196.愛の命令 *
「――私は、娼婦の娘だった」
地下街・オラトリアには、その美貌で巷を席巻した一人の娼婦がいた。レティア=トレヴィリナ。しかしながら、彼女がオラトリアで最も歴史ある娼館・鈴と薔薇に籍を置いてから、僅か二年後のこと。彼女はその体に子を宿し、ひっそりとその店を退いた。
生まれた娘の名は、ヴァレン=トレヴィリナ。父親の名も母親の仕事も知らず、その少女は幼少期を過ごす。治安の悪い地下街・オラトリアに子供の姿は少なかったが、それゆえに彼女は逞しく育った。
そして少女は、青年期を迎える。母のかつての職業を知り、彼女は酷く低迷した。
どこか神秘的に見えていた愛という存在が、現実とは乖離していることを知る。その未知に興味を惹かれる一方で、同時にそれを恐れるようになったは、この頃からだった。
そして少女は決意した。愛を知る為、この暗く汚れた街を出よう。恋をする為に、多くの人と出会おう。その手段こそ、ギルド魔導師という職業であった。
少女は暗い街を飛び出し、旅客車へと飛び乗る。向かう先は、王都・ギノバス。多くの希望を胸に秘めて。
ヴァレンは脇差を両手で握り、侍の放つ斬撃を受け止めた。代償魔法同士の衝突は拮抗するものの、秘技魔法を宿した彼女は僅かにその先を往く。誘惑魔法秘技・自律は肉体の限界を顧みず彼女から強制的に魔力を解放させ、遂には敵の太刀をも打ち砕いた。
そこからヴァレンが素早く刃を切り返せば、侍は為す術無く両断される。忽ちにして返り血が飛散するものの、その生温かな感触に気が付くだけの自我など、もう持ち合せていなかった。
束の間、ヴァレンは背後から不意打ちを仕掛ける二人の侍を察知すると、直ぐに刀を振るい魔法刃を放つ。地面と平行になって三日月型に展開されたそれは、二人の敵を一挙に足止めするのに十分な攻撃。しかしながら、敵はその一撃で沈むほど落ちぶれてはいなかった。
侍は太刀を叩き落とし、ヴァレンの魔法刃を相殺する。爆発的な魔力の衝突で太刀は砕け散るが、その破片が偶然にも彼女の右目を突いた。
更にはその偶然を好機と見た別の侍が、ヴァレンへ急激に距離を詰める。一発の斬撃の隙すら惜しいと考えたその男は、狡猾にも一発の突きを繰り出した。
そして魔法刃を耐え凌いだ二人の侍もまた、刀身を失った太刀で闇雲にヴァレンへと立ち向かう。放たれた無数の斬撃は、生身の彼女を無慈悲に斬り裂いた。
ただしその致命傷を経てもなお、ヴァレン=トレヴィリナは立ち続ける。見開いた瞳は執念を燃やし、 受けた激痛を噛み潰すかの如く歯を食いしばる。その女は恋をした男にこそ愛されはしなかったが、ただ魔法の実力にだけは深く愛されていた。
恒常的に発動した強力な治癒魔法が、彼女の命を繋ぎ止める。そして絶えず彼女を流れる魔力は、誘惑魔法秘技・自律の下した命令を忠実に執行した。彼女は激痛を顧みず、背中から突き刺された太刀を振りほどき、握った脇差で狡猾な侍の頸を弾き飛ばす。そこからは流れるように、残り二人の侍を蹂躙した。
ただそのとき、遂に脇差は限界を迎える。刀身は度重なる代償魔法の衝撃に耐えかね、根元から抉れるように断裂した。
そしてその寸暇すら許さぬように、侍たちは仕掛ける。好機の気配を感じ取った三人の侍は、迷わずヴァレンへと駆け出した。ただしそれは男たちの頭領たるアズマの弔い合戦ではなく、あくまで殺戮の渇望を満たすため。侍は誉れを捨て、穢れた欲求に取憑かれていた。
二本の太刀筋は、ヴァレンの頭部へ。しかし寸前でその気配を感じ取った彼女は後方に左手を掲げ、速やかに防御魔法陣を展開した。
その攻防における魔力量は互角。刀身はヴァレンに届かず、防御魔法陣の硬度によって制される。大振りの攻撃を耐え抜いた彼女は、そこから反撃の一手を投じる、はずだった。
間合いに入るのは、更にもう一人の侍。低い体勢から繰り出された一薙ぎは、防御魔法陣を支えるヴァレンの左腕を断った。
そこで防御魔法陣へ流れる魔力の波は乱れ、二本の太刀は遂にその壁を打ち破る。残された斬撃は、ヴァレンの肩と背中を斬り裂いた。
致命傷に継ぐ致命傷。ただそれでも、彼女は倒れない。治癒魔法は代償魔法と呼応し、未来の命を削って今の命を繋ぐ。それは言うなれば、代償治癒魔法。切り離された彼女の左腕は急速に復旧し、斬り裂かれた肉は瞬く間に縫合された。
ヴァレンは再生した左手で拳を握り、すかさず一人の侍にそれを放つ。続けて回し蹴りを繰り出し、一度敵を間合いから遠ざけたところで、彼女は自らの心臓に突き刺さった太刀を強引に引き抜いた。
嗚咽と共に血を振り撒きながらも、彼女はその血に染まった太刀を構える。得物を手にした彼女は、生と死の狭間で咆哮した。
その叫びに一瞬は怯みつつも、侍らは再び駆け出す。この刹那が決戦の境になると踏んだ残り数一〇名の侍たちも、混戦を覚悟に間合いを詰める。それはさながら、どこかの星の舞台で披露される殺陣を連想させた。