。ならな、達者でな」
そしてテクタは、案外簡単にレティアへ背を向ける。男はそのままだらしなく歩み始めるが、従えた二人の守衛は、なぜ彼女の方を向いたままそこへ立ち尽くした。彼女がその光景を不審に思ったとき、立ち止まった男はふと言葉を言い捨てる。
「……そうそう、喜びたまえ。ズクセル商会は、決して労働者を見捨てない。晴れて母親となる君にも、次の仕事を紹介してあげよう」
突飛な発言に、レティアは困惑する。
「……は?」
「奴隷制が否定された現世でも、いまだに奴隷を欲している金持ちが居てねぇ。君のような傷物でも、そこなら快く売り手を見つけてくれるさ。まあその手の金持ちは大概が、奴隷になら何をしてもいいと思っている畜生だがね」
テクタが零したのは、鬼畜の如き提案。レティアは聞き捨てならぬその言葉へ激しく抗った。
「そ、そんなこと一度だって頼んでない! ふざけないで!!」
しかしそんな威勢は、振り返ったテクタの見せた醜い笑みによって消え失せる。男は目を細め、嘲笑を目一杯に表現した。
「お前は鈴と薔薇に入った時点から、既にズクセル商会の売り物だ。売り物の扱いを握るのは、商人の仕事。お前は私から、逃げられない」
人間を着飾る悪魔に、レティアは震撼する。そして悍ましい男に怯える彼女を待たず、守衛の二人は彼女の元へと迫った。
大柄な守衛は手を伸ばし、レティアの細い肩を掴む。きっと彼女が今までの彼女であったなら、ここで大人しく拘束され、地獄の如き運命を受け入れただろう。今の彼女は、それとは違う。彼女はもう、一人の為に生きているわけではないのだから。
行使したのは、誘惑魔法。レティアはそれを久しく行使したが、実力は健在であった。彼女は声を震わせながらも、守衛の一人へ指示を下す。
「……命令する……傍の男を止めろ……!」
誘惑魔法を行使された守衛の男は、その命令通りに、もう一人の守衛へと襲いかかった。状況は同士討ちの混戦。その寸分に、レティアは喧騒に紛れて自室へと戻った。
自室にある歪んだ窓をこじ開けると、レティアはそこから外へ飛び出す。裸足のまま一目散に駆け出した彼女は、娼館の敷地内からの脱出を目指した。
テクタは守衛が味方討ちをする様子を眺めながら呟く。特に焦りがないのは、売り物の脱走というトラブルにも慣れているから。
「……なんだ。あの女、魔法が使えたのか」




