187.厄災への第一歩 *
ニ術の伏兵。忍の頭領であるハッタ=クラトリが冠したその名の所以は、遂に明かされる。男が行使したのは、幻魔法・二重身。
フェイバルの視界には、無数に分裂するハッタの影が連なった。希少なその魔法を前に、彼の思考は僅かに揺らぐ。視界は逸らさずとも、その中から本体を探るのは困難を極めた。
次の瞬間、群れを成したハッタは一斉に仕掛ける。刀を抜いた男らは、縦横無尽にフェイバルへ接近した。
「……仕方ねーか」
フェイバルの選択は、光魔法秘技・神速。彼は自らの肉体を実体の無い光へと変化させ、光速をもって窮地を脱する。
しかしながら、いまだ傷の癒えぬ男に秘技魔法は堪えた。フェイバルは直ぐにその魔法を解除したものの、口からは血液が滴る。それはまさに、魔力負荷が男を蝕んだ証といえる。
群れを成すハッタは忽ちにして陣形を立て直し、鈍ったフェイバルの元へと迫った。そして状況は、再び回帰する。
それでも咄嗟に選択した光魔法が、偶然にもその突破口を開いた。幻魔法とはあくまで幻影を生み出す魔法であり、その論理は光の屈折を因果とする蜃気楼の類い。故にフェイバルの発した強烈な光は幻魔法の効果を打ち消し、発現する幻影の精巧さを半減させた。
束の間、フェイバルは熱魔法・装甲を行使する。高熱を宿した右腕は、懐へ忍ぼうとするハッタ本体を真っ直ぐに狙った。
ハッタは自らの幻魔法が看破されたことを悟る。ただし既に刃の間合いまで距離を詰めた男に、退くだけの猶予は無い。
隠匿を貫く忍は、勇ましき武士へ。握った刀は太刀ほどの間合いを持たずとも、それは紛れもなく侍の構え。男は、正統派な剣術にも覚えがあった。
身を翻し、その全霊の一刀を叩き込む。鋭い逆袈裟は、フェイバルの命脈を狙った。
対してフェイバルは、素手をもってその斬撃へ挑戦する。それは一見すれば正気の沙汰では無いが、無論男は勝機を見てこの行動をしたのだった。
「……これが本当の魔法の力だ、馬鹿野郎」
フェイバルは、落ち着いた声色で呟く。それでも彼の突き出した拳は刃を正面から受け、虚しくも横一文字に斬り裂かれた。対してそれを受け止めたハッタの刀もまた、大きな報いを受ける。魔装加工が施されていたはずの刀は、恒帝の魔法によって打ち砕かれたのだった。
ハッタの握る得物は刃先を失い、その役目を終える。その光景は、男へある光景を想起させた。
時は数日前。遙か昔のことのように感じるのは、その日が男とその仲間にとって、命運を分かつ日となったからだろう。
夕刻から数時間後のこと。自治区・ミヤビの中央にそびえる天守に潜んだのは、雅鳳組の誇る隠密部隊・忍であった。
ハッタは忍の頭領として諜報魔法・不可視を行使し、群れの先頭を駆け抜ける。天守に務める役人の男らは、その目に見えぬ襲撃へ対抗するべく、慣れない魔法剣を抜いた。しかしながらその杜撰な抵抗は、訓練された忍らにとって何ら問題とならない。
その戦場はいわば、忍が代償魔法を試行する初の舞台であった。そしてハッタもまた、初めてその力を奮う。アズマから語られた堕天使魔法なるものはにわかに信じ難かったが、それでもその男は疑うことはせず、彼はこうして戦場に立った。
ふとしてハッタの前に立ったのは、威勢良く声を荒げる役人の男。鼓舞するべくして声を張ったのだろうが、やはりその男の顔には畏怖が垣間見える。忍の頭領には、容易い獲物であった。
代償魔法を試行すべく、ハッタは刀を抜いた。続けて男は、その刀を容赦せず振るう。目の前に立つ役人の男は闇雲にも中段で太刀を構えていたが、ハッタの繰り出した一撃はその太刀すらも両断し、敵を仕留めた。
役人の男は訳も分からぬままに、肩から斜めに差し込んだ刃で体を切断される。畏怖を覚える暇すら無く、その男は多量の血を撒き散らして息絶えた。
皮肉にも、畏怖を覚えたのはハッタの方であった。魔装加工の施されたミヤビ式刀剣すらも両断する、恐るべき魔力。代償魔法は、人智を超えた力をもたらした。その事実が、彼の手を震わせる。
しかしハッタには、ここで自らの力に畏怖している余裕など無い。彼がアズマ受けた命とはすなわち、将軍の暗殺。もはやここで立ち止まることは出来ないのだ。
ハッタはもう一度強く刀を握り、また駆け出した。向かうは、天守の最上階。
折れた刀。そこでハッタは、フェイバルの呟きの真意を理解する。堕天使魔法を使おうとも、純然たる魔法のみで舞う恒帝には敵わない。借り物の魔法では、本当の魔法を越えられない。
「……そうか……そうだよな。だから私は、侍にはなれない」
両者が負ったのは、いまだ軽い傷のみ。それでもフェイバルは、敵の決心が大きく揺らいだのを悟った。彼はそこを不意打ちすることも出来たが、それをするのは気乗りしないので、ただ対話を試みる。
「……何だ、辞めるのか。もうお前ら、引き返せないんだろ?」
ハッタは戦意の喪失を隠さずに呟く。
「引き返せない。でも、もう前にも進めそうにない」
男は繊細だった。それでもフェイバルはそこへ付け入ることはせずに、ただ言葉を交わし続ける。
「お前は賢そうだ。だからこそ、この戦争の行く末を何となく察していたんだろう」
「……そうだな。いくら代償魔法があろうとも、あまりに相手が悪い。結末に確信を持ったのは、一日目の夜くらいだ」
「それでもお前は逃げられなかった。忍の頭領だからか?」
「それだけじゃない。私は隣で、追い詰められるアズマの見続けてきた。あいつを放って逃げ出したなら、私は死んでも死にきれない」
「……そうか。ならどうする? 殺せだなんて、頼んでくれるなよ」
そこでハッタは一度黙り込む。それは男の脳裏に、同じ選択肢が浮かんでいたからだろう。
「……アズマに拠れば、代償魔法とは堕天使魔法の一種。奴はそれを授けられるにあたり、実際に堕天使なる存在へ接触したと語った」
「……何の話だ」
「授けられるにあたって、アズマには幾つかの条件が提示された」
「――穢れを払い世を正すまで、その魔法を愛せ」
フェイバルはその言い回しを理解出来ずに押し黙る。ハッタは続けた。
「代償魔法を手にした以上、ある目的を為さずして立ち止まることは許されない。つまり私がここで戦闘を放棄したなら、私は契約に反したことになる」
「……そうしたら、お前はどうなる」
「殺されるのだろうな。伝承に拠るなら、人間は天使の前に無力。きっと堕天使でも同じだろう」
そのときフェイバルは、ある可能性へと辿り着いた。思い出したのは、オペレーション・バベルの一件。病床に伏していた彼は後になって聞いた話だが、革命の塔に関係した生存者の二名が、一夜にして不審な死を遂げたのだという。
仮に洗脳魔法が同じ堕天使魔法であったなら、それに関わりながら革命を果たせなかったエルとラヴィの不審死もまた、堕天使による制裁であると考察出来る。
そしてそんな一筋の可能性に辿り着いたとき、フェイバルは意を決して言葉を紡いだ。
「……ハッタ、とかいったな。一つ提案がある」
「……今頃になって、何だというんだ」
「俺に協力しろ。堕天使とかいう化け物を、この一件で止める為にだ」