194.死線からの逃避行 *
ヴァレンはすかさず銃を握り直し、引き金へと指を掛ける。洗練された早撃ちは、侍の頭部を吹き飛ばした。
逆境の渦中、その魔導師の魔道は途絶えない。左側方から忍び寄る侍は、瞬時に左手に持ち替えた愛銃で。前方に立ちはだかる侍は、その太刀を見切ったうえの掌底で。敵が代償魔法という理不尽な力を手にしたところで、ヴァレン=トレヴィリナは止まらない。ときに人を無償の献身へと誘う愛は、人間という生き物の背負った業なのかもれない。
ただしその快進撃は、約束された勝利の道と必ずしも同義でない。極限状態の中で魔法を行使し続けるヴァレンの体は、遂に悲鳴を上げた。視界は徐々に霞み、鼻血が垂れ始める。それはすなわち、魔力負荷の重篤化を意味していた。
前方に立ちはだかった侍の一振りを回避するべくして、ヴァレンは柔軟に体を捻る。それでも視界の霞みはその太刀筋を完全に捉えることが出来ず、彼女はその剣先を遂に体で浴びた。傷は浅くとも、その刃は彼女の右手を広範に斬り裂く。忽ち血が噴き出し、握った魔法銃は手から滑り落ちた。
銃を拾うか。それとも先に敵を討つか。ヴァレンが咄嗟に下した判断は、後者。強化魔法・剛力を武器に、彼女は左手での掌底を跳ね上げた。
幸いその侍は油断から防御魔法陣を展開出来ず、ヴァレンの攻撃は真正面から突き刺さる。敵は倒れ、道は再び拓かれた。ただそれでも、彼女に得物を拾うだけの猶予は存在しない。こよなく愛してきた魔法銃は路上へと転がり、そこで無常に空を眺めた。
突然の惜別。しかしヴァレンは、前に進まなければならない。彼女は自分でも驚くほどに易々と、愛銃を捨て置いたまま駆けることが出来た。幼き日の銃への恋と、叶わない男への恋。彼女は知る由も無いが、確かに彼女は愛を選別したのだ。
ただ残酷にも、次なる敵はまたしてもヴァレンの前へ立ちはだかる。居合わせた二人の侍は息を合わせ、進撃する彼女に太刀を差し向けた。
銃を失ったヴァレンに、無事で敵を突破する手立ては無い。悔しさを噛みしめながらも冷静に判断した彼女は、たまたま側方に残されていた崩壊寸前の家屋へと飛び込んだ。
蝶番の外れ駆けた木造の扉を、勢いよく蹴り開ける。その一撃で家屋が倒壊するか否かは、ある種の賭けであったが、ヴァレンはそれに勝利した。ただそんな些細な勝利に一喜一憂するほど、能天気ではいられない。彼女は薄暗い室内を武器にすべく、直ぐに強化魔法・暗視を行使した。
その間にも侍は、続々とヴァレンへ迫る。彼女が強化魔法を纏う俊足で振り払っていた後続の侍たちも、遂に彼女の元へと追いついた。
合流を果たした四人の侍は、家屋へ堂々と押し入る。暗がりを恐れず、男たちは一室を進んだ。そして一人の侍が無策に太刀を振るい、家財を叩き斬って威嚇したときこそが、ヴァレンの願った好機。
部屋の奥にリオを寝かせたヴァレンは、一切の躊躇なくその侍の懐へと迫る。手にしたのは、たまたま辺りに転がっていただけの割れた瓶。鋭利な先端を敵の胸部へ向けると、彼女はそれを両手で強引に押し込んだ。
ただの空き瓶であろうと、強化魔法・剛力を宿した一撃は、生身の人間を引き裂くのに容易い。侍の着物は瞬く間にして赤へ染まり、男はそのまま無力に倒れ込んだ。
ただ同時、瓶は衝撃に耐えきれず砕け散る。硝子片はヴァレンの手を切り裂き、飛び散った破片が彼女の頬を薄く斬り裂いた。
そして更にそこへ迫るのは、二人の侍の斬撃。満身創痍のヴァレンを叩き斬るべくして、男らは太刀を振った。
ただ狭い室内で、太刀は十分にその強みを発揮出来ない。それはヴァレンが意図したものではなかったが、偶然から選択した環境に彼女は救われる。僅か先に太刀を振るった侍は、向かい合ったもう一人の侍を豪快に切断した。
突然の同士討ち。それでも異常なまでに奮い立った侍は、その程度の事象に揺らがない。返り血を浴びた侍はむしろ冷静に、振り下ろした刀を勢い良く跳ね上げた。
ヴァレンは半身を引くが、やはりその刃は躱しきれない。刃先は彼女の衣服を破り、左脇腹を縦に引き裂く。
しかしながら、彼女は倒れない。執念で絞り出したのは、右の拳。そこに束の間にして激しい光を纏ったのは、不完全でありながらも強化魔法秘技・解放の兆候であった。
威力は秘技魔法に届かずとも、その一撃は圧倒的な破壊力を生んだ。突然の秘技魔法へ対峙した侍はすかさず防御魔法陣を展開したが、それは忽ちにして破砕される。
侍は肉塊となって飛び散った。そしてそれは偶然にも、その後方を位置取っていた四人目の侍を急襲する。暗闇を高速で飛び交う人間の骨や肉は、いわば凶器。最後の侍は、同士の生温かな部品を浴びて死に絶えた。
そして屋内戦は、偶然へ愛されながらも終結する。ふとして訪れるのは、敵の居ない僅かな猶予。それでもこの戦場の中心で新手が訪れるのは、もはや時間の問題であった。