199.鈴と薔薇 *
地下街・オラトリア。そこは大陸戦争によって荒廃した地上を放棄し、当時から先進的であった地下街を中心に据えて復興を遂げた。しかしながらその陽差しが差さぬ街は人の目を避けるのに都合が良く、そこは徐々に闇を抱えた人間の巣窟へと変貌していく。治安の悪化から定住する人口は次第に減少し、潰れた住宅は歓楽街へと姿を変えた。
昼夜を問わず開店する安酒場。乱立する娼館。法外な賭場。人間の欲望喰らう街は、次第に貴族らのビジネス拠点と化してゆく。そして治安維持に一役買っていた駐在騎士団すらもが買収され、街は事実上の無法地帯と変貌した。
街の大通りには、一軒の大きな木造建築物がそびえ立つ。年季の入った看板に刻まれた文字は、鈴と薔薇。その正体は、街で最も歴史ある娼館であった。
娼館では日々、数多くの娼婦が奉仕した。ただその中で、抜きん出た人気を誇る女性が一人。息を飲むような美貌は、民衆だけでなく貴族までもを虜にした。
名は、レティア=トレヴィリナ。艶やかな金色の髪と、大人びた顔つき。それでも愛嬌のある笑顔が、彼女を彼女たらしめる。大金を抱えて娼館を訪れた男は、その多くが彼女を所望した。
「――旦那様、本日はようこそお越しくださいました」
「――今晩もありがとうございます、旦那様」
「……またいつでも、いらしてくださいませ」
貪られながら生きてゆく。売れ行きを評価されて専用の一室を賜るまでになった彼女は、今頃になってこの仕事に喪失感を覚えることもなくなった。奉仕する日々。非日常的な日常の檻に囚われた彼女は、その虚しさに気付くことも出来ないほど麻痺していたのだろう。
しかしながらその日々の繰り返しは、ある男との邂逅により塗り替えられる。
始まりは、何の変哲も無い夜から。空を見ぬ住民たちは確かなことを知らずとも、ふわりと立ち込める雨の匂いが地下街の満たす。湿気の漂う、淀んだ夜だった。
普段よりも客の少ない娼館には、一人の男が立ち寄った。名は、レント=ハンジュ。金色の髪と、無精髭。着飾らない服装は、彼の奔放な性格を体現していた。
男はやけになってか、酷く酩酊していた。先の事など、もうどうだっていい。そんな自暴自棄が、娼館で最も高額な女の指名へと至らせる。
持ち合わせの金貨全てと引き換えに立ち入ったのは、長い廊下の最奥地。年季を帯びた木造の扉を開けるのは、常人であれば幾分か勇気が必要なのだろうが、レントはそれをノックもせずに押し開いた。
軋む音と共に一歩踏み出せば、そこは薄暗くもやや広けた一室。価値も知れない絵画に、美麗な蝋燭。一人で使うには大きいベッド。端麗に彩られた一室の雰囲気は、貴族をもてなすのにも申し分無いだろう。
しかしながら、その一室へ踏み入る客の皆が惹かれるのは、部屋の飾りなどではない。ベッドに腰を下ろすのは、一人の女性。紛れもない、レティア=トレヴィリナ。
「……旦那様、本日はようこそお越しくださいました」
何気ない定型文。淑やかさと爛漫さの同居した笑顔を見せたとき、それを前にした男が放心するのはいつものことだった。
ただレントという男だけは、その例に倣わぬ様相を見せる。男は至って自然体のまま、いやもっとも酩酊したその状態は自然体とは言い難いのかもしれないが、彼は放心するどころか、馴れ馴れしいまでにレティアへ距離を詰めた。
「なんだぁ。あんたがここで一番お高い女かい」
無礼な言われようでも、レティアは朗らかに応じる。
「お高いだなんて、とんでもございません」
「あんた、名前は?」
「……レティア=トレヴィリナと申します」
「それ、本名なのか?」
「さようにございます」
「……へぇ、娼婦って本名でやるもんなのか」
他愛の無い雑談はそこで潰える。娼婦であるレティアからしてみれば、こういった戯言は面倒なので、彼女は直ぐに本題へと迫った。
「……それでは、そろそろ――」
レティアはレントの肩へと手を伸ばす。しかし男はまだ飽き足らず、再び口を開いた。
「なあ、あんたはなんでこんな仕事を?」
一片の遠慮も無く質問を続ける男は、恐らく多くの娼婦にとって嫌悪感を抱かせることだろう。しかしながらレティアは、その面倒な客にも朗らかに対応した。
「……たくさんの旦那様方を、癒やす為にございます」
その言葉は決して核心を突いたものではない。レントにも察しが付いたが、男はそこから更に追及することはしなかった。
同時にレティアは男の横顔を傍にして、その者がただ快楽を求めてここに足を運んだわけではないことを理解する。ゆえに彼女は伸ばして腕を引き戻し、優しく尋ねた。
「あなたの、お名前は?」
レントは応じない。男はただ、少し先の足元だけを眺めていた。
険悪な空気の中でも、レティアは微笑みを絶やさない。彼女は別の質問を投げかけた。
「お仕事は、何を?」
「……魔導師。ギルド魔導師だ」
「あら、魔導師様でございましたか。それならさぞ、魔法がお得意なのでしょう」
男はまた黙り込む。その横顔は、これまでの旅路で抱え込んだ深い迷いを零さぬように、もがき苦しんでいるようであった。
幾度と男性を慰めてきたレティアには、その男の隠す弱さが透けて見える。だから彼女はその男の本心へと触れるべく、酷にも核心を突いた問いを投げかけた。
「今晩はどうしてこちらへ?」
レントはやはり押し黙るが、それはもはやレティアの想定内だった。
「知人には打ち上げられずとも、穢れた娼婦くらいには話せることもございましょう」
その追及に、レントは耐えきれず言葉を紡ぐ。
「……妻が、死んだんだ」




