186.表裏の主 *
ふとした爆発から僅か数秒経ち、周囲には煙が巻き上がる。半身を引いたフェイバルは、またも投擲された炸裂魔法具を回避した。
その煙を顧みずに歩むのは、ハッタ=クラトリ。男は一度息を整えるべく、あえてゆっくりとそこを進んだ。
激戦の最中で小休止を欲していたのは、フェイバルも同じこと。彼もまた、一度体勢を楽にして控えた。
ふと視界を側方に移せば、そこに映るのは屋根上に連なった氷結の森。凍てついた氷床と、空へ伸びる鋭利な槍の数々。氷魔法・独壇場とその他の放出系魔法を連携させて繰り出す戦術は、かつて彼の傍に居た一人の魔導師を想起させた。
「……まったく、どうして魔法まであいつに似るんだか」
フェイバルはふと呟く。彼が想うは、極冠の巫女・クアナ=ロビッツ。彼女と氷見野玲奈は、容姿のみならず魔法戦闘の型までもが歩み寄りつつある。少なくとも彼にはそう思えた。
そんな回想も束の間に、フェイバルはハッタを挑発する。
「さて、お前の部下たちは、俺の拾った新人魔導師ちゃんに始末されちゃったみてーだが」
ハッタは挑発に乗ることなく応じた。
「……そうですね。実戦経験の不足だけは、もはや埋め合わせのしようがない」
「あらら、意外と素直じゃねーの」
「ええ、事実ですから」
ここでハッタの声色は、ふと暗い様相へと落ちた。
「それでも、やらねばならんのですよ」
再び抜いた刀は、血を欲してぎらぎらと輝く。纏った魔法は代償魔法。男には、命を削ってでも叶えなければならない正義があった。
自治区・ミヤビには、古くからの世襲制が根強く残る。それはミヤビの実質的な統領たる将軍職のみならず、自治組織・雅鳳組の局長職と、同組織内の誇る隠密部隊・忍の頭領も同じこと。アズマ=サカフジは代々の局長を輩出する一家の跡目であり、ハッタ=クラトリもまた忍の頭領を育成する一家の有望な跡目であった。
雅鳳組は実働部隊。故にそこを率いる二つの地位には、跡目となった者がまだ若いうちから就任する。アズマ=サカフジとハッタ=クラトリの出会いもまた、その慣例と共にあった。
「――あんたが忍の頭か」
「――ええ。ハッタ=クラトリと申します。あなたの名は、アズマ=サカフジ。歴代に類を見ない剣豪で、敗北はおろか、握った太刀を毀したことすらないと」
「――アズマさん。どうです? その地位には慣れましたか?」
「――さて、どうだかねぇ」
「――なんだハッタ。茶屋にお忍び訪問だなんて、忍は暇なのか?」
「――ええ、暇ですよ。でもそれが、裏の主たる私の務めです」
「――アズマさん、最近忙しそうですね。やはり、将軍の件で?」
「――奴のギノバス側への肩の入れ様には、もううんざりだ。でもこれも多分、表の主の務めだろう」
「――アズマさん、これは……」
「――ああ。このまま事が運べば、雅鳳組は消滅する」
「――アズマさん、この直訴状の束は……」
「――騎士設置法案に対する、組内部からの反対の訴え。こっちは、組の外からのだ」
「――アズマさん」
「……少しだけ、考える。待っててくれ」
「――アズマさん」
「……」
「……ハッタ」
「――何でしょうか、アズマさん」
「……力を貸してくれるか」
天候に恵まれない日の夜。局長の執務室に呼ばれたハッタは、そこである一枚の紙切れを目にした。
「……これは、一体?」
「……堕天の導き。その中の、たった一ページを切り離したもの」
教養のあるハッタは、その書の名前に覚えがあった。
「堕天の導き……? それは確か、伝承の中で囁かれる程度のもので、実在などするはずが――」
「そうだ。その程度の存在だ。でも俺はどういうわけだか、そいつに出会ってしまった」
「そいつ……?」
「ニットリア=トラジェディト。奴はこの紙切れを俺へ差し出しながら、そう名乗った」
「その名前は確か、地に堕ちた天使。凶悪な魔法の数々を生み出し、天界を追われた者の名」
「俺もそこまでは、柄の悪い悪戯だと思ってた」
そのときアズマは、携えた太刀を抜いた。ハッタは驚愕を露わにする。
現れたのは、刀身の抉れた無惨な太刀。刃毀れすら許さないはずの剣豪は、遂にその得物を損なっていた。
「……俺も気が立ってた。妄言を撒き散らす不埒な輩を叩き斬る。それで終わるはずだった」
「ならその刀は、ニットリア=トラジェディトにやられたと……?」
アズマは黙り込む。それが肯定だと理解したハッタは無意識に顔を引きつらせるが、アズマはそれに構わず話を戻した。
「堕天の導きは、完全無欠の魔導書。切れ端に魔力を送れば、その魔力の主に堕天使魔法が宿る」
「なら、アズマさんはもう……!?」
「……ああ。この切れ端に刻まれた魔法は、代償魔法。俺が今後行使する魔法には命の償いが上乗せされ、それを対価に俺の魔法は超越的な力を手にする」
そして男の話は続いた。
「切れ端に送る魔力は、微細なもので差し支えない。例えば魔法の訓練後に微細な魔力が残存した魔法剣でも、だ」
「……つまりアズマさんは、雅鳳組の組員全員にこの魔法を植え付けると?」
「そうだ。この魔法をもって、ギノバスへと挑戦する。全ては、ミヤビの誇りを守る為に」