195.他人の道 *
幾重もの戦闘が群発し、数多くの命が散ってゆく。一夜にして骸で溢れたギノバスは、ようやく黎明を迎える頃になっていた。
街は僅かに明るくなったが、陥った戦況は芳しくない。一度は敵を退けたヴァレンであろうとも、そのひとときを安らかに過ごすことは出来ない。むしろ彼女は、直面した残酷な現実だけをその視界に閉じ込め、考え得る最善策へと急いだ。
手負いリオ=リュウゼンを、二階の寝室へ。たまたまベッドがあったので、ヴァレンは彼をそこへと寝かせた。小綺麗なシーツには血液が染みてゆくが、今はそんなことを気に留める余裕も無い。
自身も手負いでありながら、ヴァレンはリオへ治癒魔法を行使する。気を失った彼が意識を取り戻すことはないが、それでも外傷は少しずつ癒え始めた。
魔力の限界は着実に迫り来るが、彼女は穏やかな表情で治癒魔法を行使する。目の前の男に尽くせるのなら、もはや何も怖くない。叶わぬ恋に執着する憐れな女か、叶わぬ恋でも献身を続ける純朴な乙女か。そのどちらに映ろうとも、彼女は間違いなく幸せであった。
「……まだ、痛む?」
ヴァレンはふと呟く。勿論、気を失ったリオに応答は無い。それを分かっていながらも、彼女は言葉を綴った。最初から返事など、待ってはいないのだから。
「……そうだよね、顔の傷、痛いよね」
「……私が何とか、してあげるから」
「……私はずっと、あなたの……味方、だから」
割れ窓の向こうは少しずつ明るくなるが、横たわるリオの顔色は暗い。それでもヴァレンは、ただそっと言葉を零す。あくまで、仲間として。
「……私があなたの望みを叶える」
「……絶対に、死なせたりしない」
「あなたが……とても良い人だから」
「……あなたがとても……その……素敵だと思うから」
「あなたが……好き……だから」
そしてヴァレンの頬には、涙が伝う。それでもそこにどんな感情がしたためられているか、彼女には理解出来ない。いや、理解したくなかったのかもしれない。理解してしまえば、彼女は彼女のままでいられなくなるから。
「……でも、もういい。もういいの」
「……私の恋は、他人の歩く道でいい」
時を同じくして、二人の潜む家屋の前には遂に侍らが集う。一階に転がった亡骸の血の匂いが、彼らをそこへ引き留めた。
大将たるアズマ=サカフジを失った今、もう彼らの戦争に目的など無い。それでも代償魔法という強大な暴力が、彼らを殺戮の誘惑へと陥れた。残り僅かな命ならば、他人を蹂躙する快楽に耽りたい。ギノバスの貴族らへ一矢報いるよりも、ただ見境無く人間を貶めたい。そんな穢れた願いの末、侍らはその家屋に足を踏み入れようとする。
答え無き情動の渦中でも、ヴァレンは敵の気配を察知した。そして彼女はひとときの安らぎに別れを告げ、ゆっくりと立ち上がる。それはすなわち、他人の道になる為に。
「……命、賭けるのよ。少しくらい……我儘聞いてもらうから」
そのときヴァレンは、リオの脇差へ手を伸ばす。脇差といえども、それは侍の魂。彼が最後までその刀を抜かなかったのはきっと、悪しき魔法に堕ちようとも、まだ侍でありたかったから。
その意図を解しながらも、ヴァレンは脇差を取り上げて、その刀を鞘からゆっくりと抜き出す。そこから溢れるのは、息が苦しくなるほど悍ましき魔力。それが代償魔法の強制付加術を行使された魔法剣であることは、もはや誰にでも想像がつく。
「……ごめんね。みんな」
そしてヴァレンは、その刃で舌を裂いた。垂れた血液は、少し唾液と共に刀身へ零れ落ちる。
右手に握った愛銃は、愛する人の脇差へ。磨き続けた魔法の数々は、強制付加術によって得た代償魔法へ。全てを塗り替えたヴァレン=トレヴィリナは、積み上げたものの喪失に感傷を覚える間も無く、二階の窓から飛び出した。
やや明るくなった戦場に、もう強化魔法・暗視は必要無い。その魔力はひっそりと、二階へ眠るリオの治癒魔法に割り当てた。そんな緻密な魔力操作を経て、遂に彼女は再び戦地へと帰着する。
一階へ侵入するべく歩を進めていた侍は、着地音と悍ましき魔力を察知した。しかしながら、その存在は彼らの背後。振り返るには、時間が足りない。
ヴァレンは脇差を振りかざす。剣術の心得は無いが、彼女は器用にも魔法刃を繰り出した。それは技の完成度が低くとも、代償魔法という理不尽な力を宿して敵へ襲い掛かる。二人の侍の腹を両断するには、容易い威力だった。
しかし二人ばかりの敵を制圧したところで、戦況は何ら変わらない。ヴァレンの周囲を取り囲むのは、二〇名弱の侍たち。その絶望の最中で、彼女に残された選択肢はたった一つだった。
残存魔力など、考慮してはいられない。彼女が選んだ魔法は、誘惑魔法秘技・自律。自らが自らへ下した命令は、侍の殲滅。否、愛する人を守れ。